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愛する地球への儀式(チャールズ・アイゼンスタイン)

訳者コメント:
聖なる経済学、第5章「お金の力」の注からリンクされていたチャールズのエッセイです。発表されたのは2009年ですが、今読み返しても示唆に富むものです。世界と、それを支える物語と儀式は、決して一つしか有り得ないわけではなく、現代社会が危機に陥り、世界観そのものが時代遅れになるとき、新たな世界を作り出す物語と、それを支える儀式が、意味を持つようになってくるのです。


愛する地球への儀式

2009年12月10日

呪術師は聖なる癒しの部屋の外の玄関に入る。儀式用の衣装を身にまとい、儀式的な沐浴を行い、これから始まる癒しの儀式のために身を清める。同じ仮面をつけた呪術師と弟子たちは、他の者の立ち入りが一切禁じられている部屋に入る。彼らが癒す男は、別のシャーマンが魔法の霊薬を使って深いトランス状態に導いた後、準備が整っている。部屋の中には儀式用の道具があり、それら自体もきよめられており、秘儀を受けた者以外は触れることが許されていない。呪術師は弟子から手渡される道具を順番に呼び出す。彼はそれらを使って、病人の体の一部を切除する儀式的な傷つけを行う。トランス状態から目覚めると、男は魔法のように癒されるが、癒しの神殿の敷地を離れる前に、さらにいくつかの儀式が必要となる。

この複雑な癒しの儀式を行うことを許されるには、呪術師は数々の試練、入会儀式、そして特別な秘儀言語の習得を含む長年の訓練を経なければならない。訓練を終えると、彼は熟練者の同胞団に迎え入れられ、その名前には象徴的な接尾辞が付けられる。彼は神聖な誓いを立て、古代文字で神秘的なシンボルが刻まれた証紙を授けられる。それ以降、彼は民衆から敬意をもって扱われ、地位に伴うあらゆる特権を与えられる。


今述べたのは、現代の病院で資格を持った医師が行う外科手術のことです。ここに儀式の要素はすべて揃っていますが、私たちは通常、それを儀式とは見なしません。「あれは儀式などではない」と私たちは言います。「なぜなら、手洗い、手術用マスク、専門的な訓練といった行為の一つ一つに、非常に合理的で確かな理由があるからだ」と。儀式は、何か非合理的なもの、魔法のようなものに根ざしているに違いなく、もし何らかの効果があるとすれば、それは純粋に心理的なものだ、と私たちは考えています。儀式は別のカテゴリーの行為で、今日の合理的で科学に基づいた社会ではほぼ排除されてしまったと私たちは考えています。儀式の例を挙げるとすれば、カトリック教会での聖体拝領スウェットロッジの儀式、あるいはディスカバリーチャンネルで紹介されている先住民の儀式などを挙げるかもしれません。

私は、現代社会における儀式の普遍性を明らかにし、儀式を変革の手段として活用する方法を示す、儀式に関する新たな概念を提示したいと思います。この定義を少し掘り下げてみましょう。儀式とは、世界の物語から意味と力を引き出す、定められた一連の象徴的な行為です。そして、儀式はその物語を強化し、肯定するのです。

では、「世界の物語」とは一体何でしょうか。ここで言う物語とは、人間の意図を集中させ、役割を割り当て、活動を調整し、何が現実であるかを語る、意味と説明の体系を意味します。例えば「お金の物語」は、私たちの貨幣システムを構成する紙切れや情報に意味を与えます。ワイマール共和国や1993年のユーゴスラビアのように、その物語が崩壊すると、お金は単なる物理的な基盤に過ぎなくなります。

人々を物語に引き込むことができれば、自分の手で築き上げるよりもはるかに大きなものを作り出すことができます。家を建てるというごくありふれたことでさえ、人々が信じる物語を語る必要があります。「ここに家が建てられる」という物語には、労働者の給料、資材の納入契約、支払予定などといった要素が含まれます。これらはすべて象徴です。物理的なレベルでは、労働者の給料はインクの染みがついた紙切れに過ぎません。それらが力を持つのは、それらを埋め込んだ物語、つまり参加者全員が信じる物語があるからに他なりません。しかし、異星人の人類学者なら、神聖なめいが刻まれたこれらの魔法のお守りに対する私たちの懸念を、見下すように笑うかもしれません。建設契約書も同じで、署名者それぞれの神秘的な個人印が刻まれ、配送契約書には、指定された日にトラックで実際に希望の資材が届くという迷信的な信念のもと、何列にも記号が書き込まれています。

