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「コロネーション」 (1) チャールズ・アイゼンスタイン

訳者より:チャールズ・アイゼンスタインが数々の著作を通し一貫して主張しているのは、現代文明の根本を成している「分断の物語」のもたらす害です。コロナウイルスへの反応として、社会は雪崩を打ったように戦闘モードになってしまいました。敵を見つけて戦う癖は、分断の物語の帰結です。新型コロナウイルスが猛威を振るい始めた頃、チャールズは短編エッセイ「コロネーション」を発表しました。そのとき早くも、文明の病が再び発動したことを、彼は見抜いていました。それ以来、彼が発表してきたエッセイをまとめ、同じ題名の「コロネーション」として書籍化されました(英語ですけど)。その出発点をふり返るため、短編エッセイ「コロネーション」を翻訳してみます。短編といっても少々長いので、3回に分けて掲載します。今回はその第1部。


コロネーション

チャールズ・アイゼンスタイン、2020年3月

これまで何年も、ピンピンに引き延ばされていた「普通」の生活というロープは、ますます強く引っ張られ、想定外の事態が起きたならプツリと2本に切れそうになっていました。今まさにこのロープは切れたのですが、私たちはその切れ端を再び1本に結ぶのでしょうか、それともだらりと垂れ下がった紐をほどいて何をそこから編み出すことができるかを見るべきなのでしょうか。

新型コロナウイルスが私たちに見せようとしているのは、人類が共通の目的のために団結すれば、驚異的な速さで変化を起こせるということです。世界の数々の問題はどれも技術的に解決が難しいものではありませんが、それらは人々の意見の不一致から発生するのです。一致団結すれば、人類の創造性には限りがありません。パンデミックの前には、民間航空機での旅行を停止するという提案は現実離れしたものと映ったでしょう。同じことが、私たちの社会行動や、経済、行政が生活に及ぼす役割に対して、私たちが起こそうとしている根本的な変革にも当てはまります。コロナウイルスのおかげで、重要なのは何かを合意したときに私たちが発揮する集団的な意思の力が明らかになりました。私たちが一致団結したら、他に何が達成できるでしょうか。私たちが成し遂げたいのは何で、どんな世界を造りたいと求めるでしょうか。自分の力に目覚めるとき、必ずその疑問に向き合うことになります。

新型コロナウイルスは依存症患者の社会復帰を手助けするようなもので、「普通」依存への囚われから私たちを解き放ちます。習慣を断つにはそれを目に見えるようにすることです。強制されるのではなく自らの選択へと変えることです。この危機が落ち着いたとき、私たちは普通に戻りたいのかどうか、それとも普通のパターンが中断したこのひとときの間に私たちが見たものの中に、未来へと引き継いでいきたいものがあったのかどうかを、問う機会が訪れるかも知れません。大勢の人々が仕事を失ったいま、その仕事はすべて世界がいちばん必要とする仕事なのかどうか、私たちの労働と創造力を活かす場所がどこか別のところあるのかどうか、私たちは問うかも知れません。しばらくそれ無しで過ごしてみて、飛行機旅行や、ディズニーワールドでの休日、商品展示会が、本当にそんなに必要なのかどうか、私たちは問うかも知れません。経済のどの部分を復旧し、どの部分を手放す選択をするでしょうか。コロナウイルスで中断したのは、軍事力によるベネズエラの政権転覆作戦のように見えたもので、おそらく帝国主義の戦争も国際協力という未来において私たちが手放すものの一つでしょう。もっと暗い言葉では、いま奪い去られつつあるもの、つまり人権、集会の自由、自分の身体への支配権、対面での集会、ハグ、握手、公の生活といったものの中で、私たちが意図的に政治的・個人的意思を行使して回復しなければならないのは何でしょうか。

これまで私が歩んできた人生のほとんどで、人類は別れ道にさしかかっているという感覚を私は抱いていました。いつも、危機、崩壊、断絶が間近に迫っていて、すぐそこのカーブを曲がったところにあるように見えたのですが、いつまでたってもその時は到来しませんでした。道を歩いていて、その先を見ると別れ道があるのを想像してください。それは丘のすぐ向こう、カーブを曲がったところ、森の先にあります。丘のてっぺんまで来て、見当違いだったのが分かります。それは蜃気楼で、思ったよりずっと遠かったのです。あなたは歩き続けます。あるときには別れ道が見えますが、あるときには見えなくなって道はこのまま永遠に続くように見えます。別れ道など無いのかも知れません。いや、またそこにあります。いつもすぐそこにあるように見えます。でもけっしてそこにたどり着くことはありません。

