群衆倫理とワクチン未接種者
チャールズ・アイゼンシュタイン著
2021年8⽉2⽇(ルネ・ジラール論考の第3部。ここまでは、第1部、第2部。)
「プロパガンダに必要なのは、憎悪の対象を特定することによって、敵意の移し替えを促進することだ。」ジョセフ・ゲッベルス
私たちのような現代社会は、⼈⾝御供のような野蛮な習慣から脱却したと思いたいものです。確かに、私たちは今でもスケープゴート作りを行いますし、世論という祭壇で⽐喩的に⼈を生贄にしています。しかし、神々をなだめ、秩序を回復することを願って、実際に⼈を殺すことはありません。いや、殺しているでしょうか?
そう信じる学者もいます。そのような学者は哲学者の故ルネ・ジラールの思想を受け継ぎ、⼈間の生贄は死刑(あるいは収監、つまり社会からの排除)という形で今⽇も私たちと共に存在していると主張します。ジラールは、⼈間の生贄は彼が「供犠の危機」と呼ぶものに呼応して⽣じたと考えていました。原初の供犠の危機は、初期の社会にとって最⼤の脅威であり、暴⼒と報復の循環がエスカレートすることでした。その解決策は、お互いの復讐⼼を、暴⼒的な満場一致という形で、スケープゴートやその集団に仕向けることでした。いったん確⽴されると、このパターンは神話や儀式の中に記憶され、事が起きる前に⼈⾝御供として適⽤され、社会を脅かす他の危機に対応して実⾏されました。
この見方では、死刑の起源は⼈間の生贄であり、それは文字通り⼈間を犠牲に差し出すことです。死刑が果たす同じ機能は、満場一致の暴⼒によって相互の暴⼒を未然に防ぐことです。その仕組みは、復讐を独占することによって、報復的な暴⼒のサイクルを最初の1回で切り捨てることです。これが機能するために、死刑執⾏や投獄の対象が実際に罪を犯していているかどうかは関係ありあせん。正義とは、もっと原始的な何かの隠れ蓑なのです。神学者のブライアン・K・スミスはこう書いています。
現代の死刑の対象は、多義的な意味合いを帯びているかもしれない。このような⼈物が果たしているかもしれないのは、他の様々なこと(すなわち、⼈種的、経済的な換喩の可能性)の中でも、とりわけ全ての犯罪や、「無秩序」と社会的「カオス」や、「価値観の崩壊」などの代表者としての役割だ。死刑は、その功利主義的な犯罪抑⽌効果とは別に、違法・不法な暴⼒という社会問題に対する、かなり思い切った対応策の⼀つである。
言い換えれば、私たちが正義や抑⽌⼒という⾔葉で合理化しているものは、実際には⾎の儀式で、その中で⼈は罪の有無にかかわらず象徴となるのです。死刑執⾏の周辺には儀式が堰を切ったように溢れ出します。最後の⾷事、特別な死刑執⾏室への「死者の歩行」、証人、医療の手続き、常駐する医師、書類への署名、最後の典礼、頭を覆う頭巾、正確な予定時刻表、最後の⾔葉、そして細部への厳密な注意など、すべてが死刑執⾏を別個のもの、特別なもの、そして神聖なものとしています。
何かが為されなければならない
法学者のロベルタ・ハーディングが明快な主張を込めた論文で、ジム・クロウ法時代の米国南部の事例をいくつか紹介しています。そこでは、白人女性をレイプした罪で告訴された黒人の男は無実だということを、裁判官、陪審員、検察官はみな知っていました。しかし、異⼈種間の合意による性交によって⽩⼈⾄上主義の社会秩序が脅かされたため、ともかく被告⼈を処刑しました。もし速やかに処刑できなければ、容疑者はリンチされました。この理由は、ある意味では前例を作って⿊⼈を恐れさせるためでしたが、別の意味では「何かが為されなければならない」からでもありました。