現代の私たちの生活は、私たちが生きてきた世界の物語を支える小さな儀式で満ち溢れています。これは何も異常なことではなく、昔から変わらないことです。しかし、私たちは歴史上特別な瞬間に差し掛かっています。古い物語が終わりを迎え、新しい物語に取って代わられようとしているのです。私たちは二つの物語、実際には深く絡み合った二つの物語から抜け出そうとしています。一つ目は「自己と世界」の物語です。私たちは個別の存在であり、互いに、そして私たちを包含する客観的な宇宙から根本的に分離しています。二つ目は「人々の物語」です。それは「人類の上昇」の物語であり、科学技術によって私たちは自然への依存状態から脱却し、自然を支配し、自然から独立し、自然を凌駕する存在へと成長していく物語です。この物語の完成形は、宇宙植民地化と不老不死という宿命であり、コンピュータ、ナノテクノロジー、遺伝子工学によって自然を完全に支配し、自然の制約から解放されるのです。これらの物語は、さらに小さな物語、つまり物語の中に物語が埋め込まれており、私たちの世界で合意、意味、象徴に依存するあらゆるものを含んでいます。ですから、私が言ったように、お金は物語です。政府も物語です。アメリカ医師会も物語です。法律も物語です。日付と時刻も物語です。学位も物語です。専門資格、信用格付け、あらゆる財産の所有権、航空管制システム、すべてが物語なのです。

これらの物語を支える儀式には、小切手を書く、契約書に署名する、切手を貼る、列に並ぶ、投票する、書類に記入する、報告書を書く、成績をつける、ラベルを貼る、提案書に署名する、許可を求める、入国審査でパスポートを見せる、Facebookで友達になる、車両を登録する、スケジュールを立てる、劇場のチケットを使う、訴訟を起こす、領収書を発行するなどといった行為が含まれます。これらの行為が、私たちの社会の根底にある物語の網をどのように維持しているかは、容易に理解できると思います。一方、手指消毒剤を使う、予防接種を受ける、電話をかける、薬を飲む、コンドームを使う、試験勉強をする、飛行機の安全点検を行う、手術を行う、庭に植物を植えるといった行為の儀式的な性質を理解するのは、おそらくもっと難しいでしょう。これらは、私たちが物理的現実と呼ぶものの根底にある、はるかに深いレベルの物語に触れています。ここでは、このレベル、つまり象徴の形而上学〔象徴が、目に見える感覚的な現実と、目に見えない知覚を持った現実とをつなぐ存在論的な架け橋だということ〕、語り手の存在論的地位〔どのような形で存在しているか、実在するのか、構成されたものか、あるいは単なる虚構か〕などについては、あまり詳しく論じません。私たちが客観的だと考えている物理法則は、実は私たちの自己認識や、自己と世界を定義づける「存在とは何か」という物語を、深いレベルで反映しています。しかし、今の私の目的は、こうした深遠な形而上学的物語をくつがえすことではありません。今は、社会的な現実を創造する物語や儀式について主に語りたいと思います。それだけで、私たちが今日想像するよりもはるかに美しい世界を創造できるでしょう。