そして今、前触れもなく、私たちはカーブを曲がり別れ道に来てしまったのです。私たちは立ち止まり、いま起きていることをほとんど信じられません。先人の歩いた道に何年も閉じ込められていたので、いま私たちがとうとう選択の時を迎えたことを、ほとんど信じられません。今までとはまったく違う状況に呆然となった今、私たちは立ち止まるべき時です。私たちの前から別れていく道が何百もある中で、あるものはこれまで進んできたのと同じ方向に向かいます。あるものはこの世の地獄へと至ります。そしてあるものは、これまで可能だとは信じようともしなかったような、癒された美しい世界に向かっています。

あなたと同じところに立つことをねらって、私はこの言葉を書いています。いま何本もの別れ道を前にして、戸惑い、もしかすると恐れを抱き、それでも新たな可能性を、あなたは感じているでしょう。別れ道のいくつかを見下ろし、どこに至るのかを見てみましょう。


* * *

私が友人からこの話を聞いたのは先週のことでした。彼女は食料品店の通路ですすり泣いている女性を見かけました。ソーシャルディスタンスの規則を無視し、彼女はその女性に歩み寄ってハグをしました。「ありがとうね」と女性は言いました。「この10日間ハグしてもらったことは一度もなかったの。」

ハグなしで数週間を過ごすことは、何百万もの命を奪う感染症を食い止めるためなら、小さな代償に見えます。最初は、ソーシャルディスタンスの主張は、コロナウイルス感染症の急激な増加による医療システムの崩壊を避けることで何百万もの命を救うというものでした。いま政府当局が私たちに言うのは、少なくとも効果のあるワクチンができるまで、ある程度のソーシャルディスタンスは無期限に継続する必要があるかもしれないということです。長期的なことに目を向けるならなおさら、その主張をもっと大きな文脈の中に置いてみたいと思います。ソーシャルディスタンスを制度化し、それを中心にして社会を再設計するなどということが無いように、私たちがどのような選択を、なぜするのかについて、意識するようにしましょう。

同じことがコロナウイルスの蔓延をめぐって起きている他の変化にもいえます。それが全体主義的統制という意図にぴったりと当てはまる様子を指摘する解説者もいます。恐れを抱いた大衆が、こんなことでも無ければ正当化できないような人権の剥奪を認めます。たとえば全ての人の行動の常時追跡や、医療の強制、強制隔離、旅行や集会の制限、当局が偽情報と見なすものの検閲、人身保護の停止、軍による民間人の取締りなどです。この多くは新型コロナウイルスの前から進んでいましたが、それ以後は逆らえない動きとなりました。同じことが他の様々なことにも当てはまります。商取引の自動化、参加型のスポーツと芸能からリモート観戦・視聴への移行、生活の公共空間から私的空間への移行、学校という場所からオンライン教育への移行、小企業の破壊、伝統的な実店舗の衰退、仕事も余暇もコンピュータ画面への移行。以前からあった政治・経済・社会の動きを、新型コロナウイルスは加速しています。

その全ては、(疫学的な成長曲線の)グラフを頭打ちにするという理由で短期的には正当化できるものですが、私たちは「ニューノーマル(新しい日常)」についても多く耳にします。それはつまり、この変化は一時的なものに留まらないかもしれないということです。感染症の脅威はテロの脅威と同じようにけっして消え去ることはないので、統制措置は簡単に恒久化できてしまいます。もし私たちがどうしてもこの方向に進むのであれば、現在流布されているニューノーマルを正当化する言説はもっと深い衝動の一部であるはずです。私はこの衝動を、「反射的な支配」と「死に対する戦争」の2部に分けて分析します。そのように理解すれば、通過儀礼のチャンスが立ち現れます。それは連帯、共感、気づかいという形で私たちがもう目にしているものですが、新型コロナウイルスがそれを選び取る動機を与えてくれたのです。


反射的な支配

2020年4月の終わりにさしかかり、公式の統計では15万人が新型コロナウイルスで死亡したとされています。このまま自然な経過をたどれば、死者数は10倍にも100倍にもなるでしょう。その一人一人に、家族や友人など愛する人たちがいます。共感と良心が、必要のない悲劇を避けるため、やれることはするようにと私たちに呼びかけます。これは私にとって他人ごとではありません。私自身が限りなく愛する、高齢で衰えた母は、高齢者や虚弱者が死に至ることの多いこの病に、最も弱い人々の一人なのです。

