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【聖なる経済学】 序文

訳者コメント:
日本の経済が衰退を始めた、いわゆる「失われた30年」の中で育った世代にとって、世の中は変えられないものであり、権力に異議申し立てをするのは「痛い」ほどに無益なことだという感覚が多数を占めるようになったのだといいます。

2月8日に実施された衆議院選挙に向けた論戦で、繰り返された言葉が「責任ある積極財政」でした。「責任ある」という言葉に隠された意味は、合意された実現可能性の範囲を逸脱しない、ということです。

その一方で、政権の座にある政治家たちは裏金のような汚いお金に否応なく引き寄せられているように見えます。

いったいどうして、お金を中心にして組み立てられた社会が、このように絶望的なものになってしまったのでしょう。なぜそれを私たちは当たり前のものとして諦め、受け入れるようになってしまったのでしょう。

チャールズ・アイゼンスタインの著作に通底するテーマは、「もっと美しい世界」が可能だという私たちの直感には意味があること。現在の文明が直面する様々な危機は、人類にとっての通過儀礼であるということ。そして、通過儀礼を乗り越えた先に待っている「もっと美しい世界」を選び取るのは私たち自身であることです。


聖なる経済学

チャールズ・アイゼンスタイン著

序文

本書の目的は、お金と人間経済を宇宙のあらゆるものと同じように神聖なものとすることです。

いま私たちはお金を下品なものと捉えますが、それには真っ当な理由があります。この世に神聖なものがあるとしたら、それがお金であるはずはありません。お金が私たちのき本能の敵だということは、親切で寛大に振る舞いたいという衝動を「そんなお金はない」という考えがさえぎるたび明らかになります。お金が美しさの敵だということは「売れ線ねらい」という蔑称に表れています。お金があらゆる価値ある社会・政治改革の敵でもあることは、企業の権力が法制度を自らの利益拡大のために曲げることに現れています。お金が地球を破壊していることは、私たちが海や森、土やあらゆる生き物を略奪し、果てしない強欲を満たそうとすることに現れています。

少なくともイエスが両替商を神殿から追い出した時代から、私たちはお金に何か不道徳なものがあると感じてきました。政治家が公共の利益ではなく金銭を求める時、彼らは腐敗したと私たちは言います。「汚い」「卑しい」といった形容詞がお金を表すのは自然なことです。聖職者はお金とほとんど無縁だとされます。「神とマモンの両方に仕えることはできない」のです。〔新約聖書『マタイによる福音書』6章24節〕

同時に、お金には神秘的で魔法のような性質、つまり人間の行動を変え、活動を調整する力があることも否定できません。古代から思想家たちを驚嘆させてきたのは、この力を金属の円盤や紙切れに付与できるのが、単なる記号だということです。残念ながら、まわりの世界を見渡せば、お金の魔法が悪の魔法であるという結論は避けられません。

明らかに、もし私たちがお金を神聖なものにしようとするなら、お金を大胆に改革する以外には有りえず、お金の本質を作り変えることになります。自己啓発の指導者が語るように、お金に対する私たちの態度を変えることが必要だというだけではありません。むしろ、私たちの創り出す新たなお金が、態度の変化を具体化し強化するのです。『聖なる経済学』が描き出すのは、この新たなお金と、それを核として形成される新たな経済です。また本書で探求していく人間性の変容は、貨幣の変容の原因であるとともに結果でもあります。私が語る「態度の変化」は、人間存在の本質そのものへと至ります。そこに含まれるのは、人生の目的、地球上の人類の役割、人間社会・自然界と個人との関係といったものの理解であり、さらには「個」とは、「自己」とは何かという定義にさえ及びます。突き詰めれば、私たちの体験の上でお金(と所有物)は自己の延長です。だからこそ、それを表すのに「私のものmine」という所有格代名詞を用いるのですが、これは自分の腕や頭を指すのと同じ代名詞です。私のお金、私の車、私の手、私の肝臓。さらに考えてみましょう。強盗に遭ったり「身ぐるみ剥がされ」たりした時に感じる侵害感は、あたかも自己の一部をもぎ取られたかのようです。

