【聖なる経済学】 欠乏という幻想①
訳者コメント:
食べ物が足りない、食べ物を買うお金が足りない。エネルギーが足りない、石油が足りない。これが争いを起こし、生き物を、人々を殺していきます。現代の文明社会に様々な問題を起こしている原因は、人間の欲望、貪欲のせいであり、それを抑制しなければならないということになっています。でもそれは本当なのでしょうか。チャールズは違うといいます。貪欲が映し出すのは欠乏という「認識」であって、現実の欠乏ではないのだといいます。
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第2章:欠乏という幻想
イングランドの大地は、衰えることのない恵みで花開き、成長し、黄色い実りをたたえ、立ち並ぶ工房には工具が所狭しと並び、千五百万人もの労働者で溢れている。彼らは、この大地にかつて存在した中で最も強く、最も狡猾で、最も意欲的であるとわかる。彼らはここにいる。彼らが成し遂げた仕事、彼らが実現した果実は、我らの手中に豊かに溢れている。そして見よ、魔法のような不吉な命令が発せられ、こう言う。「労働者よ、職人よ、怠け者よ、これに触れるな。お前たちの誰もこれに触れてはならぬ。これを持ったとて誰にも良いことはない。これは魔法の果実なのだ。」
(トーマス・カーライル『過去と現在』)
お金、あるいは少なくともお金への愛着が、諸悪の根源なのだと言われます。しかし、なぜそうなのでしょうか。結局のところ、お金の目的は、最も根本的な意味で、交換を手助けすること、つまり人間のギフト(贈り物)と人間のニーズ(必要)を結びつけることです。一体どういう力、どういう途方もない逸脱によって、お金は正反対のもの、つまり欠乏の担い手へと変わってしまったのでしょうか。
実際、私たちは根本的に豊かな世界に生きているのですが、そこでは膨大な食料、エネルギー、そして物資が無駄にされています。世界の半分は飢えに苦しむ一方、残りの半分はもう半分を養うのに十分な量を無駄にしています。第三世界でもアメリカのスラム街でも、人々は食料、住居、その他の基本的な必需品に事欠き、買う余裕もありません。その一方で、私たちが膨大な資源を注ぎ込んで作り出すのは、戦争、プラスチックごみ、そして人間の幸福に役立たない無数の製品です。貧困が生産力不足のせいでないことは明らかです。また、助けたいという意志の欠如によるものでもありません。多くの人々は貧しい人々に食料を与え、自然を再生するなど、意義のある仕事をしたいと思っていますが、お金にならないのでそれができないのです。お金はギフトとニーズを結びつけることに全く役立ちません。なぜでしょうか。
長年の間、私は世間一般の見方に従って、答えは「貪欲さ」だと思っていました。なぜ労働搾取工場は賃金を最低限まで引き下げるのだろうか。貪欲だ。なぜ人々はガソリンを大量消費するSUVを買うのだろうか。貪欲だ。なぜ製薬会社は研究を隠蔽し、危険だと知りながら薬を売るのだろうか。貪欲だ。なぜ熱帯魚の採取業者はサンゴ礁を爆破するのだろうか。なぜ工場は有毒廃棄物を川に流すのだろうか。なぜ企業乗っ取り屋は従業員の年金基金を奪い取るのだろうか。貪欲、貪欲、貪欲だ。
やがて、私はその答えに違和感を覚えるようになりました。一つの理由は、それが私たちの文明の病の根源にある分断というイデオロギーに通じていることです。それは、農耕が世界を二つの領域、つまり野生と家畜、人間と自然、小麦と雑草に分けたのと同じくらい古いイデオロギーです。それによれば、この世界に善と悪という二つの対立する力があり、悪を排除することでより良い世界を創造できるのです。世界には悪いものがあり、私たち自身の中にも悪いものがあり、それを根絶しなければ、善にとって安全な世界にすることはできないのです。
悪との戦いは私たちの社会のあらゆる制度に染み渡っています。農業では、オオカミを根絶し、グリホサートで雑草をすべて枯らし、害虫をすべて駆除したいという願望として現れます。医療では、細菌との戦い、敵意に満ちた世界との絶え間ない闘いです。宗教では、罪、自我、不信心、疑念、あるいはそれらを外部に投影した、悪魔や異教徒との闘いです。それは、浄化と浄化、自己改善と征服、自然を超越し欲望を超越し、善となるために自らを犠牲にする心理構造です。そして何よりも、それはコントロールの心理構造です。
それによれば、悪に対して最終的な勝利を収めれば、私たちは楽園に入るのです。すべてのテロリストを殲滅するか、侵入不可能な壁を築けば、私たちは安全になるのだ。耐性が付くことのない抗生物質を開発し、生体の機能を人工的に制御すれば、私たちは完璧な健康を手に入れるのだ。犯罪を不可能にし、すべてを統制する法律を作れば、完璧な社会が実現するのだ。あなたが怠惰、強迫観念、依存症を克服すれば、完璧な人生が手に入るのだ。その時が来るまでは、もっともっと努力しなければならない。
同じように、経済生活で問題なのは、いわゆる「貪欲」であって、それは私たちの外にいる貪欲な人々と、私たちの内にある貪欲な傾向という両方の形で現れます。私たち自身はそれほど貪欲でないと思いたいものです。貪欲な衝動はあっても、それをコントロールしているのだと。自分はそんな人とは違う。中には貪欲さを抑制できない人もいる。奴らに欠けているのは、あなたや私が持っている根本的なもの、基本的な礼儀正しさ、基本的な善良さだ。一言で言えば、奴らは「悪い」のだ。もし奴らが欲望を抑え、つつましく暮らすよう学べないのなら、奴らがそうするよう強制するのは私たちの義務だ。
