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【聖なる経済学】 贈与の世界①

訳者コメント:
私は賜物ギフト。私が産まれてここにいるのも、息をしているのも、自分で獲得したものではありません。太陽があるのも、地球が食べ物を与えてくれるのも、自分が作ったのではありません。原初的に持っているこの感覚が、感謝です。「有り難い」、つまり有り得ないほどの、ありがたさです。それに対する自然な反応が、お礼に自分の何かを捧げたい。これが贈与、ギフトです。与えられる賜物と、感謝の贈り物が、対をなして反対方向に流れる。これがギフト経済です。贈り物は、贈った人の一部が自分の中に入ってくること。だから匿名の商品とは違う唯一無二のものになる、と同時に、贈り主の魂を取り込んで、自己の輪郭が少し広く大きくなるのです。


第1部:分断の経済学

現代に折り重なる危機にはすべて共通の根源があって、それを〈分断〉と呼んでもいいでしょう。人間と自然の断絶、共同体の崩壊、現実が物質と魂の領域に分裂したことなど、様々な形をとる分断は、文明のあらゆる側面に織り込まれています。それは持続不可能でもあります。それが生み出す巨大で高まりゆく危機は、私たちを新たな時代、〈再合一の時代〉へと駆り立てています。

分断は究極の現実ではなく人間の投影であり、イデオロギーであり、物語です。あらゆる文化と同じように、私たちを定義づける〈人々の物語〉は、深く関連する二つの部分、すなわち〈自己の物語〉と〈世界の物語〉から成っています。〈自己の物語〉とは「個別ばらばらの自己」です。これは、心理の泡、皮膚に包まれた魂、遺伝子によって生殖という自己利益を追求するよう駆り立てられた生物学的表現型、経済的自己利益を求める合理的行為者、物体である宇宙を見ている身体を持った観察者、肉体の牢獄に囚われた一粒の意識です。〈世界の物語〉とは「上昇の物語」です。これが言うのは、人類は無知と無力の状態から出発し、自然の力を利用し宇宙の秘密を探求しながら、自然を完全に支配し超越するという宿命へと否応いやおうなく向かっているということです。これは人間界が自然界から切り離される物語であり、そこでは前者が拡大する一方で後者が次第に資源・商品・財産、そして最終的にはお金へと転換されるのです。

お金とは、社会的合意、意味、記号の体系であり、時とともに発展するものです。一言で言えば、それは物語であり、法律、国家、制度、暦と時刻、宗教、科学といったものと共に、社会的現実の中に存在します。物語は途方もない創造力を秘めています。物語を通じて、私たちは人間の活動を調整し、注意と意図を集中させ、役割を定義し、何が重要で、さらには何が現実であるかを規定します。物語は人生に意味と目的を与え、その結果として行動の動機を与えます。お金は、私たちの文明を定義する〈分断〉の物語の要となる要素です。

『聖なる経済学』第一部では、〈分断〉の物語を基盤として生まれた経済システムを明らかにします。匿名性、非人格化、富の二極化、無限の成長、生態系の破壊、社会の混乱、そして修復不可能な危機は、私たちの経済システムに深く組み込まれているので、それを癒すには、私たちを定義づける〈人々の物語〉そのものを変革することが不可欠です。私の意図は、分断の経済学の基本的特徴を明らかにすることにより、再合一の経済学、つまり分断された共同体や、関係性、文化、生態系、地球を全体性ホールネスへと回復させる経済学を構想する力を、私たちのものにすることにあります。


第1章:贈与ギフトの世界

この長い年月が経っても
太陽は決して大地に言わない
「お前は私に借りがある」と

見てごらん
そんな愛がもたらすものを
それが空のすべてを照らすのだ

 (ハーフェズ)

はじめに賜物ギフトありき。

私たちが生まれたとき、無力な赤ん坊で、純粋な欲求の生き物で、与えるものなどほとんどありませんが、それでも私たちは養われ、守られ、服を着せられ、抱かれ、慰められます。それに見合うことは何一つしておらず、何か見返りを差し出すこともないのに。この体験は、幼少期を過ぎたすべての人に共通し、私たちの魂の最も深い直感を形作ります。私たちの命は「与えられた」もの。ゆえに私たちの本来の姿は感謝です。それが私たちの存在の真実なのです。