私たちの文明の根幹を成す物語が終焉に近づくにつれ、それらに由来し、それらを支えてきた儀式は次第に陳腐化していきます。儀式は私たちの生活の理屈に継ぎ目なく溶け込むことができなくなり、まさに「儀式」そのもののように見え始めます。その意味は流失していきます。以前の何編かのエッセイで、私はこれが私たちの言語にも起こっていること、つまり言葉が魔法を失い、意味の危機を引き起こしていることを述べました。これを私がはっきりと感じるのは、ソフトウェアをダウンロードしたり、オンラインで買い物をしたりする際に、「利用規約」というタイトルの法律文書がびっしりと並んだスクロールウィンドウの下にある「同意する」ボタンをクリックしなければならない時です。そうすることで、私は契約を結んでいることになります。契約contractとは〔con- 共に、tract 引き出す〕、誓いを立てたり、血を流したりといった古代の神聖な儀式に由来する概念です。政治哲学や法哲学では、「契約の神聖性」という言葉をよく目にします。しかし今日では、私たちが締結する数多くのオンライン契約は無意味な形式的なものだと認識しており、「私はこれらの利用規約をすべて読み、同意します」と断言しても、嘘をついているという感覚はもはやありません。

同様に、私たちの社会のより重要な儀式的基盤の多くも崩壊しつつあります。例えば、金融当局者の儀式的な呪文は、もはや経済に意図した効果を発揮していません。医療儀式も効果を失いつつあり、私たちは慣れ親しんだ物語を維持しようと必死になり、その原因を「スーパーバグ(超多剤耐性菌)」や「患者の非協力」、あるいは謎の「遺伝的要因」に帰していますが、実際には、私たちの医学の根底にある「細菌との戦い」と「自然の征服」という深い物語が終焉を迎えつつあるのです。教育制度においても同様のことが起こっており、標準化、「クラス」分け、工業製品のような「等級」付け、そして個人の権威への従属といった、工場のパラダイムに基づく無数の儀式は、ますます効果を失いつつあります。そして最後に、政治の儀式は、選出された政治家たちが、自分たちも聴衆も実際には信じていない、かつて神聖視されていた原則を冷笑的に持ち出すという、露骨な茶番劇と化してしまいました。彼らが約束を守れなかったり、支持者のほとんどが賛同しない政策を実行したりしても、私たちは失望することさえしなくなっています。なぜなら、選挙公約という儀式は、もはや明白に、ただの「儀式」に過ぎなくなってしまったからです。

儀式は世界の物語に自然に織り込まれているため、儀式として認識されることすらありません(例えば、小切手を書くことなど)。それらが「儀式」へと変化し始めると、私たちはその世界の物語が崩壊しつつあることを悟ります。今日、私たちの文明を支えている儀式に起こっていることは、過去にも起こったことであり、儀式と呼ばれるものの、実際にはカギ括弧付きの「儀式」の、無力な遺物だけが残されています。私たちは、郷愁や伝統への敬意、あるいは他の文化から借用することで現代生活の失われた神聖さを取り戻そうとする試みとして、これらの儀式を行うかもしれませんが、それらを支える物語を信じているのでなければ、ほとんど効果はないでしょう。

にせの儀式、「カギ括弧付きの儀式」の例をいくつか挙げてみましょう。私が参加したスウェットロッジの儀式は、ほとんどすべてが偽の儀式で満ち溢れていました。たとえそれらが、起源となった先住民の伝統に定められた手順を厳密に守っていたとしても、かつて本物だったものが偽物になってしまっていたのです。それは、私たちが、かつて儀式が組み込まれていた世界の物語を本当には信じていなかったからです。かつて、ネイティブアメリカンの火守ひもりが祖先を呼び出すとき、彼の語りの基になっていた世界観では、祖先は実在していて、おそらく肌で触れることのできる存在だったのです。彼が「四方」Four Directions〔東西南北の4つの方角、4つの季節、そして人生のサイクルである生・成長・老い・死〕を呼び出すときも、四方が多くの物語と相互に結びついた、疑う余地のない、彼の世界観の基本的な柱である体系に基づいて語っていました。それは、私たちにとって陽子、中性子、電子がそうであるように、彼にとって疑いようもなく現実的で客観的なものでした。しかし今日、私たちは全く異なる物語に浸っています。祖先が私たちの人生の出来事に関与することはなく、四方が地図上の単なる点に過ぎないという物語です。科学が現実の基本的な理解を定義し、この現実像には祖先や精霊、あるいは世界を創造した祖母蜘蛛Grandmother Spiderの入り込む余地はありません。たとえ私たちがそれらを信じようと努力しても、信じることはできません。「これは現実ではない」という感覚が常に心の奥底に潜んでいます。伝統を尊重したり、大地や精霊との繋がりを取り戻したりといった感情に基づいて何かを信じたいと願うことは、実際に何かを信じることと同じではありません。信念は単なる頭の中の霧ではなく、行動として現れるものなのです。

