「コロネーション」(3) チャールズ・アイゼンスタイン
訳者より:この文章はチャールズ・アイゼンスタインがコロナ禍への社会の対応を批判した2020年のエッセイ「コロネーション」の日本語訳、第3部です。第1部、第2部より続き、今回で完結します。
生命はコミュニティーだ
支配の計画のパラドックスは、それが進歩したところで目標に少しでも近付くことはまずないということです。ほぼ全ての上流中産階級の家にはセキュリティー・システムが備えられているにもかかわらず、人々の心配や不安が1世代前より減ったということはありません。入念なセキュリティー対策にもかかわらず、学校での銃乱射事件は減りません。医療技術の目覚ましい進歩にもかかわらず、過去30年で人々の健康水準は逆に悪化し、同時に慢性疾患が蔓延し、平均余命は停滞し、米国とイギリスでは逆に縮み始めました。
同じように、新型コロナウイルス抑制のために実施されている対策も、防いだよりも多くの苦痛と死を引き起こす羽目になるかもしれません。死亡者数の最小化とは、予測と対策の方法が分かっている死を最小化することです。たとえば孤立が誘発する鬱や、失業で陥る絶望や、慢性的な恐怖が引き起こす免疫の低下と健康の悪化などから発生するかもしれない、追加の死者を数えることは不可能です。孤独と社会的接触の不足は、炎症、鬱、認知症を悪化させることが分かっています。リサ・ランキン医師によれば、大気汚染は死のリスクを6%増加させ、肥満は23%、アルコール乱用は37%、孤独は45%増加させます。
もうひとつ帳簿から抜け落ちているのは、過剰な衛生管理とソーシャルディスタンスが引き起こす免疫の低下です。健康を保つには社会的接触だけでなく微生物界との接触も必要なのです。一般的に、微生物は私たちの敵ではなく、私たちの健康の味方です。細菌、ウイルス、酵母などの生命体からなる多様な腸内細菌叢は、免疫システムが働くために欠かせないもので、その多様性は他の人々や生物界との接触によって維持されます。過剰な手洗い、抗生物質の過度の使用、無菌状態の清潔さ、人との接触の欠如は、有害無益かもしれません。その結果起きるアレルギーや自己免疫疾患は、防ごうとした感染症よりたちが悪いかもしれません。社会的にも生物学的にも、健康はコミュニティーによってもたらされるのです。生命が孤立して繁栄することはできません。
世界を我らと奴らの対決という文脈で見ると、生命と健康がコミュニティーの中で生まれるという現実が見えなくなります。感染症を例に取れば、私たちが滅多にできないのは、悪性の病原体という捉え方を超えて、微生物界でウイルスが果たす役割は何だろうかと問うことです。(ここ[健康と発病機序の遺伝子解析における哺乳類の生体内ウイルス集団]も参照。)有害なウイルスが増殖する身体の条件とは何でしょうか。軽症の人がいる一方で重症化する人がいるのはなぜでしょうか(「抵抗力が低い」という説明にならない万能の説明は除きます)。インフルエンザや風邪など死に至らない病気が健康維持に果たすかもしれない積極的な役割とは何でしょうか。
細菌に対する戦争という考え方は、対テロ戦争や犯罪に対する戦争、雑草に対する戦争、私たちが政治や対人関係で戦う際限ない戦争と、同じような結果をもたらします。第一に、それは終わりのない戦争を作り出します。第二に、それは病気、テロ、犯罪、雑草、その他が生まれる素地の条件から関心をそらしてしまいます。
平和のために戦争をするのだと政治家がいつも主張するのとは裏腹に、戦争がさらなる戦争を生むことは避けられません。テロリストを殺すために他国を爆撃すれば、テロの素地となる条件を無視するだけでなく、その条件を悪化させます。犯罪者を収監すれば、犯罪を生む素地の条件を無視するだけでなく、家族やコミュニティーを引き裂き、囚人をさらなる犯罪者に変容させることで、そのような条件を作り出します。そして抗生物質、ワクチン、抗ウイルス剤などの医薬品を使った治療法が破壊する身体の生態系こそ、強い免疫の基礎となるものです。身体の外では、ジカ熱、デング熱、そしてこんどは新型コロナウイルスがきっかけとなって行われる大規模な薬剤散布が、自然の生態系に計り知れない害を与えるでしょう。生態系に抗ウイルス物質を浴びせたらどんな影響があるか考えた人はいるのでしょうか。このような施策(中国とインドの各地で実施されましたが)を思い付くのは分断思考だけで、ウイルスが生命の網の目に不可欠なものだということを理解しません。