最終的な死者数は何人に上るでしょうか。その疑問に答えるのは執筆時点では不可能です。初期の報告は不安を煽るものでした。ここ何週間もメディアが際限なく流し続けた武漢の公式発表は、3.4%という衝撃的な値でした。伝染性が高いという性質を考え合わせると、その数字が示すのは、死者数は全世界で何千万、さらには1億人に上るかもしれないというものでした。最近になって、症例の多くは軽症か無症状だということが明らかになるにつれ、推定値は急落しました。検査は重傷者に偏って行われたので、死亡率は人為的に高く見えていました。サイエンス誌に掲載された最近の論文では、感染の86%が文書化されていないので、死亡率は現在の症例死亡率が示すよりずっと低いと主張しています。もっと最近の論文はさらに進んで、米国の総感染者数を現在確認されている数の100倍(つまり症例死亡率は0.1%未満)と推定しています。これらの論文は手の込んだ疫学的な推量をしていますが、抗体検査を用いたごく最近の研究は、カリフォルニア州サンタクララの症例は過小報告されていて、実際は50〜85倍もあることを見いだしました。

クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の話はこの見方を裏付けます。乗船していた3711人のうち、約20%がウイルス検査で陽性となり、症状があったのはその半数以下で、8人が死亡しました。クルーズ船は感染には完璧な条件で、誰かが対策を始めるまで船内でウイルスが拡散するには十分な時間がありましたが、感染したのはわずか5分の1でした。さらに、このクルーズ船の人口構成は高齢者に非常に偏っていて(ほとんどのクルーズ船で似たようなものですが)、乗客の3分の1近くが70歳以上で、半数以上が60歳以上でした。ある研究チームは多数の無症状患者から、中国での真の死亡率はおよそ0.5%と結論し、より最近のデータ(前述)は0.2%に近い数字を示しています。それでもまだ季節性インフルエンザより2〜5倍高い数字です。これらのデータに基づいて(さらにアフリカと南アジア、東南アジアでのずっと若い人口構成について調整して)私の推測は米国での死者数約20万〜30万人、全世界で2百万人というものです。これは深刻な数字で、1968〜9年に大流行したホンコン風邪にも匹敵する数字です。

毎日メディアでは新型コロナウイルス感染者の総数を報じていますが、本当の数が何人なのか誰にも分かりません。なぜなら、総人口のごく少数しか検査を受けないからです。もし無症状でウイルスに感染している人が何千万人もいたら、それを知るすべはありません。問題をさらにややこしくしているのは、新型コロナウイルスの死者は過大報告されているかもしれず(多くの病院では、コロナウイルスに感染した人が死ねばコロナウイルスにより死亡したと記録されます)、あるいは過小報告されているかもしれないということです(自宅で死亡した人がいるかもしれません)。繰り返しましょう。本当に何が起きているかは誰にも分かりません。私も含めてです。人間に関して2つの矛盾する傾向があることに注意しておきましょう。1つ目はそれ自身を餌に増殖するヒステリーの傾向で、その恐怖に都合の悪いデータを排除し、世界をそのイメージどおりに作り出します。2つ目は否認で、普通で快適な状況を乱す情報の非理性的な拒否です。ダニエル・シュマクテンバーガーが問うように、あなたの信じていることが真実だとどうしてわかるでしょうか。

このような認知バイアスは政治的に二極分化した雰囲気の中では特に毒々しいものとなり、たとえばリベラル派はトランプ支持の物語に織り込まれるかもしれない情報を全て否定する傾向になる一方、保守派はそれを進んで受け入れるでしょう。

この不確実性を前に、私は一つの予測を立てたいと思います。この危機は私たちには知り得ないような形で展開するでしょう。最終的な死者数はそれ自身が議論の対象となるものですが、もし恐れていたより少なければ、介入の効果があったからだという人がいるでしょう。他の人はそもそもこの病気が言われていたほど危険なものではなかったからだというでしょう。