同様に、アフガニスタンの村⼈やイラクの政治家が 9.11テロに何の責任もなかったことは大して重要ではなく、また彼らを爆撃しても将来のテロ防止に実質的な効果がないことも(テロをさらに刺激することを除いては)重要ではありませんでした。明らかにアメリカは、より⼤きな地理・政治的⽬的を達成するために9.11を⼝実に使っていました。しかし、それが⼝実として機能したのは、「何かが為されなければならない」と国⺠が広く合意していたからです。そして、昔ながらのパターンを実行に移しながら、私たちには何をすべきかわかっていました。それは、団結をもたらす暴⼒の標的を⾒つけること、それも実質的に報復能力を持たない標的です。2001年のクエーカー会議で、クエーカー教徒の⼀⼈が「当然ながら、何らかの力強い対応が必要だ」と⾔ったとき、私は驚きました。「力強い」とはどういう意味かと私は思いました。それは誰かを爆撃するということです。つまり、暴⼒を振るうべき相⼿を⾒つけなければならないのです。また、彼はテロの原因である帝国主義への対処にも⾔及したかもしれませんが、それは「当然ながら」ここでのテーマではありませんでした。生贄を探す必要を、ほとんどの⼈は本能的に当然のことと考えていました。私たちは誰かを爆撃すると確信していました。唯一の問題は、誰を爆撃するかでした。
9.11テロは、ハーディングがいう引き金となる事件の典型です。それは「コミュニティ内の不和、競争、嫉妬、反目を再燃させ」、供犠の危機を招きます。最近では、ジョージ・フロイドの殺害事件がありました。この事件で露呈した潜在的な対⽴は、⻑い間わだかまってきたので、ちょっとした挑発でも危機が活発化してしまいます。フロイドの殺害に対する反応は、暴力的な満場一致がもつ沈静力を典型的に示しています。殺害事件が引き起こした⼈種差別的な市⺠の暴動は、デレク・ショービンが有罪判決を受けたことで⼀時的に鎮静化されたのです。何かが為されたのですが、それは不安を鎮めただけであり、警察官の殺人という複雑で広範な問題を解決することはありませんでした。これがアメリカの⼈種問題の根源を解決することにはほとんどならなかったのは、オサマ・ビン・ラディンを殺すことでアメリカのテロに対する安全性がほとんど高まりはしなかったのと同じです。
⼈⾝御供にする生贄は誰でもいいわけではありません。ハーディングが⾔うように、生贄は「社会の中にいるが、その構成員ではない」という存在でなければなりません。だからこそ、⿊死病のときは、「井⼾に毒を⼊れた」という理由でユダヤ⼈を殺害する暴徒が跋扈したのです。バーゼルのユダヤ⼈は全員⽣きたまま焼かれ、その光景は⻄欧各地で繰り返されました。しかし、ユダヤ⼈に対する激しい憎悪が噴出するする⼝実を待っていたというのは主な理由ではなく、社会の緊張を解放するために生贄が必要とされ、解放の道具である憎悪が、たまたまユダヤ⼈に集中したのです。ユダヤ⼈は、中にいるが構成員ではないという立場ゆえに生贄として好適でした。
「憎しみと戦う」のは、症状と戦うことです。
スケープゴートは実際に罪を犯した者である必要はありませんが、疎外された者、追放された者、異端者、タブーを破った者など、ある種の異端者でなければなりません。もし彼らがあまりにも異質だと、集団内の攻撃の移⼊対象としては適しません。社会の完全な⼀員であってもなりません。もしそうだと復讐の連鎖が起きてしまいます。もし彼らがまだ社会の辺縁にいないなら、そこへ追いやらねばなりません。デレク・ショービンに⼈種差別主義者で⽩⼈⾄上主義者という役を与えることは儀式として重要でした。そうあることで、彼を社会から排除することが、⼈種差別そのものを排除することの象徴という役目を果たせるのです。
ここではっきりさせておきたいのですが、私はジョージ・フロイド殺害に対するデレク・ショービンの有罪判決が不当だといっているのではありません。正義だけが⾏われたわけではないということです。
穢れの代表者
