【聖なる経済学】 お金と心①
訳者コメント:
お金があれば何でも買える、つまり、お金は万能の交換手段であるため、誰もがそれを欲しがるようになります。これと似たようなものが電気で、電気があれば光でも熱でも音でも動力でも情報でも何でも得られる、つまりエネルギー界の万能の交換手段だと考えられているので、エネルギー問題は電気をどうやって作るかという議論に矮小化されてしまいます。
しかし本当は、お金で買えないものが世の中にはあって、現代社会にお金で買えないものが不足しているのは、お金が生み出した結果なのです。生命のエネルギーのように電気では作り出せないものもあるのです。
お金という計量単位で表されたものは個性を失い、コスパだけで判断されるようになり、そのように考える人も個性を失います。電気で動く社会が無機質・無個性なのも、きっと同じ理由があるのでしょう。
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第3章:お金と心
利己主義によって皆が孤立すると、そこにあるのは塵だけであり、嵐が到来すれば、そこにあるのは泥沼だけだ。
(バンジャマン・コンスタン)
お金が私たちの認識に影響を与えるやり方は、欠乏という集団的な幻覚を引き起こすだけではありません。本章で探るのは、お金の心理的、精神的な深い影響であり、それは私たちの世界観、宗教、哲学、さらには科学にまで及びます。お金は私たちの心、認知、そして自己観に織り込まれています。だからこそ、お金の危機が起こると、現実の構造そのものが崩れ落ち、世界そのものが崩壊していくように感じられるのです。しかし、これは同時に大きな希望の源でもあります。なぜなら、お金は社会的な構築物であり、私たちが変えることのできるものだからです。新しい種類のお金によって、どのような新しい認知、そしてどのような新しい集団行動が生まれるのでしょうか。
もう第3章に差し掛かりましたが、まだ「お金」の定義すらしていませんでした。古典的な定義によれば、お金は交換手段、計算単位、価値貯蔵手段ですが、それはお金が何をするかということであり、お金が何であるかを説明しません。物理的には、ほとんど無に等しいものです。社会的には、ほとんどあらゆるものと同一視されます。お金は社会的なものであり、物語だと言ってもいいでしょう。
従来の経済史では、お金は第一の機能、つまり交換手段として始まったとされ、大麦やオリーブ油、牛、黄金のように標準的な商品という形を取りました。実際、デヴィッド・グレーバーの主張によれば、これらはむしろ帳簿や借用証書に記入するための計算単位として使われ、それ自体が通貨として使われることはほとんどありませんでした[1]。通説とは反対に、人類史において信用は通貨より前から存在していたのです。
現金と信用の重要な違いは、現金の価値は売り手と買い手の関係に依存しませんが、信用の価値は関係性に依存することです。私の1ドル札はあなたの1ドル札と同じ価値を持ちますが、私の借用証書はあなたの借用証書と同じ価値を持たないかもしれず、その価値は私たちの人柄や、財力、コミュニティとの繋がりに依存しています。新入りや怠け者は「あまり重要ではない人」と見なされるでしょう。グレーバーは中世までのヨーロッパの街がほぼ完全に信用によって機能していたと書いています。王が貨幣鋳造者を呼んで改鋳を命じても、商取引は変わりなく進み、様々な種類の帳簿や合札、約束手形によって、誰が何を誰から借りていたか、皆が記録を付けていました[2]。
社会に混乱が起きると、信用は機能しなくなります。グレーバーによれば、重装備の兵士が世界を闊歩する状態は深刻な信用リスクなのです。社会的圧力や中央権力がなければ、人々に債務を履行させる仕組みは存在しません。このような状況では、商品通貨であれ硬貨であれ、現金が好まれるようになります。
通貨の歴史的発展は、その長い道のりの中で価値を関係性から切り離してきました。この切り離しの結果、紀元前7世紀ギリシャで貨幣制度の導入に至りました。議論の余地はあるかもしれませんが、その時初めて貨幣という存在のカテゴリーが確立したのです。それ以降、私たちはお金が何をするかだけでなく、何であるかについても語ることができるようになりました。
経済学者の言い伝えによれば、硬貨が発明されたのは、その基礎となる商品としての金属の、重量と純度を保証するためだったといいます。この物語によれば、硬貨の価値は、それを作っている金や銀そのものに由来します。実際には、物々交換が貨幣の起源だという説や、希少性の前提と同じように、この貨幣起源説は経済学者の空想に過ぎません。確かに、この空想には輝かしい系譜があります。アリストテレスはこう書いています。