私にとって最も不可解な疑問は、中国で新たな患者が執筆時点で一人も出ていないようなのはなぜかということです。中国政府はウイルスが確認されてからずっと後までロックダウンを開始しませんでした。中国の旧正月の間、いくつかの旅行制限があったにもかかわらず、ほとんど全ての飛行機、列車、バスは全国を旅行する乗客で満員だったので、感染は急拡大していたはずです。ここでは何が起きているのでしょう。またしても、私には分かりませんし、あなたにも分かりません。

最終的な死者数がどうであれ、事の全体を見る視点を得るために他の数字を見てみましょう。私が言いたいのは、コロナウイルスがそれほどひどいものではなくて何もする必要は無いなどということではありません。我慢して聞いてください。2013年時点で、FAO(国連食糧農業機関)によれば、世界中で毎年5百万人の子供たちが飢餓で死んでいます。2018年には、1億5千9百万人の子供たちが発育不良で5千万人が衰弱していました。(飢餓は最近まで減少してきましたが、過去3年間で再び増加に転じました。)5百万人というのはこれまで新型コロナウイルスで死亡した人数の何倍も大きな数字ですが、この子供たちを救うため、どの政府も非常事態を宣言していませんし、私たちに生活様式を根本的に変えるように要請してはいません。全世界では年間百万人以上が、米国では5万人が命を落とす自殺(社会を覆う絶望の、これは氷山の一角に過ぎませんが)に対して同等なレベルの警告や行動を目にすることもありません。あるいは米国で7万人が命を落とす医薬品の過剰摂取、2350万人(アメリカ国立衛生研究所の数値)から5千万人(アメリカ自己免疫関連症協会)が患う自己免疫疾患の蔓延、1億人をはるかに上回る人々が患う肥満。さらに言えば、なぜ私たちは核兵器による世界の終焉や生態系の崩壊を回避するため躍起になっていないのでしょうか。それどころか、まさにそのような危険を増幅するような選択を推し進めるのでしょうか。

念を押しますが、ここで言いたいのは、私たちは子供の飢餓を止めるために何も変わらなかったのだから、コロナウイルスにも変わる必要は無いということではありません。その反対です。私たちが新型コロナウイルスでこれほど劇的に変わることができたのなら、このような他の状況にも変化を起こせるということです。なぜこのウイルスを食い止めるため集団的意思を統一することができるのに、人類に対する他の重大な脅威に対応できないのか、問うてみましょう。なぜこれまで、社会は従来の軌道に凝り固まっていたのでしょう。

その答は示唆に富んだものです。世界の飢餓や、依存症、自己免疫、自殺、生態系の崩壊を目の前にしても、私たちの社会はどうしたら良いかを単に知らないのです。そのわけは、戦うべき相手が外部にいないからです。私たちの毎度の危機対応は、みなある種の支配と制御に基づいたものですが、このような状況にはほとんど無力なのです。いま伝染病の流行が出現し、ついに私たちは行動に打って出ることができます。これこそ、検疫、ロックダウン、隔離、手洗い、移動制限、情報統制、身体の管理のような、制御と支配が効果を現す危機なのです。そのため、コロナウイルスは私たちの混乱した恐怖の都合の良い受け皿になり、世界を覆う変化を目の当たりにして高まる私たちの無力感を注ぎ込む場所となります。新型コロナウイルスは私たちが対処法を知っている脅威なのです。数ある他の恐怖とは異なり、新型コロナウイルスは行動計画を与えてくれます。

私たちの文明の既存の制度はこの時代の困難に対してますます無力になっています。そんな中で現れた対処可能な困難が、どれほど歓迎されるでしょうか。それを最重要の危機として、どれほど熱心に利用するでしょうか。情報管理のシステムは、どれほど自然に最も不安を煽る表現を選ぶでしょうか。大衆はどれほど簡単にパニックに同調し、政府当局が対処できないが故に言葉に出せない様々な脅威の代理として利用できる脅威を、大衆はどれほど簡単に受け入れるでしょうか。

現在、私たちが直面する困難のほとんどは、もはや力に屈服しません。抗生物質と外科手術は、急増する自己免疫、依存症、肥満という健康危機に対処することができません。軍隊を打ち負かすために作られた銃と爆弾は、国外の憎しみを消したり暴力を家庭内に入り込まないようにしたりするのに役立ちません。警察と刑務所は犯罪が生まれる条件を治すことができません。農薬は荒廃した土を修復することができません。新型コロナウイルスが思い起こさせるのは、感染症の困難が近代の医学と衛生に屈服した古き良き日のことであり、時を同じくしてナチスドイツが戦争マシーンに打ち負かされ、自然そのものもテクノロジーによる征服と改良に屈服した(あるいはそのように見えた)のです。それが思い起こさせるのは、兵器が実際に役立った時代、次から次へと現れる制御の技術によって世界が本当に良くなっているように見えた時代です。