素地の条件という論点を理解するために、イタリアでの数百人の新型コロナウイルス死亡者の分析に基づく死亡率の統計(イタリア国立衛生研究所)を見てみましょう。分析対象者のうち、重篤な慢性疾患が全く無かったのは1%未満でした。高血圧があったのは約75%、糖尿病が35%、心虚血が33%、心房細動が24%、腎機能低下が18%にみられ、その他の疾患はイタリア語の報告書から読み解くことができませんでした。亡くなった人の半数近くには、このような重篤な病理の3つ以上がありました。アメリカ人は、肥満や糖尿病などの慢性疾患に苦しんでいるので、少なくともイタリア人と同程度の感染リスクがあります。これはウイルスのせいでしょうか(もともと健康な人はほとんど死亡しませんでした)、それとも素地となる健康障害のせいでしょうか。ここでもまた、ピンと張ったロープのたとえが当てはまります。近代世界の人々が何百万人も、不安定な健康状態にあり、普通なら些細なことがきっかけとなり、限界を超えて発症する危険を抱えています。短期的にはその人たちの命を救いたいのはもちろんですが、限りない「短期」の連続の中で我を忘れてしまうことのほうが危険なのであって、次から次へと現れる感染症と戦い、感染リスクを非常に高くする素地の条件に取り組むことはありません。これがずっと困難な問題なのは、こういった素地の条件が戦いによって変わることはないからです。糖尿病や肥満、依存症、鬱、PTSDを引き起こす病原体はありません。原因は「他者」ではなく、自分自身とは別のウイルスでもなく、患者である私たち自身です。
病原体ウイルスを特定できる新型コロナのような病気でさえ、ウイルスと患者の戦争というような単純なものではありません。細菌がより大きなプロセスの一部であるとする特異病原体説(germ theory)がありますが、これに代わる考えがあります。条件がそろえば、細菌は体内で増殖し、宿主を殺すこともありますが、そもそも細菌を招き入れることになった条件を改善する可能性もあります。たとえば蓄積した毒素を粘液と一緒に排出したり、(たとえて言うと)高熱によって焼き殺したりします。「感染の素地説(terrain theory)」とも呼ばれますが、細菌は病気の原因というよりはむしろ症状だといいます。あるミームがこれをうまく言い表しています。「金魚が病気だ。特異病原体説=金魚を隔離せよ。感染の素地説=水槽を掃除せよ。」
現代の健康文化はある種の分裂症に苦しんでいます。一方では、代替医療やホリスティック医療を受け入れるウェルネス運動が急成長しています。免疫を活性化させるため、薬草や瞑想、ヨガを推奨します。病気になったり治癒したりするのに態度や信条のもつ力が関係するように、健康には感情的でスピリチュアルな側面があると認めます。この全てはコロナウイルスの津波に押し流されて消えてしまい、社会は古い正統主義に戻ってしまったようです。
典型的な例があります。カリフォルニア州の針灸師は「不要不急」と見なされたので強制的に休業させられました。これは従来のウイルス学の観点からは至極当然なことです。でもある針灸師はフェイスブックにこう意見しました。「ある患者さんには腰痛を鎮めるオピオイド麻酔薬の使用をやめるお手伝いをしていますが、こういう場合はどうすればいいのでしょう。オピオイドの使用を再開するしかなくなってしまいます。」医学の権威という世界観から見ると、本物のウイルスが引き起こす本物の病気の前では、代替手段、社会的交流、ヨガ教室、サプリメントなどは根拠に欠けるものです。危機を前に、それらは「ウェルネス」というスピリチュアルな分野へと格下げされます。新型コロナの下で正統主義は非常に強力に復権したので、ビタミンC静脈注射のようにほんのわずかでも慣例から外れるものは、米国では2日前まで完全に考慮の対象から外されていました(ビタミンCが新型コロナウイルスとの戦いで役に立つという「神話」を「暴く」ような記事はまだ多くあります)。CDC(アメリカ疾病管理予防センター)がエルダーベリーエキスや医療用キノコ、糖質制限、N-アセチル-L-システイン、ゲンゲ、ビタミンDのメリットを布教するのも聞いたことがありません。これらは「ウェルネス」についての単なる感傷的な憶測などではなく、広範囲の研究と生理学的な説明に裏打ちされています。たとえば、N-アセチル-L-システイン(その一般情報、プラセボ対照二重盲検試験)はインフルエンザ様の疾病で発症率と重症度を大幅に低減することが示されています。