あなたの幼少期がひどく恐ろしいものだったとしても、今この文章を読んでいるなら、あなたは少なくとも大人になるまで生きられるだけのものは与えられていたのです。人生の最初の数年間で、生きるのに必要なものは、あなたが稼ぎ出したり生み出したものではありません。すべて贈り物だったのです。想像してください。たった今、ドアの外へ出た途端、自分が全く無力な異世界に放り出されたのに気付きます。自分で食べたり服を着ることもできず、手足も動かせず、自分の身体と世界の境界すら区別できません。そこに現れた巨大な存在が、あなたを抱きしめ、食べさせ、世話をし、愛してくれるのです。感謝の気持ちでいっぱいにならないでしょうか。

死の瀬戸際をさまよった直後や、最愛の人の最期を見届けた時のような、心が澄み渡る瞬間に、私たちは生命そのものが贈り物だと悟ります。生きていることへの圧倒的な感謝に包まれるのです。私たちの歩みを満たしている驚きは、人生で身に余る豊かな恵みが、惜しみなく与えられることです。息をする喜び、色彩と音の愉しみ、喉の渇きを癒す水の心地よさ、愛する人の顔の優しさ。この畏敬と感謝が入り混じった感覚が明らかに示すのは、そこに聖なるものがることです。

私たちがこれと同じ畏敬と感謝の念を抱くのは、自然の壮大さ、生態系や生物・細胞の奇跡的な複雑さと秩序を理解したときです。それらは有り得ないほど完璧で、私たちの知性が思い付き、創り出す能力さえもはるかに超え、理解できるのはほんのわずかな部分に過ぎません。にもかかわらず、それらは存在していて、私たちを養い包み込む世界全体を、私たちが設計する必要などありません。種子が発芽し成長する正確な仕組みを理解する必要はありませんし、人の手でそれを起こさせる必要もありません。今日でさえ、細胞や生物、生態系の働きはほとんど謎に包まれています。それを作り出す必要もなく、内部の仕組みを理解する必要すらないのに、私たちは自然の恵みを受けます。世界が無償で与えた不相応なほどの恵みを、私たちの遠い祖先がどれほどの驚嘆と感謝をもって見つめていたか、想像できるでしょうか。

古代の宗教思想家たちが、「神が世界を創った」と言ったのは当然ですし、「神が世界を我々に与えた」と言ったのも無理のないことです。前者は謙虚さの表れであり、後者は感謝の表れです。悲しいことに、後の神学者たちはこの認識をねじ曲げ、「神は我々が世界を搾取し支配し征服するために与えた」と解釈しました。このような解釈は、もともとの認識の精神とは反対のものです。謙虚さとは、この贈り物が私たちの支配力を超えていると知っていることです。感謝とは、贈り物の使い方によって、贈り主を敬うか、あるいは侮辱することになると知っていることです。

現代の宇宙論もまた、宇宙が贈り物だという神話の認識を裏付けています。ビッグバンとは、無から何かが(というより、全てが)生じたということではないでしょうか[1]。この感覚をさらに強めるのは、物理学の様々な定数(光速、電子質量、四つの基本力の相対的な強さなど)を詳しく調べ、それらがすべて物質や星々や生命を含む宇宙に必要となる正確な値を、不思議なことに持っていると判明したことです。まるで宇宙全体が私たちのために、私たちが存在できるように構築されたかのようです。

はじめに賜物ギフトありき。世界の原初においても、私たちの人生の始まりにおいても、そして人類の揺籃ようらん期においてもそうでした。ゆえに感謝は私たちにとって自然なものであり、あまりにも根源的で、あまりにも本質的なため、定義するのは非常に困難です。おそらくそれは「賜物を頂いたという感覚」であり、「その見返りとして与えたいという欲求」です。したがって、この根源的な感謝と結びついた原始的な人々が、社会・経済的な関係においてそれを実践したことは想像に難くないでしょう。実際、彼らはそうしました。貨幣の歴史に関するほとんどの記述は原始的な物々交換から始まりますが、狩猟採集民の間で物々交換は比較的稀なことです。経済的交換の最も重要な形は贈与ギフトでした。