どんな種類の問題なら支配と制御で打ち負かせるでしょうか。それは外にある何かによって、他者によって引き起こされた問題です。問題の原因が私たち自身の本質に関わる何かにあるとき、たとえばホームレスや不平等、依存症や肥満のような場合、戦うべき相手はどこにもありません。たとえば億万長者や、ウラジミール・プーチン、悪魔のような敵を仕立て上げ、非難しようとするかもしれませんが、そもそも億万長者(あるいはウイルス)が増殖できるような素地の条件という重要な情報を見逃してしまいます。

私たちの文明が得意なことが一つあるとすれば、敵と戦うことです。私たちは得意なことをするチャンスを歓迎し、そうすることでテクノロジーや制度、世界観の正しさを証明します。だからこそ、私たちは敵を作り出し、犯罪やテロ、病気のような問題を我らと奴らの対決という文脈に投影し、私たちの集団的エネルギーをそのような見方に合致する企てに向けて動員します。こうして、私たちは新型コロナウイルスを軍隊への召集令状として選び、まるで戦争遂行のためであるかのように社会を再編成する一方で、核兵器による世界終焉の可能性や、生態系の崩壊、飢餓に瀕した5百万人の子供のことを正常だと見なします。


陰謀説の物語

新型コロナウイルスが全体主義者の願い事リストにある非常に多くの項目に正当性を与えるように見えるので、これは意図的な権力闘争だと信じる人たちがいます。その説に賛成して推し進めたり、反対して誤りを暴いたりするのは私の目的ではありませんが、一段上から眺めたコメントをしましょう。まず手短にはこういうことです。

このような説は(数々のバリエーションがありますが)、(ゲイツ財団やCIAなどが出資し2019年10月に開かれた)イベント201と、「ロックステップ」と呼ばれるシナリオを詳述した2010年のロックフェラー財団白書のことを引き合いに出します。このどちらも仮想的なパンデミックへの権威主義的な対応計画を立てています。インフラ、テクノロジー、戒厳令実施の法的枠組みが何年にもわたって準備されてきたことに注目します。足りないのはそれを大衆に受け入れさせる方法だけだったのですが、いまそれが到来したというのです。現在の統制がこれからずっと続くかかどうかにかかわらず、前例が作られています。たとえば、

(コロナウイルス対策のため)人の移動の常時追跡
(コロナウイルス対策のため)集会の自由を停止
(コロナウイルス対策のため)軍が市民を取り締る
(コロナウイルス対策の検疫で)司法手続き無しで無期限に拘留
(コロナウイルス対策のため)現金の使用を禁止
(コロナウイルス対策で、虚偽情報の撲滅のため)インターネットの検閲
(コロナウイルス対策のため)ワクチン接種など医療行為を義務化し、国家による身体への支配権を確立

あらゆる活動と目的地を許可か禁止で明示的に指定し(この目的なら家から外出しても良いが、あの目的ではダメ)、取締りや法の及ばないグレーゾーンを一掃する。そのような全体性こそ全体主義の本質です。でも今は必要ですよね、コロナウイルス対策のためですから。

これは陰謀説にとって興味をそそる題材です。もしかしたら、そのような説の中に真実が含まれているかも知れませんが、同じような事態の展開は、支配強化へと向かう社会全体に広がる無意識の偏向からも起こり得ます。この偏向はどこから来るのでしょう。それは文明のDNAに織り込まれています。何千年にもわたり、文明は(小規模な伝統的文化とは対照的に)進歩を世界への支配の拡大だと理解してきました。野生を飼い慣らし、未開人を征服し、自然の力を征服し、法と理性に基づいて社会を秩序づけてきました。支配のレベルアップは科学革命とともに加速し、「進歩」を新たな高みへと押し上げました。現実を客観的なカテゴリーと数値で秩序づけ、物質をテクノロジーで征服しました。そしてついに、社会科学は同じ手段と手法を使って完璧な社会を作るという(プラトンや孔子にまでさかのぼる)野心を達成すると誓いました。