生活に必要な様々な品は持ち運びが容易ではないため、人々は互いに取引する際に、本質的に有用で生活目的に容易に適用できるもの、例えば鉄や銀などを用いることに同意した。当初、これらの価値は単に大きさや重さで測られていたが、時が経つにつれて、重さを量る手間を省き、価値を示すために刻印が押されるようになった。[3]
この説明はかなり妥当に思えますが、歴史的証拠はこれと矛盾しています。リディアで鋳造された最初の硬貨は、エレクトラム(銀と金の合金)でできており、その純度には大きなばらつきがありました[4]。貨幣制度はすぐにギリシャに広まりましたが、そこでは硬貨の重量と純度はほぼ一定だったにもかかわらず、鋳造に使用された銀よりも高い商品価値を持つことが多かったのです[5]。実際、スパルタなどいくつかの都市国家は、鉄、青銅、鉛、錫などの卑金属から硬貨を鋳造しました。このような硬貨の本来の価値はごくわずかでしたが、それでも貨幣として機能しました[6]。いずれの場合も、刻印された硬貨の持っていた価値(歴史家リチャード・シーフォードに倣って呼べば「信託価値」)は、同じ形で刻印のない金属円盤よりも高かったのです。なぜでしょう。単なる記号に内在するこの神秘的な力とは何だったのでしょうか。それは重量と純度の保証でもなければ、支配者や宗教権力者の個人的権力の延長でもありませんでした。シーフォードは次のように述べています。「印章の刻印は印章所有者の権力を体現しているように見えるのに対し、硬貨の刻印は硬貨とその出所との間に想像上の結びつきを生み出さない。[7]」むしろ、硬貨の刻印は、
金属が一定の価値を持っていることを証明する。そして、それは金属片に(呪術的であろうとなかろうと)力を伝達することによってではなく、それを認識可能な形で特定のカテゴリー、つまり本物の硬貨のカテゴリーに分類する形状を金属片に刻印することによって行われる。…硬貨の刻印は…事実上、単なる記号として機能する。[8]
もともと記号に力はなく、人間の解釈によって力を持つようになります。社会がそのような解釈を共有する限り、記号や象徴は社会的な力を持ちます。古代ギリシャに出現した新種の貨幣は、社会的な合意からその価値を得ており、硬貨に刻まれた印はその合意の証でした[9]。この合意こそが貨幣の本質です。現在これは明らかなはずです。ほとんどの貨幣が電子化され、残っているものも本来の価値はトイレットペーパー程度しかありませんが、古代ギリシャ時代に完全な貨幣ができる前から、貨幣はずっと合意に基づくものでした。「本物の貨幣」の古き良き時代へ回帰する手段として、金貨(あるいは暗号技術でそれを模倣したビットコインのようなもの)を提唱する改革者たちは、ほとんど存在しなかったものに戻ろうとしているのです。
人類の貨幣の進化における次の段階は、以前の形の通貨に戻ることではなく、私たちの合意を無意識的にではなく意図的に具体化したものへと変容させていくことです。
5千年以上にわたり、お金は純粋な商品から、物質の上に乗った象徴へと進化し、今日では純粋な象徴となっています。『聖なる経済学』では、この進化を覆そうとするのではなく、むしろそれを完成させようとします。お金という合意は、私たちの文明が使っている他の記号や象徴の制度から孤立しているわけではありません。地球、人類、そして私たちが神聖と見なすものについての新たな合意を、私たちはお金の中に具体化することができます。長い間、私たちは「進歩」、つまり科学技術の発展、自然界の征服を神聖と見なしてきました。私たちの貨幣制度は、これらの目標を支えてきました。しかし今、私たちの目標は変化しており、それに伴い、お金という合意をその一部に含む壮大な超物語、すなわち〈自己の物語〉、〈人々の物語〉、そして〈世界の物語〉も変化しています。
本書の目的は、新たな〈お金の物語〉を語ることであり、この「信託のお守り」の中に、どのような新たな合意を盛り込むことができるのかを明らかにし、お金が、私たちの心が可能だと知っているもっと美しい世界にとっての敵ではなく、味方となるようにすることです。
古代ギリシャで貨幣が社会を支配すると、現代における個人の概念、論理と理性の概念、そして近代精神の哲学的基盤が生み出されたのも偶然ではありません。富が関係性によるものなら、贈与文化や信用に基づく経済のように、切り離された個人という概念はあまり意味を持たなくなります。他人と距離を置いたり、関係から抜け出たり、資産を別の場所に持ち出したりというようなことは、それほど簡単にできなくなります。
古典学教授のリチャード・シーフォードは、その学術的傑作『貨幣と古代ギリシャ人の精神』の中で、貨幣がギリシャ社会と思想に与えた影響を探り、貨幣を独特なものにする特徴を明らかにしています。その特徴とは、貨幣が具体的であると同時に抽象的であること、均質で非人格的で、普遍的な目的であるとともに普遍的な手段であること、そして際限がないことなどです。この新しく独特な力が世界に現れたことは、計り知れない影響をもたらし、その多くは今や私たちの信念や文化、精神や社会に深く根付いているので、私たちはそれをほとんど認識することさえできず、ましてや疑問を抱くことなどできません。