お金は私たちの自己観アイデンティティの根底を成し、世界の営みの核心となっていますが、それを俗なるものから聖なるものへと変容させるなら、重大な影響をもたらすことは間違いありません。しかしお金が、あるいは他の何であれ、神聖であるとはいったい何を意味するのでしょうか。それは、神聖という言葉が帯びるようになった現代的な意味とは重要な点で正反対のものです。数千年をかけて、神や聖という概念は、自然や世界、肉体から切り離された存在を指すようになってきました。三、四千年前、神々は居場所を森や湖、山や川から天空へと移し、自然の本質ではなく自然を支配する帝王となりました。神性が自然から分離するにつれ、浮世の営みに深く関わることも不浄と見なされるようになりました。人間は生きた魂から、その俗なる外殻へ、霊の単なる器へと変容し、最終的に到達したのは、デカルトのいう「世界を観察するのみで参加しない一点の意識」や、同様の立場をとるニュートンの「時計職人としての神」でした。神聖であるとは超自然的・非物質的であることを意味しました。神が世界に参加することがあったとしても、それは奇跡を通じて、つまり自然法則を破り超越して神が介入することで行われるのでした。

逆説的なのは、この「魂」スピリットと呼ばれる切り離された抽象的な存在こそが世界を動かす力だと考えられていることです。宗教的な人に、人間が死ぬと何が変わるのかと問えば、魂が肉体を離れたのだと言うでしょう。雨を降らせ風を吹かせるのは誰かと尋ねれば、神だと答えるでしょう。確かに、ガリレオやニュートンはこうした日常的な世界の営みから神を排除したように見えました。その代わりに、非人間的な力と質量が時計のように働く巨大な機械仕掛けとして説明したのです。しかし彼らでさえ、最初にその時計のゼンマイを巻き上げる時計職人、つまり潜在エネルギーを宇宙に吹き込み、以後ずっとそれを動かし続ける存在を必要としました。この概念は今日でもビッグバンとして受け継がれていますが、それこそが運動や生命を可能にする「負のエントロピー」の源となった原初の出来事なのです。いずれにせよ、私たちの文化における魂の概念とは、この世とは切り離された存在でありながら、奇跡のように物質的な営みに介入し、さらには神秘的な方法で物質に命を吹き込み導くものなのです。

極めて皮肉で、極めて重要なのは、この地球で先に述べた神の概念に最も近い存在がお金だという事実です。目に見えず、不滅の力であり、万物を包み導く、全能で無限の存在、いわば世界を回す「見えざる手」です。しかし現代のお金は抽象概念に過ぎず、せいぜい紙の上の記号で、ふつうはコンピュータ内の単なるビットに過ぎません。それは物質とは遠く離れた領域に存在します。その領域で、お金は自然界の最も重要な法則から免れています。他のあらゆる物のように腐敗して土に還るのではなく、金庫やコンピュータファイルの中で不変のまま保存され、利子によって時と共に増え続けるからです。永遠の保存と絶え間ない増加という特性を帯びていますが、どちらも極めて非自然的なものです。これらの特性に最も近い天然物質はきんです。金は錆びず、輝きを失わず、朽ちることがありません。そのため、古代において金は貨幣として、また神聖な魂の比喩として用いられました。魂は腐敗せず、不変のものだったのです。

お金が持つ抽象という神聖な性質、すなわち実在する物質世界からの切り離しが、その極限に達したのは、21世紀初頭に金融経済が実体経済の中でその拠り所を失って、独自の形を取るようになったときでした。ウォール街の莫大な富は、いかなる物質的生産とも関係なく、別の領域に存在しているように見えました。

オリンポス山の高みから見下ろす金融家たちは、自らを「宇宙の支配者」と呼び、彼らが仕える神の力を借りて、大衆に富をもたらし、あるいは破滅をもたらし、文字通り山を動かし、森をぎ払い、河の流れを変え、国家の興亡を引き起こしました。しかしお金はすぐに気まぐれな神だと判明しました。私がこの文章を書いている現在〔リーマンショックの頃〕、金融の司祭たちがお金という神をなだめるため、ますます死に物狂いで儀式を行ったところで、効果は無いように見えます。滅びゆく宗教の聖職者たちのように、彼らは信者たちにさらなる犠牲を強いる一方で、不幸の原因を罪(貪欲な銀行家、無責任な消費者)か、あるいは神の不可解な気まぐれ(金融市場)のせいにしています。しかしすでに、司祭たち自身を非難する者も出てきました。

