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ファシズムと反祭


チャールズ・アイゼンスタイン著
2021 年 6 ⽉(ルネ・ジラール論考の第2部。第1部はこちら。)


現在、⻄欧諸国、特に米国は、ジラールのいう古典的な供犠の危機の真っ只中にあるように⾒えます。かつては信頼できた社会制度が崩壊します。大衆は、政治、⾦融、法律、医療などの権威に対する信頼を失います。新しい世代は前の世代よりも貧しく病んでいます。社会が機能している、あるいは我々が正しい道を歩んでいると信じているような⼈は、どの政治的⽴場の⼈でもほとんどいません。理性、市場、技術は、そのユートピアという約束を果たせませんでした。神々は私たちを失望させ、その影から怪物が現れているのが⾒えます。⽣態系の崩壊、核によるハルマゲドン、そして毒で満ちた私たちの体、⼼、世界。違いや対⽴のくすぶりは、かつては一般市⺠の合意の下に収まっていましたが、それぞれの側がより過激になるにつれ、新たな強度を帯びるようになります。国家が邪悪なものを抑える能⼒に対する信頼が薄れるにつれ、隠れていた儀式的な本能がよみがえります。

哲学者のルネ・ジラールが主張したのは、このような儀式的な本能の源は社会的混乱にあり、そこでは原初的な社会の病である復讐合戦の暴⾛が転化して、スケープゴートの生贄に対して満場一致の暴⼒が起きることです。儀式、宗教、祭、政治制度は、同じような出来事を繰り返さないように進化しました。

ジラールがそのような儀式のパターンのひとつとするのが「反祭」で、そこで「供犠の追放という儀式に先だって起きるのは、無秩序な熱狂ではなく、あらゆる禁⽌事項の遵守がいっそう厳格に求められる極端な禁欲だ」としています。これが現代では、全体主義の中で拡⼤した制度という形をとります。ソ連の共産主義もナチスのファシズムも強い純⾎主義的傾向を持っていましたが、それは⾃分たちの秩序の外にあるものを敵視していたからです。ファシズムは本質的に反祭を拡大したもので、反祭と同様に、現実であれ想像上であれ、迫り来る社会崩壊に呼応して発⽣します。多くの社会では、祭司カーストがあらゆる機会を利⽤して、これらの厳格な禁忌、タブー、儀式を課しますが、これらは結局のところ⾃分たちの⼒を⾼めるものです。最も良い機会となるのは、⼈々の罪深い⾏いに起因すると考えられる危機です。たとえば、地震や洪⽔、あるいは... 疫病です。

いま私たちは、「ロックダウン」と呼ばれる⼀連の反祭から部分的には脱却しつつあるようです。これらの祭に伴っているのは、全体主義的な傾向と疑似ファシズム的な敵意で、その矛先は、本物の祭や、何であれ大衆の楽しみに似たもの全てに向けられます。さらに、私たちの公衆衛⽣対策の多くは、明らかに儀式的な⾊合いを帯びていて、ファシズムと多くの古⾵な反祭に共通するのは、「けがれ」への執着です。20 世紀初頭の⼈類学者、ジェームズ・フレイザーが書いた「イダンゲ族の崩壊:宗教的ヒステリーの一例」と題された次の⼀節を考えてみましょう。

ジェンキンスによる年代記は、イダンゲの「部族」(実際には多数の部族からなる⾼度に組織化された社会)が、すでに社会的、政治的、⽣態学的な衰退の兆しを⾒せていた時期に始まる。祭司たちは何年も前から、悪霊が今にも⼈々を襲うだろうと警告していた。ジェンキンスが民俗学調査で滞在して 3 年⽬、ついに部族の何⼈かが体調を崩し始めた。悪霊が現れたのだ。祭司たちの説明によると、その霊が取り憑く可能性のある者は、様々な新しいタブーを守り必要な儀式を⾏うことを怠った者だという。霊が取り憑くと、その⼈は穢れた存在となり、その人に関わると乗り移られる危険がある。祭司が持つ特別な儀式⽤の道具がなければ、誰も霊を⾒ることはできないが、祭司はその絵を描いて⺠衆に⾒せた。

ある⼈がその霊に取り憑かれているかどうかを判断するための儀式が考案された。特別に聖別された杖に、憑依が疑われる⼈の体液を含ませ、特別な⼩屋に送り、祭司がその杖をさらに占いの儀式にかけ、悪霊が姿を現すように仕向ける。その後、祭司の代理⼈が不幸な部族員に憑依の事実を知らせる。憑依された者は14夜の間、部族の他の者から厳重に隔離されねばならない。

