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「コロネーション」(2) チャールズ・アイゼンスタイン

訳者より:この文章はチャールズ・アイゼンスタインの2020年のエッセイ「コロネーション」の日本語訳、第2部です(第1部はこちら)。


死に対する戦争

私の7歳の息子はこの2週間ほかの子と会ったり遊んだりしていません。この他の何百万人の子供たちが同じ境遇にあります。ほとんどの人は、子供たちがみんな社会的交流なしで1ヶ月を過ごすことが、百万人の命を救うためなら妥当な犠牲だということに同意するでしょう、でもそれが十万人の命だったらどうでしょうか。またもしその犠牲が1ヶ月ではなく1年だったら、5年だったらどうでしょうか。それについては、人によって意見は異なるでしょうし、もとにする価値観によるのです。

先の問いをもっと個人的なものに置き換えてみましょう。そうすれば、人々を統計の数字に変え、何人かを犠牲にして別の誰かを救うような、人間味のない功利主義の考えに穴を開けられます。私にとって意味のある問いとは、私の母が死ぬ危険を減らせるのなら、さらに言えば、私自身の危険を減らせるのなら、国じゅうの子供たちに春の間ずっと遊ぶことをあきらめてもらうと私は言うだろうか、というものです。あるいはこう問うてもいいでしょう。私自身の命を救えるのなら、人がハグと握手をする時代の終わりを、私は命じるだろうか。これは母の命や私の命の価値を貶めようとしているのではなく、どちらも尊いのです。母が生きて私たちと共にいてくれていることに、日々感謝しています。でもこれらの問いは深い問題を提起します。正しく生きるとはどういうことでしょうか。正しく死ぬとはどういうことでしょうか。

このような問いに対する答は、自分自身のために問うのであれ社会全体のために問うのであれ、死をどのように考え、遊びや触れあい、一体感にどれほど価値を置くか、市民的自由、個人の自由にどれほど価値を置くかにかかっています。このような価値のバランスを取る簡単な方法はありません。

これまで私が生きてきた中で、社会の重視するものが安全、安心、リスク低減へとますます移っていくのを見てきました。特に影響を受けたのが子供たちの生活です。私が子供だった頃は付き添い無しで家から1〜2キロ歩き回るのは普通でしたが、今そんなことをしたら児童保護サービス[児童相談所に相当するアメリカの政府機関]が親の調査に入るでしょう。この流れは、ますます多くの職種でゴム手袋が使われ、至る所に手指消毒用アルコールが置かれ、学校の建物は施錠され守衛が置かれ監視カメラが設置され、空港や国境の警備は強化され、法的責任と賠償責任保険への意識が高まり、多くのスポーツ競技場や公共の建物に入る前に金属探知機と保安検査が義務づけられるなどの形でも現れます。はっきり言って、それは警察国家の様相を帯びてきます。

「安全第一」という標語は生き長らえることを最優先とする価値体系から来ていて、それは楽しみや冒険、遊び、限界に挑むことのような他の価値を軽視します。別の文化では異なる優先順位を持っていました。たとえば、多くの伝統的な土着文化は子供に対する保護の度合いがずっと低く、これはジャン・リードロフの古典的な著書、『The Continuum Concept(連続体の概念)』に述べられています。人々は子供たちに、現代人の多くには正気と思えないようなリスクと責任をとることを許し、子供たちが自立と判断能力を発達させるためには必要なのだと信じます。現代人の多く、特に若い人々は、充実した人生を送るためには安全を犠牲にするという、この持って生まれた意欲を、いくらかは維持していると私は思います。しかし、私たちを取り巻く文化は恐怖の中で生きるようにしつこく働きかけ、恐怖を具現化するシステムを作り上げました。その中では、安全でいることが何にもまして重要なのです。こうして私たちが手に入れた医療システムでは、ほとんどの判断はリスクの計算に基づいて行われ、医師の最終的失敗の証である最悪の結果は、死です。しかしそれでも、死が私たちみんなを待ち受けていることは分かっています。命を救うことは、死を先延ばしにすることです。

支配という文明の計画が最終的に達成されるのは、死そのものに勝利した時でしょう。それができないので、現代社会はその勝利の模造品で我慢します。死の克服ではなく否認です。私たちの社会がやっているのは死の否認です。死体の隠蔽から、若さへの極端なこだわり、老いた人々を介護施設に収容することまで。「私のもの」という言葉が示すように、自己の延長であるお金と財産への執着でさえ、一時的な存在である自分自身をその付属物によって永遠のものにできるという妄想を表します。この全てを当然のものにしているのは、現代が差し出す自己の物語です。他者の世界にいる個別ばらばらの自己。周りにいるのは遺伝子的、社会的、経済的な競争相手で、自己を守って他者より優位に立たなければ成功できません。死を防ぐためなら、できることは全てやる必要があります。分断の物語では、死とは完全な消滅に他なりません。生物科学が私たちに説いたのは、私たちの本質は生存と繁殖の可能性の最大化にあるということでした。