先に示した自己免疫や肥満などの統計からも分かるように、アメリカと現代世界全体は健康危機に直面しています。その答は私たちがこれまでやって来たことを、もっと徹底的に続けることなのでしょうか。これまでのコロナウイルスへの対応は、正統主義をさらにさらに強化し、慣例から外れた行為を一掃し反対意見を押しのけました。これとは別の対応は、私たちが世界を見るレンズを広げ、システム全体を観察することでしょう。そこに含まれるのは、誰が資金を出すか、誰が利用できるか、どのように研究に出資するかなどですが、薬草医学、機能医学、エネルギー医学のような周辺領域も含むように視野を広げることが必要です。おそらく私たちはこの機会に、病気と健康、身体について広く浸透している説を再評価しても良いでしょう。そうです、病気になった金魚を今できる限りのことをして守るのは当然ですが、もしかすると次回は、水槽を掃除できたなら、これほど多くの金魚を隔離し薬品を投与しなくて良いかもしれません。
今すぐ薬局へ走ってN-アセチル-L-システインなどのサプリメント買うとか、私たちは社会として突然に対応を変え、ソーシャルディスタンスを即刻中止して、代わりにサプリメントを摂り始めるべきだと言うつもりはありません。でも私たちは「普通」が中断したこのひとときを、別れ道の前で立ち止まるこの瞬間を利用して、どの道に沿って前進すべきかを意識的に選ぶことができます。どんな医療制度を、どんな健康観を、どんな社会を作るのか。この再評価はもう起きていて、米国で全国民共通の無料医療保険のような考えが新たな勢いを増しています。そして、その道もまた別れ道に至ります。どのような医療を全国民共通にするのか。単に全員が利用できるのか、義務化するのか。国民全員が目に見えないインクのようなものでバーコードの入れ墨を打たれ、これが現在までに義務づけられたワクチンと健康診断を終えているかの証明となります。これがあれば、学校に行き、飛行機に搭乗し、レストランに入店することができます。これが私たちに選ぶことのできる未来への一つの道です。
今ここには別の選択肢もあります。支配を強化するのではなく、私たちはホリスティックな健康観と手法をついに受け入れることもできます。それは今まで隅の方で待っていたのです。中央が溶けて無くなるのを待っていたのです。そうすれば私たちは謙虚な姿勢でそれらを中央へと招き入れ、その周りに新たなシステムを作ることができます。
コロネーション(戴冠式)
私たちが決別しようとしているこれまでの文明は、完全なる統制という楽園を追い求めて進んできました。それは水平線上に見える蜃気楼のように、進歩よりも速く遠ざかっていきます。そう、私たちはもっと強い孤立、支配、分断に向かう道をこれまでどおり進むこともできます。強められた分断と統制を普通のものとし、安全を保つのに必要だと信じ、お互いに近付くことを恐れる世界を受け入れることもできます。そうではなく、私たちはこの一時休止を利用することもできます。「普通」が中断したこの時を、再合一、ホーリズム、失われた絆の再生、コミュニティーの修復、生命の網の目の繋ぎ直しの道へと、切り替えるために利用するのです。
私たちは個別ばらばらの自己を防衛する努力をさらに強化するのでしょうか、それとも私たちみんなが共にある世界への誘いを受け入れるのでしょうか。この問いに行き当たるのは医療だけではありません。政治、経済、そして私生活でも同じ問いに見舞われます。買いだめの問題を例に取ってみましょう。これは次のような考えの具体化です。「全員に十分行きわたるほどの物がないのだから、自分のために十分な量を確保しよう。」でもこのような別の対応ができるかもしれません。「十分に取れない人がいるから、私の持っている分をその人と分け合おう。」私たちは生存至上主義者になるのでしょうか、それとも助ける人になるのでしょうか。生命は何のためにあるのでしょうか。
より大きな規模では、人々は今まで活動家の界隈に潜んでいたような問いを発しています。ホームレスの人々をどうすべきだろうか? 刑務所に入っている人々をどうすべきだろうか? 第三世界のスラムに住む人々は? 失業者をどうすべきだろうか? ホテルのメイド、ウーバーのドライバー、配管工や清掃員やバスの運転手やレジ係など、家からリモートでは働けない全ての人々のことを、どうすべきだろうか? そうして今、とうとう学生ローンの債務救済やユニバーサル・ベーシックインカム(最低所得保証)のような考えが花開こうとしています。「コロナウイルスに弱い人々をどうすれば守れるだろうか?」という問いが私たちを招き入れるのは、「弱い立場に置かれている人々全てを、どうすれば気づかい世話することができるだろうか?」という問いです。