貨幣が均質だというのは、硬貨どうしの物理的な違いに関係なく、貨幣としてのコインは(同じ額面であれば)同一であるということです。新しくても古くても、摩耗していてもいなくても、すべての1ドラクマ硬貨は等価です。これは紀元前6世紀には目新しいことでした。シーフォードが指摘したのは、古代において権力は唯一無二の護符(例えば、ゼウスから受け継がれたとされる笏)によって与えられたのに対し、貨幣はその逆であることです。貨幣の力は、純度や重量のばらつきを消し去る標準的な記号によって与えられます。質は重要ではなく、量だけです。貨幣は他のすべての物に交換できるため、それらに同じ特徴を与え、商品、つまり一定の基準を満たしている限り同一とみなされるものへと変えてしまいます。重要なのは、その数量だけです。シーフォードによれば、貨幣は「物の全般に均質性の感覚を助長する」と述べています。すべての物が等価であるのは、それらを貨幣で売ることができ、それを他のあらゆる物を買うために使えるからです。
商品の世界では、物はそれを代替できるお金と等価なのです。物の第一義的な属性は「価値」という抽象的な概念であり、逆説的にその物理的実体よりも確かなものですが、それは結局のところ、いつでもまた買えるからです。これが反物質主義を助長しているのが分かるでしょうか。各個人、ひとつひとつの場所や物が特別で唯一無二である物理世界との繋がりを断ってしまうのです。この時代のギリシャ哲学者たちが、現実よりも抽象的なものを重視するようになり、ついにはプラトンが感覚の世界よりも現実的な、完璧なイデアの世界を創造したのも不思議ではありません。今日に至るまで、私たちが物理世界をこれほど軽く扱ってきたのも不思議ではありません。二千年もの間、お金のメンタリティに浸ってきた結果、あらゆるものが代替可能であることに慣れきってしまい、まるで地球を破壊したとしても、新しい地球を買えるかのように振る舞うのも不思議ではありません。
この章には「お金と心」という題を付けました。お金の信託価値と同じように、心もまた物理的な器に入った抽象概念です。お金が信託であるのと同じように、心を独立した非物質的な存在の本質と捉える考え方は何千年にもわたって発展し、非物質的な意識、つまり肉体を持たない精神という現代の概念へと繋がりました。興味深いことに、世俗的な思想においても宗教的な思想においても、この抽象概念は物理的な器よりも重要視されるようになりました。ちょうど物の「価値」がその様々な物理特性よりも重要視されるのと同じことです。
本書の序文で、私たちがお金をかたどって神を創造したという考えに触れました。それは、万物を動かし、世界を活気づける目に見えない力、人間の活動を統制する「見えざる手」、非物質的でありながらどこにでも存在する力です。神や精神のこうした特性の多くは、ソクラテス以前のギリシャ哲学者に遡りますが、彼らの思想は貨幣が社会を支配するようになったまさにその時期に発展したのです。シーフォードによれば、彼らは本質と現象、具体と抽象を区別した最初の人々でしたが、この区別はホメロスには全く見られない(暗示すらされていない)ものでした。アナクシマンドロスの「アペイロン〔万物の起源とされた無限の原理〕」からヘラクレイトスの「ロゴス〔宇宙を支配する原理、また宇宙を理解するための人間の推論〕」、ピタゴラスの「万物は数なり」という教義に至るまで、初期のギリシャ人は抽象の優位性を強調しました。それは世界を統制する目に見えない原理です。このイデオロギーは私たちの文明のDNAに浸透しているので、そこでは金融セクターの規模に比べると実体経済が小さく見え、金融デリバティブの総額が世界の国内総生産(GDP)の10倍にも達し、社会最大の恩恵が記号操作だけを行うウォール街の魔術師たちに与えられるほどです。コンピューター画面に向かうトレーダーにとって、まさにピタゴラスの言うとおり、「すべては数」なのです。
精神と物質の二元論において、精神を優先する考え方の一例として、「経済改革は確かに重要な課題だが、それよりもはるかに重要なのは人間の意識の変革だ」というものがあります。しかし、この考え方は誤りだと私は考えます。なぜなら、意識と行動、ひいては精神と物質という誤った二分法に基づいているからです。深いレベルでは、お金と意識は密接に絡み合っています。両者は互いに深く結びついているのです。