数ヶ月前、私は純血のネイティブアメリカンが主催するスウェットロッジに参加しました。儀式は丘の頂上で行われ、セージの煙で身を清める場所、ロッジの規則を聞く場所などがありました。それぞれの儀式は、より大きな儀式の中に含まれていました。しかし、最大の儀式、つまり体験全体を包含する儀式は何だったと思いますか。丘のふもとで、参加する前に免責同意書に署名しなければなりませんでした。体験全体が法的枠組みの中で行われ、その最初の儀式は「法の物語」を最優先にしていました。このスウェットロッジが人生を変える体験だと感じた人は誰もいなかったと思います。少なくとも私はそう感じませんでした。唯一の本物の儀式は免責同意書への署名でした。それ以外はすべて「儀式」に過ぎませんでした。

確かに、非常にパワーのある人物が、人々の集団を自身の世界観に引き込むことは可能です。言い換えれば、その世界観を完全に信じ込み、信じない人々に代わってその信念を担うことができるということです。私もそのような儀式を経験したことがありますが、私の人生においてそれは非常に稀なことでした。先ほど述べた事例では、儀式の本質が、それとは異質で敵対的な物語に譲り渡されたことで生じた、不誠実さ、儀式の完全性の侵害を感じ取ることができました。

読者の皆さんがいつか、本当に祖先を呼び出すことができる人物と出会う機会に恵まれることを願っています。そのような人物は、「祖先を呼び出したいのですが…」などとは決して言いません。これは本物の呼び出しから二歩も離れていますし、「祖先を呼び出します」と言うのも、一歩離れています。彼は祖先に直接語りかけ、その呼び出しの中に真実を聞くことができるでしょう。そこにいるあなたは祖先の存在を感じ、頭では疑念を抱くかもしれませんが、心は決して疑わないでしょう。その感覚は紛れもないものです。今日では特別な瞬間にしか体験できませんが、古い物語が崩壊し、祖先が再び居場所を持つ世界の物語へと私たちが再び足を踏み入れるにつれて、この体験はますます頻繁になるでしょう。人生はそれによってはるかに豊かになるのです。

現代の人類は、人々の新たな物語、自己の新たな物語、そして世界の新たな物語へと移行しつつあります。私は時折、それを「愛する地球との喜びにあふれた共創的なパートナーシップの中で生きる、つながりのある自己」と表現します。「お金と時代の転換」の中で、愛する地球というパラダイムについて少し説明しました。もはや私たちは、地球という母から、どれだけ与えることができるかなど考えずに、ただ受け取る権利を持っているかのよう扱うことはありません。そのような関係は、子供にとっては適切なものです。私自身の子供たちには、自由に受け取ることを望みます。どれだけ与えることができるかは、私自身が決めることです。しかし、愛する者との関係は異なります。愛する者に対しては、受け取るだけでなく与えることも望み、共に創造することを望みます。それぞれが、私たち一人ひとりを超越する目的に向かって才能を捧げ、私たちの結びつきが個々の総和よりも大きくなるように。こうして、人類と地球が一体となって新たな存在となりつつあります。私たちの神聖な結びつきから、第三のものが生まれるでしょう。自然との分断が極限に達した時、私たちは地球に恋をしたのです。その瞬間は、おそらくこの美しい惑星を捉えた最初の衛星写真によって象徴されたものでしょう。