私たちが不況と呼ぶものを、昔の文化なら「神が世界を見捨てた」と言ったかもしれません。お金が消えつつあり、それとともに魂のもう一つの特性、人間界に命を吹き込む力も、失われつつあります。この文章を書いている今、世界中の機械は停止しています。工場は完全に停止し、建設機械は敷地に放置され、公園や図書館は閉鎖され、何百万もの人々がホームレスとなり飢えに苦しむ一方で、住宅は空き家となり、倉庫では食料が腐っています。しかし住宅を建設し、食料を流通させ、工場を稼働させるための人材と物資はまだ存在しています。むしろ消えたのは、生気を与える魂という形而上的な何かです。消えたのはお金です。それこそが唯一欠けているものであり、あまりに実体がない(コンピューター内の電子という形でしかない)のでおよそ存在しているとは言い難いようなものですが、それなしでは人間の生産性が機能しなくなるほど強い力をもっています。個人のレベルでも、お金の欠乏がやる気を削ぐ効果は明らかです。失業者のステレオタイプを考えてみましょう。ほぼ無一文で、半袖シャツ姿でテレビの前にぐったりと座り込み、ビールを飲みながら、椅子から立ち上がるのもやっとの男。お金は、機械だけでなく人間をも動かすようです。それがなければ、私たちは魂を抜かれたようになってしまいます。

私たちが気づいていないのは、私たちの持つ神の概念が、その概念に合致する神を引き寄せ、地上への支配権を与えていることです。魂を肉体から、魂を物質から、〈神〉を自然から切り離すことで、私たちが任命した支配者は、魂を持たず、人を疎外し、神に背き、不自然なものとなりました。ですから、「お金を神聖なものにする」と私が言うとき、それは超自然的な存在を呼び起こして自然界の無機質で平凡な物体に神聖さを吹き込むということではありません。むしろ私は、物質と魂が分離される前の時代、つまり神聖さが万物に内在していた時代にさかのぼろうとしているのです。

では、神聖とは何でしょうか。それがもつ二つの側面は、唯一性と関連性です。神聖な物や存在とは、特別で、唯一無二で、他に類を見ないものです。したがってそれは限りなく貴重であり、かけがえのないものです。同等のものは存在せず、したがって有限の「価値」も持ちません。なぜなら価値は比較によってのみ決定されるからです。あらゆる尺度と同じように、お金は比較の基準なのです。

唯一無二であるにもかかわらず、神聖なるものは、それを形作ったすべての要素、その歴史、そして万物の母体マトリクスの中に占める場所から切り離すことはできません。今あなたは、あらゆる事物とあらゆる関係性が神聖なのだと考えているかもしれません。それは真実かもしれませんが、頭ではそう信じていても、常にそう感じられるわけではありません。あるものを私たちは神聖と感じ、あるものはそう感じません。そう感じられるものを私たちは神聖と呼び、突き詰めればその目的は万物の神聖さを私たちに思い出させることにあります。

いま私たちが生きている世界は神聖さが奪い取られてしまっているので、聖なる世界に住んでいる実感を与えてくれるものはほとんどないというのが実情です。大量生産された画一的な商品、判で押したような家々、まったく同じ包装の食品、そして名前ではなく組織の肩書きを通した人間関係など、これらすべてが世界の唯一性を否定します。私たちの身の回りの物がはるか彼方で作られること、匿名の人間関係、そして商品の生産と廃棄がもたらす結果が目に見えないこと、これらすべてが関連性を否定します。こうして私たちは神聖さを体験することなく生きています。もちろん、唯一性と関係性を否定するあらゆるものの中で、お金は最たるものです。硬貨コインという概念そのものが標準化という目的から生まれたので、どのドラクマも、どのスタテルも、どのシェケルも、どの人民元も、機能的には同一です。さらに、普遍的で抽象的な交換媒体として、お金はその起源から切り離され、物質とのつながりから切り離されています。ドルは誰からもらっても同じドルです。銀行に預けたお金を一ヶ月後に引き出して、「ねえ、これは預けたお金とは違うよ、このお札じゃなかったよ」と文句を言う人がいたら、子供みたいだと思うでしょう。