犯罪者以外に、世界を覆うスミスの「無秩序」「社会的カオス」「価値観の崩壊」を今の社会で代表するのは誰でしょうか? 私の⼈⽣の⼤半では、外敵と国家の物語が社会を統合する役割を果たしていました。共産主義とソ連、イスラムのテロリズム、⽉旅行計画、進歩の神話。現在、ソ連はずいぶん昔に死滅し、テロは恐怖でなくなり、⽉は退屈で、進歩の神話は衰退の⼀途をたどっています。市⺠の争いは、それを統合的な暴⼒に変えるために必要な幅広いコンセンサスを得られないまま、ますます過熱しています。右派にとって、社会の混乱と価値観の崩壊を象徴するのは、反ファシスト、「黒人の命は大切だ」のデモ参加者、批判的⼈種理論の学者、不法移⺠です。左派にとっては、プラウドボーイズ、右翼⺠兵、⽩⼈⾄上主義者、Qアノン、国会議事堂を占拠した暴徒、そして急成⻑している新しいカテゴリーの「国内過激派」です。そして最後に、左右に分類されない新たなスケープゴートとして期待されているのが、現代の異端児である「反ワクチン主義者」です。識別しやすい集団なので、彼らはスケープゴートとして理想的な候補です。
これらの⼈々が社会にとって真の脅威となるかどうかはほとんど問題ではありません。刑事司法の対象者と同じように、彼らの罪とは無関係に行われるのが⾎の犠牲によって秩序を回復する企てです。(他の手段として、収監によるコミュニティからの追放、あるいはもっと穏やかですが、おそらく前兆的な形での「キャンセリング」があります。[訳註1])唯一必要なのは、非人間化された階級が盲⽬的な憤りと怒りを呼び起こすことで、これが団結をもたらす暴⼒の発作を引き起こすのに必要なのです。より現代に関連が深いのは、この原始的な群衆のエネルギーを、ファシズム的な政治⽬的のために利⽤できることです。右であれ左であれ全体主義者は、粛清や⺠族浄化、⼈種純化、そして私たちの中にいる裏切り者について語ることで、このエネルギーを直接呼び起こします。
⽣贄は穢れや伝染を連想させるので、それを取り除けば社会が浄化されます。代替医療の分野では、ツイッターやフェイスブックの投稿でその名を書いただけで投稿が削除されてしまうほど、汚らわしいと考えられている⼈たちがいるのを、私は知っています。彼らの記事や対談にリンクを貼れば、削除されるのは確実です。このような露⾻な検閲を国⺠がいとも簡単に受け⼊れてしまうのは、「ニセ情報の規制」という⼝実を信じているからというだけでは説明できません。⼤衆は無意識のうちに、下層階級に穢れという象徴を付与するという昔ながらの企てを認識し、それに従っているのです。
この企ては、新型コロナワクチン未接種者に対しても進⾏していて、彼らは聖なる兄弟(予防接種を受けた⼈)を汚染する可能性のある細菌の巣窟として描写されます。私の妻は今日、鍼灸のフェイスブック・ページを⾒ていました。このようなページでは主流医学に懐疑的だろうと想像するところですが、誰かが「ワクチンを打たれていない⼈を表現する⾔葉は何か?」という質問をしました。その回答は、「汚物」、「ケツの穴」、「ウジ虫」などでした。これはまさに、浄化に必要な準備として行われる、ある種の⼈々の⾮⼈間化です。
この描写を裏づける科学的根拠は疑わしいものです。ワクチン未接種者を社会の危険に結び付ける連想とは逆に、ワクチンを受けた⼈の⽅が淘汰圧によって変異株を⽣み出す可能性が⾼いと主張する専⾨家もいます。抗⽣物質が細菌の突然変異率や適応進化を⾼め耐性菌の登場につながったのと同じように、ワクチンがウイルスの突然変異を促す可能性があるのです。(こうして限りなく生み出される新たな変異株に対し、限りない「ブースター接種」が必要になります。)この現象は何⼗年も前から研究されており、私の好きな数学と科学のウェブサイト「Quanta」に掲載されている記事にも書かれています。変異株はワクチンに誘導された抗体をすり抜けますが、すでに新型コロナを発症した⼈はすべての変異株に対する強い免疫を持っていると、⼀部の科学者は主張しています。(この記事とこの記事を参照。さらに詳しい分析はこちら。ファウチ博⼠の⾒解と⽐較してください。)