不運な迷信深い原住⺠が採⽤したタブーや儀式の中には、⾮常に奇妙なものもあった。例えば、祭司たちは公共の場で1 ヒロ離れた場所に印をつけさせ、その印よりもお互いに近づかないようにすれば、魔法の加護を受けることができるとした。また、穢れた者に近づく可能性のある者は、頻繁に沐浴など⾝体の浄化を⾏い、霊を追い払うために様々な形の儀式⽤の頭飾りをつけることが求められた。公共の場での集まりはすべて禁⽌され、日常⽣活さえも厳しく制限された。祭司の許可がない限り、いかなる活動も許されなかった。

想像に難くないことだが、このような体制は、社会的なストレスや困窮、そしてある程度の反発を招いた。すぐに祭司たちは、さまざまな異端を排除することに追われた。異端者の中には、悪霊の伝搬を⽌める儀式は効果がないとか、悪霊はそれほど危険ではないと主張する者もいた。また、悪霊の存在を疑う異端者もいて、病気になるのは他の原因があるからだと主張した。悪霊を⺠衆に放ったのは祭司たち自身だと公言する者もいた。祭司たちは異端者を黙らせ、異端者への⺠衆の敵意を煽り立てようとしたため、社会的緊張が⾼まった。

部族のほとんどの⼈は祭司を信頼していたが、儀式の順守には⼀貫性がなかったので、疑問を抱いている⼈も多かったようだ。タブーと儀式を厳格に守らせると大衆の反発が避けられないことが分かったので、祭司たちは新しい聖餐式を開発していることを発表した。代理の祭司が⽪膚を刺すという少々苦痛を伴う儀式を⾏うことで、この秘薬は受け取ったすべての⼈を聖なるものとした。この聖別された兄弟たちは、通常の⽣活に戻ることができたが、新しい儀式やタブーには従わなければならなかった。秘薬を拒否した者は不浄のままであり、あらゆる種類の罰、辱め、追放の対象となった。

しかし、この秘薬は当初の約束よりも効き⽬が弱かった。祭司によると、他の幽霊や精霊が待ち伏せており、それらに対して新たな儀式やタブーを適⽤し、新たな秘薬を投与しなければならないという。この危機の中で祭司たちが手にする⼒は未来永劫にわたり維持されねばならない。そして祭司たちが暗にほのめかしたのは、この悪の疫病は、部族の罪深い⾏い、特に異端者の罪に対する罰のようなものだということだった。異端は潰さなければならない。穢れたものは聖別しなければならない。すぐに宗教的な迫害が大地を覆い、続いて祭司⾃⾝に対する逆迫害が起きた。そしてイダンゲの社会は崩壊した。

さて、⽩状すると、この⽂章は私の創作です[訳註1]。祭司は科学者、杖は PCR 検査⽤の綿棒、穢れた者は検査陽性者、秘薬はワクチンです。私が⾔いたいのは、新型コロナが単なる宗教的ヒステリーに過ぎないということではありません。私が⾔いたいのは、新型コロナが他の何であれ、それは同時に宗教的ヒステリーでもあって、この物の見方が、私たちの現在の状況と、おそらくこれから起きるだろう出来事を、はっきり照らし出すということです。新型コロナに対する私たちの社会的反応は、儀式的な慣習や考え⽅(マスク、秘薬、タブーとされる⼈物、神聖化など)と驚くほど類似しているので、私たちは公衆衛⽣政策のどこまでが本当に科学的で、どれだけが偽装された宗教なのかを問う必要があります。それはもっと深い問いにつながるかもしれません。科学は(他の)宗教と違うのか、またどのように違うのかという問いです。(「馬鹿げている。客観性は?科学的⽅法は?査読済みか?」と異議申し立てを始める前に、どうかこの説明をお読みください。この考えは些細な理由で退けることができないものです。)

何でもかんでも「ただの儀式」と呼ぶのは、私にはためらわれます。それは儀式と現実の間の神秘的な関係を無視するからです。しかし、私たちが⾏っている公衆衛⽣活動の多くは効力が疑わしいことから、それらが本当に「ただの儀式」だという判断を招いてしまいます。ここで私は、マスク、ロックダウン、ソーシャルディスタンスなどが疑わしいということを主張するつもりはありません。最終的には、私たちの知識⽣産システム(科学とジャーナリズム)が健全であるかどうか、そして医療と政治の権威が信頼できるかどうかという議論になります。公衆衛⽣の正統性を疑うことは、「いいえ、それらは健全ではなく、信頼できない」と答えることです。しかし、このような主張をしようとする⼈は、必然的に公式機関以外から証拠を⼊⼿しなければなりません。つまり、真の信者にとっては定義上正当性を欠く証拠です。

祭司に認められた情報を使って、祭司の間違いを証明することはできそうにありません。それを試みれば、異端者として晒し者になります。

異端者を表す現代⽤語に「陰謀論者」があります。この⾔葉はカギ括弧で囲まれています。なぜなら、私たちの組織が健全でないと主張することと、それが意識的な陰謀の結果だと主張することとは全く別のことだからです。「陰謀論者」は、公衆衛⽣の正統性に対する反論者を退け、⼈間性を奪う⼿段の⼀つとなっています。