したがって文明を運営する人々は自分たちの支配を強化するチャンスは何でも歓迎します。なぜなら、結局それは人類の宿命という壮大なビジョンに役立つからです。その完璧に秩序づけられた世界では、病気や犯罪、貧困、そしておそらく苦痛そのものを技術によって取り除くことができます。そこに悪辣な動機など必要ありません。もちろん彼らは全ての人を追跡し記録したいと思うでしょう。そうすれば公共の利益を確保するためにますます好都合です。彼らにとって、新型コロナウイルスはその必要性を証明してくれるものです。「コロナウイルスのことを考えたら、我々に民主的な自由を追い求める余裕などあるだろうか」と彼らは問いかけます。「いま安全確保のため、民主的な自由は、やむを得ず犠牲にすべきではないのか。」どこかで聞いたような言葉です。過去にも9.11のような他の危機では付き物でした。

誰でも知っている例え話ですが、ハンマーを持った男を想像してください。彼はそれを使う理由を探し回っています。突然彼は突き出ている釘を見つけます。彼は長らく釘を探していて、ネジやボルトを叩いては、あまり効き目がないのでがっかりしていました。彼が生きている世界観では、ハンマーこそ最高の道具で、釘を打ち込めば世界を良くすることができるのです。そして目の前には釘があります。その釘は彼が熱意のあまり自分で置いたものではないかと疑っても良いかもしれませんが、それはどちらでも良いことです。もしかすると突き出ているのは釘ではないのかも知れませんが、じゅうぶん釘に見えるので打ち始めます。道具がいつでも使える状態なら、それを使うチャンスが現れるものです。

権威を疑う傾向のある人のために付け加えておきますが、もしかすると今回は本当に釘なのかも知れません。その場合、ハンマーは正しい道具です。そしてハンマーの本質はより強く現れ、ネジにも、ボタンにも、クリップにも、裂け目にも使う構えです。

どちらにしても、私たちがここで扱う問題はイルミナティという邪悪な集団を打倒するよりもっと深いものです。そのような集団が本当に存在するとしても、文明が偏向していることを考えれば、そのような集団がいなくても同じ傾向が続くでしょうし、新たなイルミナティが現れて古い集団から役割を引き継ぐでしょう。

うそであれまことであれ、この疫病は悪人が大衆に仕掛けた恐ろしい陰謀だという考えは、「病原体を探せ」という考え方と大差ありません。それは十字軍の考え方であり、戦争のメンタリティーです。それは社会政治的な病の根源をある種の病原体、つまり私たちとは別の加害者にあると捉え、それに対して戦いを挑むというものです。それだと社会が陰謀の温床となる条件を無視する危険があります。その温床にわざと種をまいたのか、それとも偶然に種が飛んできたのかは、私にとって二の次の問題です。

新型コロナウイルス(SARS-CoV2)が遺伝子操作された生物兵器であろうとなかろうと、5G(第5世代移動通信システム)の導入と関係あろうとなかろうと、「情報公開」を避けるために利用されているのであろうとなかろうと、全体主義世界政府の実現に向けたトロイの木馬であろうとなかろうと、言われているより致死性が高かろうと、言われているより致死性が低かろうと、武漢の生物研究所で発生したのであろうとなかろうと、フォート・デトリック米軍基地で発生したのであろうとなかろうと、あるいはCDC(アメリカ疾病管理予防センター)とWHO(世界保健機関)がこれまで私たちに言ってきたとおりであろうとなかろうと、次に私が言うことは重要性を持ちます。今回の疫病にSARS-CoV-2ウイルスが果たす役割について全員の言っていることが完全に間違っていても、それは当てはまります。私は自分なりに意見を持っていますが、この非常事態の展開を通して私が学んだことが一つあるとすれば、何が起きているのか私には本当のことは分からないということです。ニュース、フェイクニュース、噂話、抑圧された情報、陰謀説、プロパガンダ、政治化された物語がない交ぜになってインターネットを埋め尽くす中で、本当のことが分かる人がいるとは思えません。知らないということをもっとたくさんの人々が受け入れたら良いと私は思います。そのことを、主流の物語を受け入れる人にも、反主流の物語を追う人にも言いたいのです。自分の立場の完全性を守るために、私たちはどんな情報を遮断しているのでしょうか。自分の信念において謙虚になりましょう。生死に関わる重大問題なのですから。

第2部につづく)

原文リンク:https://charleseisenstein.org/essays/the-coronation/

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