しかし、ここでの私の⽬的は、科学的根拠を⽰すことではありません。私が⾔いたいのは、未接種者の悪魔化に反対する科学者や医療関係者が戦う相手は、対立する科学的⾒解だけでなく、古代から続く強い心理・社会的な⼒でもあるということです。科学的な議論は大いにけっこうですが、彼らが立ち向かっているのはもっと⼤きなものです。ルワンダの科学者たちは、フツ族支配の教訓からどうすれば良かったかを議論すべきだったのではないでしょうか。もしかするとナチスの例の⽅が適切かもしれません。ナチスは絶滅作戦に科学を持ち込んだからです。当時も今も、科学はもっと根本的なものの隠れ蓑でした。供犠の暴⼒の嵐は、優⽣学に異議を唱えた少数派のドイツ⼈科学者を簡単に押しのけましたが、それは反対派が間違っていたからではありません。
今⽇、私たちは同じような状況に直⾯しています。もし、新型コロナワクチンに関する主流の⾒解が間違っていたら、それは科学だけでは覆せません。ワクチン推進派には⾮科学的な強い味⽅がいます。それは、社会的・経済的な圧⼒をかけたり、仲間はずれにしたり、恥をかかせたりといった様々なメカニズムで表現される、集団的なイドの中にあります。群衆に逆らうには勇気がいります。反ワクチンの意⾒を表明する医師や科学者は、資⾦や仕事、免許を失うリスクがあります。⼀般市⺠がソーシャルメディアでの検閲に直⾯するのも全く同じです。特に、ブラックリストに掲載されたウェブサイトや、反ワクチン「ニセ情報12集団」の記事をリンクすることで、異端者の汚れを塗り込んだなら、このような批判的でないエッセイでも検閲を受ける可能性は⾼いでしょう。ちょっとふざけてやってみましょう。 Greenmedinfo! Chldren's Health Defense! Mercola.com!ああ。公衆の⾯前で汚い⾔葉を叫んでいるような気分です。これらのリンクはクリックしないほうがいいです。異端者の穢れに染まらないように(そしてあなたの閲覧履歴のせいで不信⼼者の烙印を押されないように)。
あらゆる邪悪なるものの巣窟として誰かを排除する下準備のためには、想像できる限りの誹謗中傷を浴びせるのが有効です。その結果、主流の出版物で目にするのは、反ワクチン主義者は⼈を殺しているだけでなく、猛烈なナルシストであり、⽩⼈⾄上主義者であり、卑劣であり、ロシアのニセ情報を広めている者であり、国内テロリストに等しいという記事です。このような⾮難を増幅するには、いくつかの例を都合良く選び、ヒステリックに⾒える反ワクチン主義者の写真を選び、彼らの最も疑わしい主張を紹介することです。国内の他の「脅威」に対抗するためのマニュアルを、もし当局が使ったら、工作員、おとり捜査、運動の信⽤を落とすために暴⼒的な⽴場を表明する特務機関員などが有り得るでしょう。このような手法は、公民権、環境、反グローバリズム運動に潜入するために開発されたものです。
私を⼼配した友⼈たちは、ニセ情報12集団メンバーの知り合いとは「距離を置く」よう助⾔してくれましたが、あたかも何かが伝染するというような言い方でした。まあ、ある意味ではそうなのですが、悪評の伝染です。反体制派と付き合うだけで一緒に収容所送りになったソ連時代を思い出します。また私の学⽣時代には、変な⼦と仲良くするのは社会的な⾃殺⾏為で、その⼦の変なところが⾃分に移るとされていたのも思い出します。⼩学校では、この伝染は「ばい菌」と呼ばれていました。(10代前半は私が変な⼦だったので、誰かが⾒ている所で私と仲良くするのはかなり勇気のある子だけでした。)明らかに、この基本的な社会の動きはさまざまなレベルで社会に浸透しています。深く染み付いた直感が認識するのは、のけ者集団に入れられることの危険です。のけ者を擁護したり、のけ者を攻撃する熱意が足りなかったりすれば、⼈は疑われます。その結果、⾃⼰検閲と自粛が⽣まれ、満場一致という幻想をさらに助⻑することになります。