新型コロナの正統論から逸脱した者が⼈間以下のカテゴリーへと分類される素早さは憂慮すべきものです。それはまさに、彼らがジラールのいうスケープゴートとしての役割を果たすために必要なことなのです。⼈間は困ったとき、異端者やのけ者を⾒つけ出したり、作り出したりするものです。今⽇、彼らは「マスク拒否者アンチマスカー」、「ワクチン拒否者アンチバクサー」、「科学否定者」、「Qアノンに近い者Qアジェイセント」、「陰謀論者」、「コロナ愚者コビディオット[訳註2]」、「国内過激分子ドメスティック・エクストリーミスト」と呼ばれ、標的にした者を辱め、⾮難し、しばしばデジタル的に抹殺する⼀種のバーチャル迫害の対象となっています。時としてその結果はデジタルに留まりません。

⺠族浄化を掲げる現代のファシストや、党員を粛清する現代の共産主義者のように、古代社会はしばしば穢れに対する強迫観念に取りつかれていたとジラールは指摘します。穢れの源は暴⼒であり、いったん扇動されるとすぐに制御不能になってしまう様は、まるで感染症のようです。ジラールの⾔葉を借りれば、「供犠のカタルシスが暴⼒の無制限な伝播を防ぐことに実際に成功しているとすれば、ある種の感染症が抑え込まれていることになる....。本来の対象を奪われた場合、暴⼒が身代わりの者に投げ付けられる傾向を、汚染のプロセスとして説明することは確かに可能だろう。」このように、供犠の⽣贄はしばしば通常の社会から隔離され、供犠の暴⼒は儀式の構造の中に厳密に封じ込められていました。

全体主義社会、伝統的な反祝祭、そして新型コロナのロックダウンに共通するのは、支配という反射です。この反射に従えば、支配の失敗には、より多くの支配で対応します。除草剤に耐性のある雑草が現れれば、新しい除草剤で解決します。移⺠が国境を越えれば、壁を建設します。銃乱射犯が施錠された学校に侵入したら、さらに校舎を要塞化します。細菌が抗⽣物質に耐性を持つようになれば、より強力な新しい抗⽣物質を開発します。マスクをしても新型コロナの蔓延を防げなければ、二重にマスクを着⽤します。タブーが邪悪なものを防げなければ、タブーを倍にしなければなりません。⽀配する⼼が予見する楽園では、すべての⾏動とすべての物が監視され、ラベルが貼られ、管理されます。悪いものが存在する余地はありません。あらゆる物、あらゆる人が、あるべき場所から逸脱することはありません。すべての⾏動には許可が必要とされます。そうすれば誰もが安全になります。

ビル・ゲイツとエリート技術官僚たちの支配計画に悪意があるとする⼈たちには、技術計画の背後にある理想主義が⾒えていません。エリートたちにとって、批判者たちは理解できない存在です。騙されていて無知な、進歩そのものの敵、⼈類の向上の敵のように⾒えるのです。

残念ながら、彼らにとっても私たちにとっても、完全に支配された楽園は蜃気楼のようなもので、急いで近づけば近づくほど速く遠ざかっていきます。秩序を厳しく課すほど、その亀裂からカオスが押し出されてきます。ジラール曰く、「あまりに長く抑制された暴⼒はその限界を超えて溢れ出し、災いはたまたま近くにいた⼈に降りかかる。」欲望、怒り、恐れ、エロスなど、「野⽣」の他の側⾯についても同様です。極端な秩序はその逆を⽣み出します。

供犠の生贄の⼒学と、他の支配計画とを結ぶ、微妙な類似があります。この二つが最終的に依存しているのは間違った単純化で、それは⼀時的に成功したように⾒せかけて、より深い問題を持続させてしまいます。移⺠の原因は移⺠だけではなく、学校での銃乱射事件の原因は乱射犯だけではなく、病気の原因は病原体だけではなく、気候変動の原因は温室効果ガスだけではありません。これらは、⻑いプロセスの末端にいる代理人に過ぎず、複合的な原因の中で最も⽬⽴つものであり、スケープゴートのように、権⼒⾏使の格好の標的です。権⼒が⾏使されれば、私たちは何かが為されたことで安心するのです。



[訳註1] 原文での部族の名前は「Nredom」で、これは「modern」(現代)の倒語。日本語訳の「イダンゲ」は、もちろん「ゲンダイ」の倒語である。

[訳註2] コビディオット:コロナウイルス感染症の予防策や警告を無視し、食料品や日用品を買い占め、人々の不安をあおる愚かな人(idiot)。


(原文リンク)https://charleseisenstein.org/essays/girard-series-part-2-fascism-and-the-antifestival/

【日本語訳】書籍『コロネーション』目次
次> 群集心理とワクチン未接種者
<前 祭の命 (「祭の死」から改題 )


クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸


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