貨幣の抽象化の発展は、広大な形而上史学[訳註1]の文脈に位置づけられます。貨幣の発展には、言葉や数字という形での抽象化の基盤が不可欠でした。すでに、数字や名前は、私たちの心を現実世界から遠ざけ、抽象的に考えさせる準備を整えています。名詞を使うことは、その名を持つ多くのものの間に同一性があることをすでに意味し、あるものが5つあると言えば、そのひとつひとつは「単位」となります。私たちは、物をカテゴリーの代表として考え、それ自体が唯一無二の存在ではないと思うようになります。ですから、標準的で一般的なカテゴリーが貨幣から始まったわけではありませんが、貨幣はカテゴリーの概念的支配を大幅に加速させました。さらに貨幣の均質性は、取引のために標準化された商品の急速な発展を伴いました。このような標準化は産業革命以前の時代には荒削りなものでしたが、今日では工業製品はほとんど同一であるため、貨幣という嘘が真実となります。
未来の貨幣の形を考えるにあたり、貨幣が触れたものすべてを均質化する力を持っていることを念頭に置いておきましょう。おそらく貨幣を使うべきなのは、標準的、定量化可能、あるいは無個性なもの「だけ」に限られるのであり、個人的で唯一無二なものの流通には、おそらく別の種類の貨幣を用いるか、あるいは貨幣自体を一切使用すべきではないのです。私たちは標準的な数量に基づいてのみ価格を比較できるのであり、したがって、それ以上のもの、つまり計ることのできないものを受け取った場合、それは「ボーナス」、つまり対価を払っていないものを受け取ったことになるのです。言い換えれば、贈り物を受け取ったことになります。確かに、私たちは芸術作品を買うことはできますが、それが単なる商品であれば、私たちは払いすぎていると感じ、真の芸術作品であれば、私たちは到底払い足りていないと感じます。同じように、私たちはセックスを買うことはできますが、愛を買うことはできません。カロリーを買うことはできますが、真の滋養を買うことはできません。今日、私たちは計ることのできないもの、値段の付けられないものの欠乏に苦しんでいるのです。お金では買えないものが欠乏し、お金で買えるものが過剰にあります(ただし、この過剰は非常に不均等に分配されているため、多くの人々にはそれらのものも不足しているのです)[10]。
お金が触れたものを均質化するのと同じように、お金はそれを使う人をも均質化し、非人格化します。「貨幣は、他のあらゆる関係から切り離された商業的交換を促進する。[11]」 言い換えれば、人々は取引の単なる当事者となります。贈り物の授受を特徴づける多様な動機とは対照的に、純粋な金融取引においては、私たちはみんな同じです。つまり、みんな最も良い取引を求めているのです。人間がこのように均質なのは貨幣がもたらした結果ですが、経済学では前提条件と見なされています。物々交換から貨幣が進化してきたという物語の全体が、自己利益を最大化する欲求が人間の根本的な性質だと想定しています。この点において、人間はみな同一だと想定されているのです。価値の基準がなければ、異なる人間は異なるものを欲します。貨幣が何とでも交換できる場合、すべての人々が同じもの、つまり貨幣を欲するようになるのです。
(②に続く)
注:
1. グレーバー、『負債論』
2. グレーバー、『負債論』
3. アリストテレス。『政治学』第1巻第9部。
4. シーフォード、『貨幣と初期ギリシア人の精神』、132-3頁。
5. シーフォード、『貨幣と初期ギリシア人の精神』、137頁。
6. シーフォード、『貨幣と初期ギリシア人の精神』、139-45頁。
7. シーフォード、『貨幣と初期ギリシア人の精神』、119頁。
8. シーフォード、『貨幣と初期ギリシア人の精神』、119頁。
9.例外は、外国貿易に用いられる硬貨、つまり社会的な合意の範囲外で流通する硬貨でした。こうした硬貨は、確かにその基礎となる金属の本来の価値に依存していました。しかし、銀や金は金属として本来的にそれほど有用ではなかったため、こうした硬貨に価値を与えるには、より広範な社会的な価値観が必要でした。
10. この過剰供給は、ほぼすべての産業を長年にわたり悩ませている「過剰生産能力」という根深い問題に反映されており、そのため経済危機の解決策は通常、需要を刺激することを伴うのです。
11. シーフォード、『貨幣と初期ギリシア人の精神』、 151頁。
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原文リンク:https://sacred-economics.com/sacred-economics-chapter-3-money-and-the-mind/
訳註1: 形而上史学(metahistory)とは、イギリスの歴史家、クリストファー・ドーソン(Christopher Henry Dawson、1889〜1970)が提唱したもので、歴史哲学とは異なった歴史のなかの大きな潮流を取り扱い、ヨーロッパを形成したのはカトリック教会であるとの確信から、中世から近代へかけての文化の根底がキリスト教的価値観に由来することを証明しようとした。