倫理規範の乗っ取り
同じような強化の循環が暴徒を⽣み出します。必要なのは、少数の声⾼な⼈々が誰かや何かを標的と宣⾔し、暴徒を扇動することだけです。群衆の⼀部は熱狂的に⽀持します。残りの⼈たちは黙っていて、⼼の中では悩んでいても表向きの⾏動では同調します。これを拡大すれば、全体主義国家は国⺠の⼤多数の⽀持を必要としません。⽀持されているように⾒えるだけで⼗分なのです。
満場⼀致の錯覚を起こすメカニズムが働くのは⼀般大衆の間に限ったことではなく、科学や医学、ジャーナリズムの世界でも同様です。正統派に熱⼼に従う者もいれば、同じ考えの仲間に⼩声で不満を漏らす者もいます。反対意⾒を公⾔することは危険な放射線を放っているも同然です。背信⾏為がもたらす結果(資⾦提供の拒否、メディアでの嘲笑、同僚が「距離を保とう」と引いていくなど)は、他の潜在的な反体制派を黙らせるのに役⽴ち、意⾒を⾃分の内だけに留めておくよう慎重になります。
ワクチンの安全性、有効性、必要性について、私が個⼈的にどう考えているかを、ここでまだ述べていないことに注意してほしいと思います。(もうちょっと待って。)それでも、ここまで私が述べたことからすれば、誰でも安全でいたい人は、私とは距離を置こうとするでしょう。私⾃⾝が反ワクチン主義者ではないとしても、私に反ワクチン主義者の「ばい菌」が付いていることは確かです。
私が共宰しているオンラインフォーラムで、ある出来事を紹介してくれた人がいます。彼の⼦供たちは、友達の家で遊ぶ予定にしていました。親が彼に電話をかけてきて、家族は予防接種を受けたのかと尋ねました。丁寧に「いいえ」と答えると、彼の⼦供たちはすぐに招待を取り消されました。
「お腹に☆印の子たちがボール遊びに行ったとき、
お腹に無印の子は遊びに入れてもらえるかい? それは無理。
☆がなければ遊べない
無印の子には☆がないから。」 ドクター・スース [訳註2]
この親御さんは科学的に考えて招待を取りやめたのに違いありませんが、科学が本当の理由だったかどうか私には疑わしいのです。新型コロナの正統派に最も忠実な⼈でも、親子とも無症状なら⼦供が感染させるリスクはごくわずかなことを理解しています。さらに、ワクチン信者はおそらく自分がワクチンで守られると信じているので、合理的に考えれば、ワクチン未接種者を恐れる理由はほとんどありません。リスクは無視できるほど⼩さいですが、道徳的な憤りは極めて大きいのです。
大部分とは言わないまでも多くの人々が利他的な市⺠精神でワクチン接種を受ける理由は、個⼈として新型コロナに感染することを恐れているからではなく、集団免疫に貢献して他の⼈を守っていると信じているからです。それを推し進めれば、ワクチンを拒否する⼈は市⺠の義務を放棄していることになり、「汚物」や「バカ野郎」という表現になります。彼らは社会崩壊のシンボルとなり、同じ腫瘍の中に都合よく並んだ癌細胞のように、国民全体から外科手術でもするように取り除く準備が整います。
社会の安定は、⼈々が利他主義に報い、反社会的な⾏動を抑⽌することにかかっています。これらの報酬や抑⽌⼒は道徳となり、社会規範やタブーへと規範化されています。儀式を⾏い、部族のタブーを避け、そうでない者に恥をかかせ罰することで、⼈は⾃分が善⼈だと知り、安⼼していられます。さらに、⾃分が道徳的な多数派の⼀員であり、社会の完全な⼀員であり、生贄にされる少数派ではないと分かるという利点もあります。同調しないことに対する私たちの恐れは、本能となるまで深く刻み込まれた古代の経験から⽣まれたものです。それを道徳と区別するのは困難です。
ワクチン未接種者を村八分にするときに働く恐怖は、ほとんど病気に対する恐怖ではありませんが、病気が恐怖の代理となることはあります。⼈類古来の主たる恐怖は、社会的伝染に対するものです。それは、のけ者と関わることへの恐怖で、道徳的な憤りとして規範化されています。