ですから何もしなければ、金銭化された人生は俗なる人生ということになりますが、それはお金とそれが買うものに神聖な性質が無いからです。スーパーマーケットに売っているトマトと、お隣さんが庭で育てて私にくれたトマトとの違いは何でしょうか。プレハブ住宅と、私を理解し私の人生を知る誰かが、私も手伝って建てた家との違いは何でしょうか。本質的な違いはすべて、与える者と受け取る者の唯一性を含んだ特定の関係性から生じます。人生がこうした物で満ちているとき、心を込めて作られ、私たちの知っている人々や場所と物語の網の目で繋がった物で満ちているとき、それは豊かな人生であり、滋養に満ちた人生です。現代の私たちは画一性と匿名性の集中砲火を浴びながら生きています。カスタマイズされた製品でさえ、それが大量生産品なら、同じ標準的な構成部品からできたいくつかの変種の一つに過ぎません。この画一性が魂を殺し、人生を安っぽくするのです。

聖なるものがあるということは、帰るべき家が常にそこにあり、帰るべき真実が常に存在してきたようなものです。そこに帰るのは、昆虫や植物を観察するとき、鳥のさえずりや蛙の鳴き声の交響曲を聴くとき、足指の間に泥を感じる時、美しく作られた作品を眺めるとき、細胞や生態系の信じがたいほど調和した複雑さを理解するとき、人生における共時性シンクロニシティや象徴を目にするとき、遊ぶ子供たちの幸せな姿を見る時、あるいは天才の作品の前に心を打たれる時です。こうした体験は並外れたものではありますが、決して人生の他の部分から切り離されたものではありません。むしろその力は、より本物の世界、つまり私たちの世界の根底に染み渡っている聖なる世界の一端を垣間見ることから来るのです。

この「常にそこにあった家」とは何でしょうか、この「常に存在してきた真実」とは何でしょうか。それは万物の一体性や相互のつながりという真実であり、その感覚とは、自己を超えた何かであると同時に自己そのものでもある何かに、参加しているという感覚です。生態学エコロジーにおいて、これは相互依存の原理です。つまり、あらゆる存在の生存は、それ自身の周囲を取り巻く他の存在たちが創り出す網の目に依存しており、その網は究極的に地球全体を包み込むまでに広がっているのです。どんな生物種でも絶滅すれば、私たちの全体性ホールネス、私たちの健康、そして自分自身を損ないます。私たちの存在そのものから何かが失われるのです。

聖なるものは万物の根底をなす一体性への入り口であると同時に、各々の物の唯一性と特別さへの入り口でもあります。聖なる物は唯一無二の存在であり、無個性な属性に落とし込めない固有の特質を宿しています。だからこそ還元主義的な科学は世界から神聖さを奪うように見えるのですが、そこではあらゆるものが少数の無個性な構成要素の組み合わせにされてしまうからです。この理解の写し絵となっている私たちの経済制度そのものが、標準化された無個性な商品や、職務明細書、製造工程、データ、投入物と産出物、そして最も無個性な究極の抽象概念である「お金」で構成されています。昔はそうではありませんでした。部族社会の人々は、あらゆる存在をカテゴリーの一員としてではなく、魂を持つ唯一無二の個体として捉えていました。岩や雲、一見すると同じ水滴さえも、それぞれが感覚を持つ唯一無二の存在と考えられていました。人の手が産み出した物もまた唯一無二であり、そこに特徴的な不規則性によって作り手の印を宿していました。ここに結びついていたのは、聖なるものがもつ繋がりと唯一無二という二つの性質でした。唯一無二の物は、その起源の痕跡を持ち、存在の大いなる母体マトリクスに固有の位置を占め、自らの存在を他のものたちに依存しています。標準化された物、つまり商品は均一であり、したがって関係性から切り離されています。

本書で私が描くのは、あらゆるものの相互関係性と唯一無二性を体現する、神聖な貨幣制度と経済のビジョンです。それはもう、根底にある自然の母体マトリクスから、事実の上でも認識の上でも切り離されることがありません。長らく分断されてきた人間と自然という領域を再統合するとともに、生態学の法則すべてに従い、その美しさをすべて宿すことで、生態学の延長となるのです。

私たちの文明を作っているあらゆる制度には、たとえどれほど醜く腐敗していても、美しいものの芽生えを宿しています。それは同じ音階を高いオクターブで奏でるようなものです。お金も例外ではありません。その本来の目的は、人の贈与ギフトと人の必要とを結びつけ、私たち皆がより豊かな生活を送れるようにすることに尽きます。にもかかわらず、お金が豊かさではなく不足を生み、繋がりではなく分断を生むようになった経緯は、本書のテーマのひとつです。しかし、お金が今どんなものになってしまったとしても、贈与ギフトの仲立ちというお金の本来の理想の中に、いつの日か再びお金の神聖さを取り戻してくれるものの片鱗を垣間見ることができます。贈与ギフトの交換は神聖な機会だと私たちは認識していますが、だからこそ贈り物をするときには本能的に儀式を伴うのです。ですから神聖なお金は与えるための仲立ちとなり、世界経済に贈与ギフトの魂を吹き込む手段となるのです。それは部族や村落文化を支配していたものであり、今でも貨幣経済の外で人々が互いのために行動する場所には残っています。