ペルーでケロ(Q'ero)の人々と過ごした医師である友人に、私が尋ねたのは、ケロは(もしできるとしたら)誰かの命を長らえさせるためなら食道や気管にチューブを挿入するだろうかということでした。「もちろんそんなことはしません」と彼女はいいました。「ケロはシャーマンを呼んでその人が健康に死ぬのを助けてもらうでしょう。」健康に死ぬことは(必ずしも無痛で死ぬことと同じではありませんが)現代の医学用語では上手く言い表せません。病院のカルテに患者が健康に死ぬかについての項目はありません。死は良い結果とは見なされないでしょう。分断された自己という世界で、死とは究極的な消滅なのです。

でも本当にそうなのでしょうか。リサ・ランキン医師が投げかけるこの見方を考えてみてください。「私たちは全員が集中治療室に入りたいと思っているわけではありません。そこでは愛する人たちから引き離され呼吸器に繋がれます。そうすれば生き長らえる可能性が高まるかもしれませんが、孤独のうちに死ぬかもしれません。それよりも、自分の家で愛する人の腕に抱かれたいと思う人もいるでしょう。それが最期の時だとしても…。覚えておいてください、死は終わりではありません。死は故郷に帰ることです。」

自己は相互に関係し、相互に依存し、存在そのものも相互性を帯びてさえいると理解するなら、自己は他者の中へとにじみ出し、他者は自己の中へと滲み入ります。自己は関係性のマトリックスの中での意識の座であると理解するなら、問題を理解する鍵として敵を探すことはもうありませんが、代わって関係性のアンバランスに目を向けます。死に対する戦争は、健康に生き、充実した人生を送ることの探究に道を譲り、死の恐怖がじつは生きることへの恐怖なのに私たちは気付きます。私たちは安全のために人生のどれほどを手放す必要があるのでしょう。

全体主義、つまり完全なる統制は、個別ばらばらの自己という神話の必然的な帰結なのです。戦争のような命の脅威以外に、完全なる統制にとって利となるものがあるでしょうか。こうしてオーウェルは終わりのない戦争こそ党の支配にとって最重要の要素だと見抜きました。

支配の計画と、死の否認、分断された自己を背景に、公共政策は死亡者数を最小化すべく努めるべきだという思い込みは、そこに疑問を差しはさむ余地などほとんど無く、遊びや自由といった他の価値よりも上位の目標です。新型コロナウイルスはその見方を広げる機会を与えてくれます。そうです、命を神聖なものとしましょう、今まで以上に。死はそのことを私たちに教えてくれます。一人一人を、若くても老いていても、病んでいても健康でも、神聖でかけがえが無くて愛すべき人として、そのまま心に抱きましょう。そして私たちの心の環の中に、他の価値も入ることのできる場所を作りましょう。命を神聖なものとするのは単に長生きすることではありません。健康で、正しく、充実した人生を送ることです。

あらゆる恐怖と同じように、コロナウイルスをめぐる恐怖はその向こうに何があるのかを匂わせます。親しい人を亡くした経験のある人なら分かるでしょうが、死は愛への入口なのです。新型コロナウイルスは、死を否認する社会の意識の中で、死を一段と高い場所へ持ち上げたのです。この恐怖の裏側で、死が解き放つ愛を私たちは見ることができます。その愛が溢れ出すのに任せましょう。その愛が文化の土壌に染みとおり地下水となって満ちるのに任せましょう。私たちの制度、システム、習慣の殻に入ったひび割れに吸い上げられるように。そのいくつかもまた、死ぬのかもしれません。


私たちはどんな世界に生きるべきなのか

人生のどれだけの部分を、私たちは犠牲として安全安心の祭壇に捧げたいと思うでしょうか。安全が保たれるとしたら、人間がけっして集うことのない世界に住みたいと思うでしょうか。公衆の面前では常にマスクを着用したいと思うでしょうか。毎年何人かの命を救うことになるなら、旅行をするたびに健康診断を受けたいと思うでしょうか。自分の身体に対する最後の主権を(政治の権威が指定した)医学の権威に譲り渡し、生活全般を医療の領分とすることを、私たちは進んで受け入れるでしょうか。あらゆるイベントをバーチャルで行いたいと思うでしょうか。恐怖の中で生きることを、私たちはどこまで望むでしょうか。