どのような社会でも、集団の規範や価値観、儀式、タブーなどを特に熱⼼に執⾏する⼈がいます。彼らは⽀配的なタイプかもしれませんし、単に共通の利益を⼤切にしているのかもしれません。規範や儀式が社会や⽣態系の健全性に沿ったものであるなら、それは重要な役割を果たします。しかし、腐敗した勢⼒がプロパガンダと情報統制によって規範を乗っ取ってしまうと、これらの善良な⼈々は全体主義⽀配の道具となってしまいます。
スケープゴート作りをしている⼈たちは、「ワクチン未接種者が他の⼈を危険にさらす」という物語を、正直に、というより熱⼼に信じているかもしれません。ここでもまた、それとは逆の証拠に説得⼒があると私は思いますが、これまでに⽰したヒント以上の論証はしないでおきます。諺にもあるように、そもそも自分で理屈を付けてその立場を取っているわけでもないのに、それを理屈で説得して止めさせることはできません。さらに、私が引⽤する資料のほとんどはブラックリストに載っているもので、公式の情報源を信頼する⼈にとっては、その異端性ゆえに受け⼊れられないものです。公式の情報源を信⽤するなら、異端の情報を排除していることをも信⽤することになります。公式の情報源が異論を排除すると、それを信頼する⼈にとって、異論はすべて初めから無効となります。
その結果、反対意⾒の多くは、事実を確認したり情報源を精査したりする能力のない、怪しげな右翼のウェブサイトに流れてしまいます。例えば、医学博⼠であり、何百もの査読付き論⽂の著者であり、⽶国⼼臓・腎臓学会の会⻑であるピーター・マッカロー博⼠のように有能な科学者なら、右派メディア界隈の外でも⽿⽬を集めることができるだろうと思うかもしれません。しかし、そうではありません。マッカロー博⼠は右翼カトリックのジョン=ヘンリー・ウェステンの番組のような場所に追いやられています。この説得⼒のある対談へのリンクがどこか他にあればいいと思うのですが、マッカロー博⼠の意⾒には特に右翼的なところがないからです。
非常に残念なのは、マッカロー博⼠のような⼈を取り上げているサイトには、反移⺠や反LGBTQの記事がよく掲載されていて、これらの記事は反ワクチン主義者に向けられたのと同じ戦術を⽤い、⾮⼈間化とスケープゴート作りの雛形を利⽤し、同じファシズムの⽬的に利⽤していることです。
⼤衆を動かす
このような理由から、私は⾃分の信念を⽴証しようとはしません。ネット検閲官への善意のジェスチャーとしてはっきりと⾔っておいた⽅が、この記事をどうするか決めるのが容易になるでしょう。私の信念とは、新型コロナワクチンは、⾔われているよりもずっと危険で、効果が低く、必要性が低いということです。また、少なくとも短期的には、⼀部の⼈たちが恐れているほど危険でもないようです。街中で⼈が死んだり、ゾンビになったりしているわけではありませんし、私の友⼈でワクチンを接種した⼈のほとんどは元気にしているようです。だから本当のことを知るのは困難です。この問題に関する科学は、⾦銭的な動機や組織的な偏⾒によって⾮常に不透明になっているので、それを頼りに道を照らし出すことはできません。研究と公衆衛⽣のシステムは、新型コロナの症状と死亡率を⼤幅に減少させることが実証されているジェネリック医薬品や栄養療法を抑圧し、ワクチンしか選択肢がないようにしています。また、⻑期的に深刻な害をもたらす数多くのもっともらしいメカニズムも⼗分に調査できていません。もちろん、「もっともらしい」といっても確実なわけではありません。現時点では、⻑期的にどのような影響があるかは誰にもわかっていませんし、実際に知ることは不可能です。しかし、私が⾔いたいのは、反ワクチン主義者が正しくて不当に迫害されているということではありません。彼らの迫害で実⾏されるパターンは、彼らが正しいか間違っているか、無実か有罪かということとはほとんど無関係です。科学への信頼の欠如はこの点を強調するもので、科学が覆い隠している致命的な社会的衝動を詳しく見るように⽰唆しています。