明らかに、貪欲というパラダイムに満ちているのは、他者への裁定、そして自己裁定です。貪欲な人々に対して私たちが独善的な怒りと憎しみを向ける裏には、自分だって彼らより優れているわけではないという密かな恐れが潜んでいます。悪の迫害に最も熱心なのは偽善者です。敵の外部化は、未解決な怒りの感情を表に出す捌け口になります。ある意味で、これは必然です。怒りを内に閉じ込めたり、自分の内に向けたりすると、恐ろしい結末を迎えることになります。しかし私の人生では、憎しみと決別し、自己との戦いと決別し、善良であろうとする闘いと決別し、自分が誰よりも優れているという偽りの態度と決別する時が来ました。人類全体も、まさにそのような時を迎えつつあると私は確信しています。突き詰めていくと、貪欲は本質と関係なく、それ自体が症状であって、より深い問題の原因ではありません。貪欲を非難し、自制心を強化することでそれと闘うことは、自己に対する戦いを強化することであり、現代文明の危機の根底にある自然に対する戦いと他者に対する戦いの、別の表現に過ぎないのです。
貪欲が意味を成すのは欠乏という文脈の中です。現代の支配的なイデオロギーはそれを前提としており、それが私たちの〈自己の物語〉に組み込まれています。切り離された自己は敵対的あるいは無関心な力が支配する宇宙の中にあって、常に生きるか死ぬかの瀬戸際に置かれ、これらの力を制御できている限りは安心です。外部にある物体としての宇宙に投げ込まれた私たちは、限られた資源をめぐって互いに競争せざるを得ません。切り離された自己という物語に基づいて、生物学と経済学はどちらも貪欲を基本原理に書き込んできました。生物学において、それは生殖の自己利益を最大化しようとする遺伝子であり、経済学において、それは経済的な自己利益を最大化しようとする合理的行為者です。しかし、欠乏という前提が誤りだったとしたら、つまりそれが私たちのイデオロギーの投影であり、究極の現実ではなかったとしたらどうなるでしょうか。もしそうだとしたら、貪欲は私たちの生物学に書き込まれたものではなく、欠乏の認識の単なる症状に過ぎません。
貪欲が反映しているのは現実の欠乏ではなく、その「認識」であることを示す一つの兆候は、裕福な人が貧しい人より寛大でない傾向があることです。私の経験では、貧しい人々は、なけなしのお金を貸したり与えたりすることがよくあるのですが、それを割合で見るなら、裕福な人の純資産の半分に相当するのです。この所見は幅広い調査によって裏付けられています。非営利調査機関であるインディペンデント・セクターが2002年に実施した大規模調査によると、年収2万5千ドル未満のアメリカ人は収入の4.2%を慈善団体に寄付しているのに対し、年収10万ドル以上の人は2.7%にとどまっています。最近では、カリフォルニア大学バークレー校の社会心理学者ポール・ピフ氏が、「低所得者は富裕層よりも寛大で、慈善活動に熱心で、他人を信頼し、助け合う傾向がある」ことを発見しました[1]。ピフ氏は被験者にお金を渡し、仲間うちとパートナー(身元は決して知らされない)に匿名で分配させたところ、彼らの寛大さは社会経済的地位と逆の相関関係にあることを発見しました[2]。
このことから、貪欲な人が裕福になるという結論を導きたくなりますが、一方でそれと同じくらい妥当な解釈も成り立ちます。それは、富が人を貪欲にさせるということです。なぜそうなるのでしょうか。豊かさという文脈で貪欲は愚かなことであり、欠乏という文脈でのみ合理的なのです。裕福な人は欠乏がないのに欠乏を感じ、誰よりもお金のことを心配します。お金そのものが欠乏の認識を「引き起こす」ということでしょうか。安全安心とほぼ同義であるお金が、皮肉にもその逆をもたらすということでしょうか。これらの問いへの答えはどちらもイエスです。個人のレベルでは、裕福な人はお金により多く「投資」しているので、それを手放すことが難しいのです。(気軽に手放すのは、豊かさの態度の現れです。)全体のレベルでは、後で述べるように、欠乏がお金にも組み込まれていて、それはお金を創り出し循環させる方法の直接的な結果です。
(②に続く)
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注:
1. ジュディス・ワーナー[Judith Warner]、「The Charitable-Giving Divide(慈善寄付の格差)」ニューヨーク・タイムズ、 2010年8月20日
2. ピフ[Piff]他「Having less, giving more: the influence of social class on prosocial behavior(より少ないもの、より多くを与えること:社会階級が向社会的行動に与える影響)」J Pers Soc Psychol . 2010年11月;99(5):pp. 771-84.
原文リンク:https://sacred-economics.com/sacred-economics-chapter-2-the-illusion-of-scarcity/
翻訳ノート:
scarcity は、経済学用語では「希少性」ですが、もっと生活感のある一般的な言葉として「欠乏」を使いました。
control は、制御、支配、管理という意味を含むので、一つの言葉に統一していません。カタカナの「コントロール」も必要に応じて使っています。
greed は、強欲、貪欲という意味です。日本語の「強欲」は悪い意味にしか使われませんが、「貪欲」は「知識を貪欲に吸収する」のように良い意味にも使われます。ここでは善悪中立な「貪欲」を使いました。