原始的とはいえ、感謝という感情と、そこから生まれる寛大さと同時に存在しているのは、人間性の他の、あまり芳しくない側面です。人間の根源的な神性を私は信じていますが、その神性から離れる長い旅路を歩み始め、冷酷な反社会的人間ソシオパスが富と権力に上り詰めるような世界を創り出したことも認識しています。本書では、そのような人はいないなどと偽りませんし、そうした傾向が誰にでもあることを否定しません。むしろ、私たちの中に眠っているギフト精神を目覚めさせ、その精神を具体化し促進する制度を構築することを目指します。人間の本性は孤立して存在するのではなく、状況に応じて現れ出るのです。今日の経済システムでは利己心と貪欲が報われます。では、古代の文化のように寛大さに報いる経済制度とは、どのような姿になるのでしょうか。

まず贈与ギフトの力学をより深く理解することから始めましょう。前に経済的「交換」のことを言いましたが、それは一般的にいえば贈与ギフト社会の正確な表現ではありません。「循環」という方が適切です。現代では贈り物を交換することが多いですが、贈り物の「交換」はすでに物々交換に向けた一歩です。古代の共同体では贈り物の授受を複雑な慣習が規定していましたが、現在そのような慣習は過去とのつながりを完全に失っていない社会に今なお残っています。贈与のネットワークは血縁ネットワークと密接に結びついているのが普通です。慣習によって誰が誰に贈るか決まっています。ある続柄の者に対しては贈ることが期待され、別の続柄の者からは受け取ることが求められ、また別の続柄の者とは贈与が双方向に流れることもあります。

贈与は返礼として行われる場合もありますが、しばしば循環する流れを作り出します。私があなたに贈り、あなたが別の誰かに贈り…やがて誰かが私に返してくれます。有名な例がトロブリアンド諸島民のクラ交易で、ここでは貴重な首飾りが島から島へ一方向に循環し、腕輪が逆方向に循環します。人類学者ブロニスワフ・マリノフスキが初めて詳細に記述したクラ交易は、文字通り「円」を意味し、贈り物など経済的交換の壮大な制度の要となっています。マルセル・モースは次のように説明しています。

交換贈与の制度は、トロブリアンド諸島の人々の経済的・部族的・道徳的生活のあらゆる側面に浸透している。マリノフスキが極めて的確に表現したように、それは「浸透している」のである。それは絶え間ない「与え合い」である。この過程は、贈られ、受け入れられ、返礼される贈り物があらゆる方向に絶え間なく流れ続けることで特徴づけられる。[2]

クラ交易の頂点には、首長たちによる腕輪や首飾りの高度に儀式化された交換がありますが、それを取り巻く贈与の網の目は、あらゆる種類の実用品、食料、舟、労働力などにまで及びます。モースの指摘によれば、完全な物々交換は希なことです。いずれにせよ「一般的に、いかなる形であれ、この方法で受け取って所有したものでさえ、それが不可欠でない限り、自分のために保持されることはない」のです[3]。つまり、贈り物は絶え間なく流れ続け、その循環が止まるのは、差し迫った現実の必要に遭遇した時だけです。ルイス・ハイドはこの贈与の原理を詩的にこう描写しています。

贈り物ギフトは何もない場所に向かって移動する。その輪の中を巡ると、最も長い間何も持たずにいた人のほうを向き、他の場所にもっと必要とする人が現れれば、元の経路を離れてその人の方へと移動する。私たちは気前が良すぎて手ぶらになってしまうかもしれないが、空っぽになることで、それが全体に優しく働きかけ、巡っているものを引き寄せて、私たちを再び満たしてくれる。社会の本質は真空を嫌うのだ。[4]

今日では贈り物と商取引を明確に区別していますが、過去においてこの区別は決して明確ではありませんでした。トアリピ族やナマウ族のような文化圏では、購入・販売・貸与・借用をたった一つの言葉で表していました[5]。また古代メソポタミアの語「シャーム(šám)」は「買う」と「売る」の両方を意味しました[6]。この曖昧さは中国語、ドイツ語、デンマーク語、ノルウェー語、オランダ語、エストニア語、ブルガリア語、セルビア語、日本語など多くの現代語にも残っていますし、「借りる」と「貸す」を同じ言葉で表す言語も多いのですが、これは両者が区別されていなかった古代の名残かもしれません[7]。この曖昧さは英語においても方言の中に残っていて、時に「借りる」を「貸す」の意味で用い、「彼に20ドルを借りてやった」のように言うことがあります。どうしてこうなるのでしょうか。どうして同じ言葉が二つの相反する行為に適用できるのでしょうか。