公式の情報源から異論が「全て」排除されているというのは、少し⾔い過ぎです。じっさい、査読付きの出版物や、有能な医師や科学者は、私が述べたことの多くに同意しています。確かに、彼らは少数派に属します。でももし彼らが正しかったとしても、私たちはそれを簡単に知ることができません。誤った情報を抑制するメカニズムは、公式の情報源と⽭盾する「真の」情報の抑制にも同じように作用します。
前述の分析は、新型コロナで起きた同調の他の説明を否定するものではありません。研究、メディア、政府に対する⼤⼿製薬会社の影響⼒。健康を細菌との戦いに勝つこととみなす医学的パラダイムの⽀配。恐怖、安全に対するこだわり、死への恐怖と否定という社会一般の⾵潮。そしておそらく最も重要なことは、個⼈が⾃らの健康を管理する能力を⻑い間くじかれてきたことです。
しかしまた前述の分析は、新型コロナとワクチン接種計画が、地球上のすべての⼈間を監視し、追跡し、注射し、コントロールするための全体主義的な陰謀であるという説とも⽭盾しません。ある種の全体主義的な計画が進⾏中であることに疑いの余地はありませんが、これまでの私の考えでは、それは隠された「分断」の神話とイデオロギーを実現するために共時性が集まってできた自然発生的な現象であり、⼈間の陰謀家による計画的な陰謀ではないと長らく考えてきました。しかし今、私はこの両方とも正しいと確信するようになりました。後者は前者に付随するものであり、その化身、症状、表現なのです。⼈類の現在の苦難を最も深く説明するものではありませんが、陰謀や権⼒の秘密の策略は実際に機能していて、私は現在の歴史的瞬間について、いくつかの物事がそのような⾔葉で最もよく説明されることを受け⼊れるようになりました。
この全体主義の策謀が、計画的であろうと⽇和⾒的であろうと、意図的であろうと自然発生的であろうと、疑問は残ります。どうやって⼩さなエリート集団が⼈類の⼤部分を動かすのでしょうか? それは、ジラールのいうような深い精神社会的パターンを悪化させ利⽤することです。ファシストは常にそうしてきました。私たちは通常、大量虐殺を⼈種差別的なイデオロギーの結果だと考えますが、その典型的な例が反ユダヤ主義のファシズムです。しかし、ジラール的な観点からすると、それはむしろ逆です。イデオロギーは⼆次的なものです。それは差し迫った暴⼒的な一致団結のための創造物であり道具です。それが必要な条件を作り出すのです。同じことが奴隷制度についても⾔えるかもしれません。ヨーロッパ⼈はアフリカ⼈が劣っていると考え、それゆえに彼らを奴隷にしたのではありません。彼らを奴隷にするためには、彼らを劣った存在と考えることが必要だったのです。
個⼈のレベルでも、無意識のうちに影の動機で⾏動し、他⼈を傷つける⾏為を巧みに正当化したり、やってしまった後で合理化したりしたことのない⼈は、いるでしょうか。
ファシズムは、その政治哲学として団結、ナショナリズム、企業と国家権⼒の統合を⽬的としているのに、なぜ⼀般的には⼤量虐殺と結び付けられるのでしょうか。それは、すべての抵抗を⼀掃するだけの強⼒な統⼀⼒を必要とするからです。ファシズムの「我々」は「彼ら」を必要とします。市⺠意識の⾼い道徳的な多数派は、それがより⼤きな利益のためだと確信し、喜んで参加します。何かが為されなければならないのです。疑いを抱く⼈たちも、⾃らの安全のため追随します。新たに作り出された嘆かわしい集団、つまり反ワクチン主義者やワクチン未接種者に対してヒステリーを煽り立てることを、現在の権威主義的な組織が、まるで本能であるかのように知っているのも不思議ではありません。