『聖なる経済学』はこの未来を描くと同時に、そこに至る実践的な道筋を示します。かつて私は社会の欠点を批判するだけで前向きな代案を示さない本にうんざりしました。次には「炭素排出量を90%削減しなければならない」といった実現不可能に思える理想を掲げる本にも嫌気がさしました。そして、実現可能と思える方法は示しながらも、私個人として具体的に何ができるかを説明しない本にも飽き飽きしました。『聖なる経済学』は次の四つのレベルすべてを扱います。第一に、貨幣の何が間違っているのか根本的に分析します。第二に、異なる貨幣と経済に基づくもっと美しい世界を構想します。第三に、その世界を創るための集団的行動と、その実現手段を説明します。そして第四に、世界変革の個人的側面、つまりアイデンティティと存在の変容を探求します。これは私が「贈与ギフトの中に生きる」と言い表すものです。

貨幣の変革は世界の病に対する万能薬ではなく、他の領域の改革運動より優先されるべきでもありません。コンピュータ内のビットを単に組み換えるだけでは、地球を現実に蝕んでいる物質的・社会的な破壊を消し去ることはできません。しかし、貨幣の変革がなければ、他の領域における癒しの作業も、その可能性を十分に発揮できないほどに、貨幣は私たちの社会制度や生活習慣に深く織り込まれています。私が述べる経済的変化は、あらゆるものを含む壮大な変革の一部であり、生活のいかなる側面もそのまま残ることはありません。

人類はようやく目前にある危機の本当の大きさに目覚め始めたばかりです。これから述べる経済の変革が奇跡と思えるなら、それは、この世界を癒すには他ならぬ奇跡こそが必要だからです。金融から生態系の回復、政治、技術、医療に至るあらゆる領域で、現在において可能だとされている限界を超えた解決策が必要なのです。幸いなことに、古い世界が崩壊するにつれ、何が可能かという私たちの認識は広がり、それとともに行動する勇気と意志も拡大します。現在という一点に集中する危機、つまり金融、エネルギー、教育、健康、水、土壌、気候、政治、環境などの危機は、誕生の危機であって、私たちを古い世界から新たな世界へと押し出すものです。避けがたく、これらの危機は私たちの個人的な生活にも侵入し、私たちの世界は崩壊し、私たちもまた新たな世界、新たな自己観アイデンティティへと生まれ変わるのです。だからこそ、地球規模の危機、さらには経済の危機にさえも魂の側面があるのを、多くの人々が感じ取るのです。私たちが感じ取っているのは、「日常」はもう戻らないこと、私たちは新たな日常へと生まれ変わりつつあることです。それは新たな社会のあり方、地球との新たな関係、人間であることの新たな体験です。

私たちの心が可能だと告げるもっと美しい世界のために、私は全精力を捧げます。あえて「ハート」と表現するのは、私たちの知性マインドは時にそれが不可能だと告げるからです。知性は、経験が教えてきたものから状況が大きく変わることは決してないと疑います。私が神聖な経済について述べた文章を読んで、あなたは冷笑や軽蔑、あるいは絶望の波を感じたかもしれません。私の言葉を望みのない理想論として退けたくなる衝動に駆られたかもしれません。実際、私自身もこの表現をもっと控えめに、現実的で、「責任ある」ものにして、人生や世界にとって何が可能かについて私たちがもつ低い期待に沿うようにしようかという誘惑にかられました。しかし、そんなふうに弱体化したなら真実ではなかったでしょう。私は知性の道具を用いて、私が心に抱いたことを語ります。私の心が知っているのは、これほど美しい経済と社会を、私たちが創造することは可能だということです。そしてそれ以下のものは、私たちにふさわしくないということです。神聖な世界より低いものを切望するほどに、私たちは壊れてしまったのでしょうか。


目次
次> 贈与の世界①

原文リンク:https://sacred-economics.com/sacred-economics-introduction/


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