つながり合う自己とは、相互共存インタービーイングの自己であり、知的な概念としてだけでなく、感覚的な経験として、自らの存在そのものが他のすべての生き物の存在を含んでいることを悟る自己です。デカルトやアダム・スミス、ダーウィン生物学の自己とは異なり、「私の分が増えれば、あなたの分は減る」というのは真実ではありません。それは「贈り物ギフト」の自己であり、私たちが他者に対して行うことは、おなじように自分自身に対しても行うのだと知っている自己です。そして、私たちが自分自身に対して行うことは、実際には同じように他者に対しても行っているのだと知っている自己です。そのような自己はもはや、非人格的な力と無個性な質量からなる物質的な宇宙に生きているのではありません。そのあらゆる選択が宇宙を揺るがし、宇宙で起こるすべてのことは、何らかの形で自己の内側でも起こるのです。

儀式が古い世界を創造し維持してきたように、私たちもまた儀式を用いて新しい世界を生み出す物語を創造し維持することができるのです。儀式は、物語の母体マトリクスを形成するあらゆる行動や信念の中で特別な地位を占めています。儀式は、その物語の中にある真実と私たちを結びつけます。儀式は、現実を創造するための最も強力な道具のひとつです。ですから、もしあなたが愛する地球と共創的なパートナーシップの中で生きる、つながり合う自己の世界の創造に参加したいと願うなら、この新しい物語を力づけ、創造する儀式を行うことをお勧めします。新しい物語の中で、それらは自然で真実であるため、簡単に認識できるでしょう。それらは「儀式」ではなく、新しい現実の不可欠な一部です。その内側から見れば、それらは理にかなっています。分断の観点から見れば非合理的ですが、再合一の観点から見れば、非合理的でも魔法のようでもありません。しかし、それらは神聖なものと感じられるでしょう。

小さな例を考えてみましょう。リサイクルや堆肥化などのためにゴミを分別することです。昔ながらの考え方では、罰金を避けるためでなければ、これは全く非合理的です。埋立地が数インチ低くなったところで、あなたにとってどんな利益があるでしょうか。力と質量の客観的な世界では、あなた一人がリサイクルするかどうかは全く関係ありません。大量のプラスチック包装品を買ったり、ブラジルのジャングルを伐採して飼育された牛肉を食べたりしても、トイレで流す水を少なくして毎日数ガロンの水を節約しても、やはり関係ありません。どちらにしても、破壊の巨大な流れは止まりません。これらの行動は、他の人も皆同じことをしている場合にのみ意味を持ち、もし皆が同じことをしているなら、あなたがそれをするかどうかはもはや問題になりません。したがって、多くの場合そうであるように、費用や不便さが伴う場合、これらの行動をとることは非合理的です。

古い物語の中では意味をなさないため、私たちは何とかしてこれらの行動をとろうとあらゆる手段を講じます。最もよく用いられる方法は、それらを自己イメージと結びつけることです。リサイクルをしたり、環境に配慮したりすることで、自分は価値があり善良な人間だと考えることができるのです。人々が様々な種類の缶を分別して別のゴミ箱に入れているのを見ると、自然と儀式のように思えてきます。その象徴的な意味は、「私は自分の役割を果たしている」「私は善良だ」「私は正しい」「私は愛されるに値する」といったものです。しかし残念ながら、実際には、より深い物語、つまり「私は本当は善良ではないから、リサイクルしなければならない、一生懸命努力しなければならない、良い子でなければならない」といった物語を助長しているのです。多くの環境活動家の場合、こうした努力にはたいてい偽善的な態度が伴います。つまり、条件付きの自己承認と、自分よりも知識のない、倫理観​​が低い、意識が低い人々への憤りです。偽善には喜びなどほとんどありません。

これらの儀式は、新しい物語の中でははるかに強力な力を持つようになります。倫理観や自分の役割を果たすこと、善行といった観点​​から考えるのではなく、あなたがするあらゆる非合理的な行為を、愛する地球への贈り物ギフトと考えてみてください。フェアトレードのシャツに3倍の値段を払ったり、そもそも着ないで済ませたり、木を植えたり、新しい道路建設を阻止したり、地球とその動物、植物、水、空気、土壌、そして人々の幸福のために、どんなに小さな貢献でもするなら、感謝の気持ちでその行為を行い、贈り物ギフトとして捧げてください。たとえあなたの捧げ物が、思春期の少年が恋人に贈る控えめな贈り物のようなものであっても、地球は感動し、感謝するでしょう。この感謝は、私たちが感じることができるものです。古い物語、つまり非人格的な法則と無個性な質量の物語では、この感覚の唯一の説明は、私たちがそれを想像し、投影し、地球を擬人化しているということだけでした。切り離された自己という物語から、どうして他人の感情を感じることができ、なぜ気にする必要があるのでしょうか。それは非合理的です。しかし、つながり合う自己の世界では、他者の感情を感じ取れるのは当然のことです。なぜなら、他者は私たち自身だからです。私たちはそれぞれ関係性の総体なのであって、切り離された存在が関係性を「持っている」とか、個別の主体が自分の存在の中核とは別の何か、つまり「関係性」というものを持っているのではありません。