それが私たちの中にざわめく衝動で、たとえコロナウイルスの深刻度や起源、最善の対策について浅はかな意見しか持っていなくても、湧き上がってくるのです。それが語りかけるのは、お互いを気づかい世話することを真面目に考えようということです。私たちみんながどれほどかけがえのない存在で、生命がどれほどかけがえのないものなのかを思い出そうということです。私たちの文明を総点検し、部品にまで分解し、もっと美しい文明を作れないか見てみようということです。
コロナウイルスが私たちの共感をかき立てるとき、私たちのますます多くが気付くのは、痛々しいほど思いやりを欠いた「普通」には、もう戻りたくないということです。いま私たちはもっと思いやりのある新たな「普通」を築くチャンスを手にしたのです。
これが起きているという期待を持てる兆しはたくさんあります。米国政府は、長らく冷酷な企業利権の虜になってきましたが、家計に対する数千億ドルの直接支払いを決めました。ドナルド・トランプを共感のお手本と思う人はいないでしょうが、不動産の差し押さえと強制退去を一時的に停止しました。この2つの出来事について皮肉な見方ができるのは確かですが、弱者を気づかい世話する原則の具体化に違いありません。
世界中から連帯と癒しの物語が聞こえてきます。ある友人が一人100ドルのお金を必要に迫られている10人に送った話をしてくれました。私の息子は数日前までダンキンドーナツで働いていましたが、お客さんが通常の5倍のチップを払うようになったと言っていました。その人たちは労働者階級の人々で、ほとんどはラテン・アメリカ系のトラック運転手であり、彼ら自身が経済的不安を抱えています。医師や看護師、他の職業の「エッセンシャル・ワーカー」たちが、命の危険を冒して一般の人々を救っています。愛と優しさがあふれ出した例は他にもまだまだあって、サービススペースから引用して紹介します。
おそらく私たちは新たな物語に生きようとする動きの真ん中にいます。想像してください、イタリア空軍がパヴァロッティの音楽を使い、スペイン軍が奉仕活動をし、交通警察がギターを弾く。それは人々を「鼓舞する」ため。思いがけない昇給を与える企業。「優しさおこし」を始めるカナダ人。「妖精からもらったお金」の乳歯を人にあげたオーストラリアの愛らしい6歳の女の子、612枚のマスクを作った日本の中学2年生、いたるところで高齢者のために買い物をする大学生たち。「白衣の軍隊」(医師)をイタリアに派遣したキューバ。アパートの住人が家賃を払わなくても住み続けることを許した大家、アイルランドの司祭の書いた詩がネットで拡散する、手の除菌用アルコールを作る障害者の活動家。想像してください。危機が最も深い衝動の映し鏡となるときもあるのです。それは、私たちはいつだって思いやりで応えることができるという衝動です。
レベッカ・ソルニットが『災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』という驚くべき本に書くように、災害はしばしば連帯感の発露を解き放ちます。もっと美しい世界が水面のすぐ下で揺らめき、それを水面下に押し留めているシステムの力が弱まれば、すぐに浮き上がります。
長い間、私たちは集団として、ますます病んでいく社会を前に、何もできずに見ているだけでした。悪化する健康であれ、劣化するインフラ、鬱、自殺、依存、生態系破壊、富の集中であれ、先進世界で文明の停滞が引き起こす症状は一目瞭然ですが、それを引き起こすシステムとパターンに私たちは縛られています。いま、コロナウイルスがそれをリセットしてくれました。
百万の別れ道が私たちの前から広がっていきます。ユニバーサル・ベーシックインカムによってコロナウイルスで必要性が思ったより低いと分かった仕事から何百万の人々が解放され、経済的不安定から抜け出して創造力を花開かせるかもしれません。そうではなく、小規模企業が壊滅し、厳しい条件付きの給付金を受給するため国家に依存することになるかもしれません。この危機が導くのは、全体主義か連帯なのか、医療の戒厳令かホリスティックの復興なのか、微生物界への高まる恐怖か、それとも微生物界に加わることで得られる高い回復力でしょうか、ソーシャルディスタンスという永久の義務か、それとも一緒に集うことへの新たな願いでしょうか。