新型コロナウイルスはいずれ終息するでしょうが、感染症の脅威はなくなりません。私たちの対応が将来の道筋を決めるのです。公の生活、集団生活、身体をシェアする生活は、これまで何世代にもわたって衰退してきました。店で買い物をするかわりに、宅配で届けてもらいます。子供どうしが屋外で一緒に遊ぶかわりに、アポを取り冒険はデジタルでします。公共の広場のかわりに、オンラインのフォーラムがあります。他の人たちや外の世界から、自分自身をさらに隔離し続けたいと思うでしょうか。

想像に難くないのは、特にもしソーシャルディスタンスが功を奏したなら、新型コロナウイルスは18ヶ月を過ぎても言われているように自然に終息することはないだろうということです。想像に難くないのは、その間にも新たなウイルスが現れるだろうということです。想像に難くないのは、(新たな感染症の発生を未然に防ぐため)緊急対策が普通になることです。9.11の後で出された非常事態宣言が今でも続いているのと同じようなものです。想像に難くないのは、(繰り返し言われているように)再感染の可能性はあり、この感染症が自然終息することはないということです。これが意味するのは、私たちの生活に起きた一時的な変化が永続的なものになるかもしれないということです。

新たなパンデミックが起きる危険を減らすために、私たちは未来永劫ハグや握手、ハイタッチがない社会に生きることを選ぶべきなのでしょうか。私たちは大人数で集まることがもうない社会に生きることを選ぶべきなのでしょうか。コンサートやスポーツ競技、お祭りは過去のものとなるべきなのでしょうか。子供たちはもう他の子たちと遊ぶべきではないのでしょうか。あらゆる人との接触はコンピュータとマスク越しに行われるべきなのでしょうか。ダンス教室はダメ、空手教室はダメ、会議はダメ、教会はダメなのでしょうか。死亡者数の減少が進歩を測る基準となるのでしょうか。人間の進歩は分断を意味するのでしょうか。これが未来なのでしょうか。

同じ疑問が、人々の動きと情報の流れを統制するのに必要な管理ツールについても言えます。執筆時点ではアメリカ全土でロックダウンへの動きが続いています。家から外出するには政府のウェブサイトから許可証を印刷しなければならない国もあります。私が思い出すのは学校のことで、生徒の居場所は常に学校が把握し、許可を受けていなければなりません。あるいは刑務所のことです。私たちが展望する未来は、電子的なホール・パス[授業中にトイレに行くときなどに先生が発行する許可証]の世界、つまり移動の自由は国家政府とソフトウエアによって常時、未来永劫にわたって統制されるシステムでしょうか。あらゆる動きが監視され、許可か禁止のどちらかに色分けされる世界でしょうか。そして、私たちの安全を守るため、(またしても各種の政府機関が判断した)健康を脅かす情報を私たちのために検閲する世界でしょうか。非常事態を前にして、戦時のように、私たちはこのような制限を受け入れ一時的に自由を返上するのでしょうか。9.11と同じように、新型コロナウイルスは全ての異論をねじ伏せます。

歴史上初めて、このようなビジョンを実現する技術的手段が、少なくとも先進国では存在するようになりました(たとえば、携帯電話の位置情報を使ってソーシャルディスタンスを強制するようなことです。ここ[グーグルは位置情報サービスがオフになっていてもアンドロイドユーザーの位置データを収集している]も参照)。トラブル続きの移行期を過ぎれば、私たちは人生でほぼ全ての出来事がオンラインで起きるような社会に生きることができるのかもしれません。買い物から、人と会うこと、エンタメ、交際、仕事、デートまで。それは私たちが求めるものでしょうか。いったい何人の命が救われれば、その代償に見合うと言えるのでしょうか。

現在実施中の規制の多くは、数ヶ月のうちには部分的に緩和されるだろうと思います。部分的には緩和されますが、いつでも再開できます。感染症が私たちと共にあるかぎり、規制は将来にわたり何度も復活されるでしょうし、習慣という形で自主規制されるでしょう。コロナウイルスが世界を永久に変えてしまう様子についてデボラ・タネンがポリティコ誌の記事に書いたように、「物に触れること、他の人々と一緒にいること、閉鎖空間で呼吸することは危険を伴うということを、いま私たちは知っています。握手や顔に触れることを忌避するのは私たちの習性となるかもしれず、私たちは誰一人として手洗いをやめられないので、みんなで社会全体の強迫神経症を受け継ぐ羽目になるかもしれません。」触れあいと一体感の中で何千年、何百万年を経た後で、危険が大きすぎるという理由でこのような活動を一切やめることが、はたして人類進歩の頂点なのでしょうか。

第3部につづく)

原文リンク:https://charleseisenstein.org/essays/the-coronation/

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