古い物語では非合理的で困難だったことが、新しい物語では簡単で自然なことになります。善であろうとする闘いは終わりました。その闘い、自己との戦いは、悪い自己という概念に基づいています。つまり、合理的な自己利益を最大化しようとする「経済人」、繁殖の自己利益を最大化しようとする利己的な遺伝子です。私たちの文明はそのような自己の上に築かれています。だからこそ、刑罰制度、宗教制度、教育制度は、恐怖、罪悪感、恥辱を通して私たちの生まれながらの利己主義を克服するように設計されているのです。みなさん、あなたはもっと持続可能な生き方をしていないことに罪悪感を感じているでしょうか。地球を破壊する文化に加担していることに罪悪感を感じているでしょうか。無理やり良い行動をさせるために、その罪悪感を自分自身や他人に振りかざしているでしょうか。もしそうなら、リサイクルや節約の儀式は、その罪悪感が一部となっている古い物語を実際には強化することになるでしょう。

その代わりに、このような儀式を新しい物語に組み込み、そして新しい物語から新しい儀式を生み出すことを提案します。古い物語では、使い終わったラップを洗って冷蔵庫に貼り付けて再利用するのは愚かな行為です。そうすることでどれだけの石油や埋立地を節約できるでしょうか。大した節約にはなりません。しかし私は全くそう考えていません。善行のためでも、自分の役割を果たそうとしているわけでもありません。私はそのラップと、それを作ったすべての生き物と、そしてそのすべての関係性と個人的な関係を築いているのです。私がゴミ箱に入れる代わりにコンポストとして土に埋めるとき、私はリンゴの芯が土に戻る喜び、それを土に変えてくれるミミズの喜び、そしてミミズの糞を受け入れる土の喜びを感じます。新しい世界に入るということは、あなたや私が他の誰よりも優れているとか、倫理的だとか、道徳的だとか、精神的だとかいう建前を捨て去って、本当の利己心、つながり合う自己の利己心を花開かせることを意味します。それは、快楽や欲望を征服するのではなく、より多くの喜び、欲望へのより大きな信頼へと心を開くことを意味します。そしてもし、私がリンゴの芯と分かち合う喜びが私の投影であり、つながり合う自己の物語が、冷たく厳しい力と質量の宇宙で生きる孤独を和らげるための私自身の慰めの幻想であるならば、それでいいのです。

古い世界の多くの儀式は、新しい世界にも取り入れることができます。ここまでに書いたことに加えて、小切手を記入することも、支払いではなく感謝と贈り物という新しい精神で行うことが可能です。しかし、古い世界の他の儀式は急速に時代遅れになりつつあり、もう私たちはそれらに関わりたくありません。例えば、講演に招待された会議で履歴書を求められても、私は書くのが耐えられません。医療制度や学校制度の多くの儀式にも参加しません。一方で、私にとって間違っていると感じる儀式の中には、古い世界のその部分から離れるのが怖い、あるいはまだ準備ができていないため、参加し続けているものもあります。例えば、私は今でも所得税申告書を提出しています。私たち一人ひとりは、愛に満ちた地球上でつながり合う自己の物語の中で、それぞれ独自の道を歩み始めるにつれ、古い儀式のいくつかを手放すように促されます。