この別れ道の園を歩くとき、個人として社会として、何が私たちの道しるべになるのでしょうか。分岐点に立つごとに、私たちは何に従うかを意識することができます。恐れか愛か、自己保身か寛大さか。私たちは恐れの中に生き、恐れに基づいて社会を作るべきでしょうか。個別ばらばらの自己を守るために生きるべきでしょうか。この危機を政敵に打ち勝つ武器として使うべきでしょうか。これらはオール・オア・ナッシングの問いではありません。100%恐怖か、100%愛かではありません。それは、愛へと踏み出す次の一歩は私たちの前にあるということです。それは果敢な行動のような感じがしますが、無謀というわけではありません。命を大切にする一方で、死を受け入れます。そして、一歩進むごとに、その次の一歩が見えてくるのだと信じます。
恐れではなく愛を選ぶことを意思の力だけで実現でき、その恐れもウイルスのように克服できるとは、考えないでください。ここで私たちに降りかかっているウイルスは恐れです。新型コロナウイルスへの恐れであれ、全体主義的な対応への恐れであれ、このウイルスにもそれが増殖する素地があります。恐れは、依存と鬱や多くの身体的な病と同様に、分断とトラウマという素地の上で増殖します。親から受け継いだトラウマ、子供時代のトラウマ、暴力、戦争、虐待、ネグレクト、恥、罰、貧困、そして金銭化された経済に生き、現代の学校に通い、コミュニティーや場所との絆を持たずに生きる、ほとんど全ての人を、押し殺され普通になったトラウマが襲います。この素地を変えるには、個人のレベルでトラウマを癒し、より思いやりのある社会に向けて社会全体が変わり、基本をなす分断の物語を書き替えることです。分断の物語では、個別ばらばらの自己が他者ばかりの世界にいて、私はあなたとは別人で、人類は自然とは別のものです。孤独は根本的な恐怖ですが、現代社会は私たちをますます孤独に追いやってきました。でも再合一の時が来たのです。あらゆる共感、優しさ、勇気、寛大さの行為が私たちを分断の物語から救うのは、それを行う側も受ける側も、この世界で私たちが共にいることを実感するからです。
結びにもう一つ、人間とウイルスの関係という側面を提起しておきましょう。ウイルスは、人間だけでなく全ての真核生物の進化に不可欠です。ウイルスはDNAを生命体から生命体へ移すことができ、生殖細胞系列に挿入される(つまり遺伝性になる)こともあります。これは遺伝子の水平伝達と呼ばれ、進化の根本的な機構です。これにより生命の共生進化が可能となり、突然変異による進化よりずっと急速な進化が可能になります。リン・マーギュリスが言ったように、私たちはウイルスの子なのです。
さあ、いよいよ推測の域に踏み込みましょう。おそらく文明の大いなる病が私たちの生物学的・文化的な進化を促し、重要な遺伝情報を授け個人的・集団的な通過儀礼を課したのです。今回のパンデミックが単にそれだけのものだなんて有り得るでしょうか。新型のRNAコードが人間から人間へと拡散し、私たちに新たな遺伝情報を植え付けます。同時に、私たちは生物学的コードの背に乗って来る別の神秘的な「コード」を受け取ります。これが、病が身体の生理を乱すのと同じように、私たちの物語とシステムを打ち破ります。この現象は通過儀礼の筋書きどおりに進みます。「普通」からの分離、それに続くジレンマ、破綻あるいは試練、(もし完遂するなら)それに続くのは再統合と祝福です。
ここで問いが立ち現れます。何に向けての通過儀礼なのでしょう。この通過儀礼に特有の性質と目的は何でしょう。このパンデミックの広く呼ばれている名前が手がかりを与えてくれます。「コロナウイルス」です。コロナとは冠のことです。「新型コロナウイルス・パンデミック」とはつまり、「みんなの新たな戴冠式」なのです。
生まれ変わった私たちが持つことになる力を、私たちはもう感じられます。真の王たる主権者は生や死に恐れをなして逃げることはありません。真の王たる主権者は支配も征服も(それは影の原形、つまり暴君)しません。真の王たる主権者は人々に仕え、生命に仕え、全ての人々の主権を尊重します。この戴冠式が祝うのは、無意識が意識へと出現すること、カオスが秩序へと結晶化すること、他者からの強制を脱却して自らの選択に立脚することです。これまで私たちを支配していたものを、私たちが支配するのです。陰謀論者が恐れる新世界秩序(ニューワールドオーダー)は、主権者に与えられた光り輝く可能性の影です。私たちはもう恐れの奴隷ではありません。私たちは王国に秩序をもたらし、分断の世界に入ったひび割れを通してすでに光を放っている愛の上に、意図にもとづく社会を築くことができるのです。