この謎への答は贈与の力学にあります。ジャック・デリダが「無償の贈与」と呼んだ稀な、おそらく理論上の例外を除けば、贈与ギフトには何らかの交換の証が伴うか、あるいは道義的・社会的な(あるいはその両方の)義務、つまり義理が伴います。現代の金銭取引はその場限りで義理が残りませんが、贈与取引はこれとは異なり、終わりがなく参加者の間に持続的な絆を生み出します。別の見方をすれば、贈り物は贈り主を宿しているのであり、贈り物を与えるとき、私たちは自分自身の一部を与えているのです。これとは正反対である現代の商品取引では、売られる商品は単なる所有物であり、売り手とは別のものです。この違いは誰でも実感できます。おそらくあなたも誰かから贈られた宝物を持っているでしょう。客観的に見れば買った物と区別がつかないかもしれませんが、誰から贈られたかによって唯一無二の特別なものとなります。こうして古代の人々は、贈り物と共に魔法のような性質、つまり魂が巡っているのを認識したのです。

子安貝の貝殻や、美しいビーズ、首飾りといった役に立たない物が、最も初期の貨幣でした。それらを実用的価値のあるものと交換することは、単純に言えば、贈り物を円滑にする手段に過ぎません。贈り物はもともと無償なのです。貨幣はそれを有償の交換へと変えますが、それでも贈り物であることに変わりはありません。なぜならそれらは、義理という感覚に物理的な形を与えているに過ぎず、感謝の印だからです。この視点からすれば、売りと買い、貸しと借りの同一性は容易に理解できます。それらは逆の行為などではありません。あらゆる贈り物は別の形で贈り主のもとへ還ってきます。買い手と売り手は同等なのです。

今日の商取引には非対称性があって、買い手はお金を渡して商品を受け取る側であり、売り手はお金を受け取って商品を提供する側だと見なします。しかし同じように、「買い手」は商品と引き換えにお金を売り渡しているのであり、「売り手」は商品でお金を買っていると言うこともできるでしょう。言語学的・人類学的な証拠が示すのは、この非対称性がお金の誕生よりもずっと新しい現象であることです。では、お金に何が起きたために、この非対称性が生まれたのでしょうか。お金は世界のあらゆる商品と違っていて、後述するように、この違いこそがお金を俗なるものとする上で決定的に重要なのです。

一方、私たちは贈り物を直感的に神聖なものと認めますし、だからこそ現代でも贈り物には儀式が伴うのです。贈り物は「序文」で論じた神聖さの鍵となる性質を具体化します。その第一は唯一性です。今日の標準化された商品はお金によるその場限りの取引で購入され、その物の由来から切り離されてしまいますが、これとは違って贈り物は、贈り主を宿しているという点で唯一無二なのです。第二には全体性ホールネス、相互依存性です。贈り物は自己の輪を広げ、共同体の全体を含むまでに拡大します。現代のお金は「私の分が増えれば、あなたの分は減る」という原理を具体化しますが、贈与ギフト経済では、あなたの取り分が多ければ私の取り分も多くなります。それは、持てる者が必要とする者に与えるからです。贈り物が深めてくれる神秘的な認識があります。それは、自分が加わっている存在は、自己を超えた大いなるものでありながら、自己とは別のものではないという認識です。自己が他者の何かを含むまでに拡大したので、合理的な自己利益という原理が変化するのです。

②に続く

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目次
次> 贈与の世界②

注:
1.『人類の上昇』の読者は、私がホルトン・アープの動的定常宇宙論のように、物質が絶えず生まれ、老い、死んでいくようなビッグバン以外の宇宙論を好むことをご存じでしょう。しかしここでもまた、物質はあたかも贈り物のように、何もないところから自発的に現れるのです。
2. モース[Mauss], 『The Gift(贈与論)』, 29.
3. 同, 30.
4. ハイド[Hyde], 『The Gift(ギフト: エロスの交易)』, 23.
5. モース[Mauss], 『The Gift(贈与論)』, 32.
6. シーフォード[Seaford], 『Money and the Early Greek Mind(貨幣と古代ギリシャ人の精神)』, 323.
7. 中国語における「買う」と「売る」を表す語は、発音がほぼ同一で、表意文字も類似しています。「買」の字は貨幣の原型である貝殻(子安貝)を描写したことに由来する一方、「売(賣)」の字は後世に発展したもので、初期には両者の区別が存在しなかったことを示唆しています。

原文リンク:https://sacred-economics.com/sacred-economics-chapter-1-the-gift-world/


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