儀式は象徴と現実の差異を橋渡しするものです。儀式は単に何かを意味するのではなく、それ自体が何かなのです。儀式はそれ自体が行為です。部族の人々が宇宙創造を再現する儀式を行ったとき、彼らは単にその創造を物語ったり表現したりしていたのではなく、実際に宇宙の創造に参加していたのです。彼らにとって、宇宙創成は直線的な時間の始まりにおける個別の出来事ではなく、時間の外で起こり、時間の中に反映される継続的な出来事でした。儀式は世界の創造を表現するものではなく、世界の創造そのものだったのです。同様に、私たちが今日行う世界創造の儀式も、私たちにとって現実のものでなければなりません。「四方」や祖先があなたにとって生きた現実でない限り、それらを呼び起こすべきではありません。そうでなければ、あなたはただ「インディアンごっこ」をしているだけで、文化盗用という現象の背後にある物語を強化することになるでしょう。儀式は他のいかなる行為よりも現実味が劣るものであってはなりません。むしろ、より現実味を帯びていなければなりません。儀式は神聖さに満ちた行為であり、私たちを現実で、真実で、重要なものと繋げてくれるものなのです。いつの日か、完全に癒された人類は、儀式と呼ばれるものを区別しなくなるかもしれません。なぜなら、すべての行為が神聖なものとなるからです。その時が来るまでは、祈りがすべての言葉の神聖さを思い出させてくれるように、また聖地が地球全体の神聖さを思い出させてくれるように、儀式が思い出させてくれるのは、私たちが行うすべての行為が世界を創造する神聖な力を持っていることです。

あなたの儀式を現実のものにしましょう。「愛する地球」に捧げるあなたの贈り物ギフト、つながり合うあなたの自己の他の部分に捧げるあなたの贈り物ギフトは、愛の象徴であるだけでなく、愛そのものです。ラップを再利用することで満足しろと言っているのではありません。森を救ったり、国を解放したりするような、重大で英雄的な行動もまた、新しい物語の役割を演じることから生まれます。分断の物語の中では、それらはいつも非合理的です。自分自身と戦い、善であろうと努力することで、偉大なことを成し遂げた人はいません。意志の強さでは十分ではありません。しかし、私たちが偉大な物語に身を委ねると、それは私たちを、外から見ると勇敢で寛大に見える行動へと導きます。つながり合う自己と「愛する地球」の物語に身を委ね、その物語が私たちにとって現実のものとなり、細胞の一つ一つでそれを信じるようになると、私たちは奇跡を起こすことができるようになります。古い物語では不可能だったことが、新しい物語では可能になるのです。

「人類の上昇」と切り離された自己という物語に基づいて築かれた制度は、私たちの周りで崩壊しつつあります。誰もが心の底では、私たちの存在自体が確かに繋がり相互依存していて、そして私たちが夢中になっている地球と共創的なパートナーになろうとしていることを知っていると、私は信じています。あなたはそれを知っていても、まだ完全には信じていないかもしれません。私の仕事は、あなたが既に知っていることを信じる手助けをすることです。しかし、たとえ今完全に信じていなくても、問題ありません。古い物語は長くは持ちこたえられません。好むと好まざるとにかかわらず、私たちは新しい時代へと突き進んでいます。しかし、なぜ待つ必要があるのでしょうか。私たちを再合一という現実へと繋げる儀式は既に融合し、新しい意味体系、制度、社会交流の形、概念の語彙、交換の仕組み、そして新しい物語における無数の人間の役割を形成しています。パーマカルチャー、エネルギーヒーリング、非暴力コミュニケーション、P2P経済、代替通貨など、数千もの多様なパラダイムはすべて、新しい「人々の物語」「世界の物語」「自己の物語」から影響を受け、またそれに貢献しています。私たち一人ひとりがそれぞれの才能を活かして創造に取り組むことで、より美しい世界を心に抱く認識が、信念へと花開き、そして私たち全員にとって現実となることが、より簡単になります。その新しい世界は、私たちが共に歩むことでしか到達できない場所です。繋がり合う自己という現実が、それを必要としているのです。



この記事はもともとReality Sandwichに掲載されたものです。

原文リンク:https://charleseisenstein.org/essays/rituals-for-lover-earth/


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