ファシズムは、より深い本能を活用し、悪用し、制度化しています。⼈間性を剥奪した集団を作り、それを殺害するという⾏為は、歴史よりも古いものです。それは、あらゆる政治体制の下で何度も繰り返し発生しています。私たちの国もその例外ではありません。ワクチン未接種者に対する撲滅運動は、科学の⽩⾐を着て、偏ったデータを武器に、利他主義の旗を振りながら、古代の残忍な衝動を利⽤しています。
ワクチン未接種者は強制収容所に集められ、その代表者は儀式的に殺害されるということでしょうか? そうではなく、他の⽅法で社会から隔離されるのです。もっと重要なことは、スケープゴートを作ったり、⼈間性を奪ったり、穢れを連想させるようなキャンペーンによって呼び起こされたエネルギーは、強制的な政策、特に穢れを取り除くという物語に合致する政策を⼀般の⼈々に受け⼊れさせるために利⽤できるということです。現在、特定の国を訪れるにはワクチンパスポートが必要とされます。想像してみてください。買い物に⾏くとき、⾞を運転するとき、家から出るときにワクチンパスポートが必要になることを。⾃動⾞からドアロックまであらゆるものが集中管理される「モノのインターネット」を導⼊している国であれば、容易に実施することができるでしょう。穢れの巣窟である生贄という古代からの雛形さえ確⽴されれば、どんな薄っぺらな⼝実でも十分なのです。
ルネ・ジラール は、私が彼の著作を読んだ限りでは、原理主義者のような存在でした。単なる⾷欲を超えた「全ての」欲望は模倣的なものだとか、「全ての」儀式は供犠の暴⼒に由来するというのは、このようなレンズがいくら強⼒だとしても、私は同意しません。同様に、現在のテクノ全体主義やバイオセキュリティー国家への加速を、たった⼀つの⼼理社会的な説明で⽚付けるというのは、それがどんなに深くても、私は望みません。しかし、ジラール的なパターンを認識することは重要です。そうすることで、私たちが何に対峙しているのかを知り、問題についての無益な議論を超えて、私たちの抵抗を創造的に拡⼤することができますし、最も重要なことは、私たち⾃⾝の中でその作⽤を確認できるのです。侮蔑的な表現を利用する運動は、ジラール的な衝動に当てはまります。⼈間性の剥奪、噂の流布、ステレオタイプ化、正義としての処罰、群集⼼理などスケープゴート化の要素は、反体制派のコミュニティの中にも、主流派の中にも⽣きています。このような⼒に乗って勝利する者は、以前と変わらない新たな専制政治を⽣み出すことになるでしょう。
これとは別の道と、より良い未来があります。このエッセイの第4部で説明しますが、読者の皆さんはそれが何であるかを、⾔葉ではなくても感覚ですでに知っています。この未来は、現在にも過去にも及んでいて、復讐が許しに、敵意が和解に、⾮難が思いやりに、判断が理解に、罰が正義に、ライバル関係が相乗効果に、疑念が笑いに道を譲るとき、いつでもその姿を⾒せてくれます。超越は⼈間の中にあります。
[訳註1] キャンセリングとは、反対の意思表示や社会的圧力をかける方法として、集団で否定やボイコットなどをする行為。 https://web.archive.org/web/20210617022513/https://newsphere.jp/national/20210520-2/
[訳註2] ドクター・スースの『スニーチーズ』より。 https://youtu.be/PdLPe7XjdKc?t=109
(原文リンク)https://charleseisenstein.substack.com/p/mob-morality-and-the-unvaxxed
【日本語訳】書籍『コロネーション』目次
次> 生贄としての王
<前 ファシズムと反祭
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸
