見出し画像

【聖なる経済学】 文化と魂の資本

訳者コメント:
この内容は『人類の上昇』第4章5節「文化の資本」と共通する内容です。特許制度に対する私の違和感は、その訳者コメントに書きました。工業製品を世に出そうとすると、知的財産権でライバルと戦うために特許を申請します。この手続きはなかなか素人には難しく、弁理士を依頼すると多額の費用がかかります。また特許の期間である20年間にわたって権利を維持したければ、毎年「年金」というのを納め続けなければなりません。そんなわけで、特許で利益を得るのは資金力のある企業だけになってしまうのです。

魂の資本」について、ここでの最後の段落に書かれていることが、髙市政権が資金力とSNS広告テクノロジーを駆使して人心操作をしている様子に重なります。私たちは、何かとんでもないものをお金の力に売り渡してしまったのです。

第5章:コモンズのしかばね

農民が収穫物の4分の1を領主に納めなければ土を耕すことさえ禁じた封建領主に、我々は恥を知れと叫ぶ。我々はそれを野蛮な時代と呼ぶ。しかし、形は変わっても関係性は変わらず、労働者は自由契約の名の下に封建的な義務を受け入れざるを得ない。なぜなら、どこを探しても、より良い条件は見つからないからだ。すべてが私有財産となり、労働者はそれを受け入れるか、さもなくば飢え死にするしかないのだ。
 (ピョートル・クロポトキン)

あらゆる巨万の富の根底には、重大な犯罪が潜んでいる。
 (オノレ・ド・バルザック)

土地は人間の努力と明らかに無関係に存在しているにもかかわらず、土地は他の種類の財産とそれほど違いません。まず物質的な財産について考えてみましょう。つまり金属、木材、プラスチック、植物や動物、鉱物などから作られたものです。これらは地球の一部を人間の努力によって作り変えたに過ぎないのではありませんか。土地とその上に作られた改良との区別、つまり既に存在するものと人間の努力によって生み出されるものとの区別は、土地にも他の物質的な財にも同じように当てはまります。私たちが使うもの、所有するものはすべて、地球の一部に手を加えたもので成り立っています。これらはすべて「自然資本」、つまり自然が私たちにのこしてくれた富と恵みなのです。もとはどれも所有物ではありませんでしたが、技術の進歩によって私たちの手の届く範囲が広がり、分断の意識が所有欲を強めるにつれて、それらは財産の領域に入ってきました。今日では、電磁スペクトルの帯域、DNA配列、そして間接的には生態系の多様性や地球の産業廃棄物吸収能力など、私たちが存在すらほとんど知らなかった形の自然資本が財産となっています[1]。

土地、石油、樹木のように直接的な所有権の対象となった場合であれ、公海のように他の財産を生み出すために利用される共有財産である場合であれ、本来の偉大な共有財産は売り払われ、まず所有物に、そして次にお金へと転換されてしまいました。この最終段階こそ、何かが確かに財産へと変容を遂げたことを裏付けるものです。何かを自由に売買できるということは、それが本来の関係性の枠組みから切り離されたことを意味します。「譲渡可能alienable」とは、自己から切り離せるということです。だからこそお金は土地をはじめとするあらゆる財産の代理物となったのであり、その使用料(つまり利子)を徴収することは、土地の賃料を徴収することと同じ効果を持ち、同じ古来からの不正義を内包しているのです。


文化と魂の資本

自然資本は、社会資本文化資本魂の資本と並ぶ、共有財産の四つの大分類の一つです。このそれぞれは、かつては無償で、自給自足や贈与ギフト経済の一部でしたが、今では対価を支払って得るようになりました。つまり、略奪の相手は母なる大地ではなく、母なる文化なのです。

こうした他の形の資本の中で、経済論議において最もなじみ深いのは文化資本であり、「知的財産」という用語で呼ばれています。かつては、膨大な数の物語、アイデア、歌、芸術的モチーフ、イメージ、そして技術的発明が共有財産を形作り、誰もが楽しみや生産性のために利用したり、他の革新に取り入れたりすることができました。中世には、吟遊詩人が互いの歌を聴き、気に入った新しい曲を借用して、それを改変し、再び音楽の共有財産に戻していました。今日では、アーティストとその企業スポンサーが、あらゆる新しい創作物を著作権で保護しようと躍起になり、誰かがその歌を自分たちの作品に取り入れようとするなら厳しく訴えます。これと同じことがあらゆる創造の分野で起きています[2]。

知的財産権を道徳的に正当化する根拠は、ここでもまた「もし私が私自身のものであり、私の労働力が私のものであるならば、私が作ったものは私のものである」というものです。しかし、「私は私自身のものである」という前提を認めたとしても、芸術的・知的な創造物が文化的な文脈とは無関係に、創造者の心に「無から」生じるという暗黙の前提は、馬鹿げたものです。あらゆる知的創造物は(本書を含め)、その源を私たちの周りの文化の断片、つまり人間の精神に深く刻み込まれた、あるいはもしかすると本来持っているイメージやメロディー、アイデアの宝庫から取っています。ルイス・マンフォードが言うように、「特許とは、発明を生み出した複雑な社会過程という鎖の最後の環であったことに対して、一人の人間が特別な金銭的報酬を請求することを可能にする装置」なのです[3]。歌、物語、その他すべての文化的革新についても同じことが言えます。それらを私有財産にすることで、私たちは自分のものではないものを囲い込んでいるのです。私たちは文化の共有財産から盗んでいるのです。そして、土地と同様に、文化的な共有財産もそれ自体が継続的に富を生み出すものであるため、この窃盗は継続的な犯罪であり、その結果として持てる者と持たざる者、所有者と賃借人、債権者と債務者の分断に繋がるのです。ロシアの無政府主義者、ピョートル・クロポトキンはこの点を雄弁に述べています。

すべての機械には同じ歴史がある。それは、眠れない夜と貧困、幻滅と歓喜、そして何世代にもわたる名もなき労働者たちが発見した部分的な改良の長い記録だ。彼らが元の発明に付け加えてきた些細な改良がなければ、どんなに素晴らしいアイデアも実を結ばないであろう。それどころか、あらゆる新しい発明は集大成であり、広大な機械と産業の分野でそれ以前に行われた無数の発明の結果なのだ。
科学と産業、知識と応用、発見と実用化による新たな発見、頭脳と手先の器用さ、精神と肉体の労苦、これらすべてが一体となって働く。あらゆる発見、あらゆる進歩、あらゆる人類の富の増加は、過去と現在の肉体的、精神的な努力の賜物なのである。
それでは、一体どんな権利であれ、この広大な全体のごく一片を自分のものにして、「これは私のものだ、あなたのものではない」と言えるのだろうか。[4]

こうした考えから、私は自分の著書をオンラインで無料公開し、通常の著作権の一部を放棄したいと考えるに至りました。この本を書くことは、広大で有機的な思想の集合体、つまり文化資本の共有財産の外では不可能だったのであり、それを私が囲い込むのは不当なことです[5]。

魂の資本はもっと微妙なものです。それは私たちの精神的および感覚的な能力を指し、例えば集中力、想像の世界を創造する能力、人生を体験することから喜びを得る能力などです。私が幼かった頃は、テレビやビデオゲームがアメリカの子供時代を支配するようになる直前の時代でしたが、私たちは複雑な筋書きを持つ自分の世界を創り出し、大人が人生や集合的な現実を形作るために使う精神的な技術を実践していました。つまり、ビジョンを形作り、そのビジョンを中心に意味や役割を割り振る物語を語り、それらの役割を演じる、といったことです。今日、そうした想像の世界はテレビスタジオやソフトウェア会社によって既製品として与えられ、子供たちがさまよい歩く安っぽく、派手で、しばしば暴力的な世界は、遠く離れた見知らぬ人々によって作られたものです。これらの世界には既製品のイメージも添えられていて、自分自身のイメージを形成する能力(つまり「想像力」と呼ばれる能力)は衰えていきます。新しい世界を想像することができなくなった子供は、与えられた現実をそのまま受け入れることに慣れた大人へと成長していくのです[6]。これは、アメリカ国民の政治的無関心の一因となっているのではないでしょうか。

魂の資本の枯渇は、電子メディアによる強烈な感覚刺激によっても引き起こされます。例えば、現代のアクション映画はテンポが速く、音量も大きく、刺激が強烈なため、それに比べると昔の映画は退屈に感じられます。ましてや、本や自然の世界はなおさらです。現代の過剰な刺激から子供たちを遠ざけようと最善を尽くしたにもかかわらず、私の子供たちは1975年以前に作られた映画をほとんど見ることができません。いったん強烈な刺激に慣れてしまうと、それがなくなったとたん退屈という禁断症状に襲われます。私たちは依存症になり、かつては生きているだけで得られたものを、お金を払って手に入れる他なくなります。赤ちゃんや狩猟採集民は、水面に浮かぶ小枝、花を訪れる蜂など、現代の大人たちの散漫な注意力では捉えきれない、自然のゆっくりとした営みに魅了されるでしょう。ローマのコロヌスたちが生きていくために必要な土地を利用するのに料金を支払わなければならなかったのと同様に、現代のほとんどの人々も、生きていると実感するために必要な極度の感覚刺激を生み出すため、制作過程や媒体、資本の所有者に料金を支払わなければならないのです。

魂の資本が共有財産だというのは、一見すると分かりにくいかもしれません。ここで実際に収奪されているのは、注意を向ける対象です。私が魂の資本と呼ぶ人間の心の能力は、孤立して存在するものではありません。私たちの生い立ち、養育、そして文化的環境が、それらを育み、方向づけているのです。想像力を働かせ、感覚的な充足感を得る能力は、大部分が集合的な能力ですが、今日では、もはやそれを行使するため自由に利用できる心と自然の源泉はなくなり、新たな所有者から購入しなければならないのです。

人間の集合的な注意力は、土地や空気と同じように共有財産です。土地や空気と同じように、それは人間の創造性の原材料でもあります。道具を作るため、どんな仕事をするため、どんなことをするためであれ、他のことに気を取られることなく、その作業に集中しなければなりません。現代社会の至る所に広告やメディアが存在することは、人間の集合的な注意力の乗っ取りであり、神から授かった財産の消耗です。道路を歩けばどこを見ても看板があります。地下鉄でも、インターネットでも、街中でも、商業的なメッセージが私たちの注目を「捉えよう」と押し寄せてきます。それらは私たちの思考、物語、内なる対話にまで浸透し、それらを通して感情、欲望、信念にまで入り込み、すべては製品と利益を生み出すために仕向けられます。私たちの注意力はもはや私たち自身のものではなくなり、政治と商業の力によって簡単に操られてしまうのです。

長年にわたって操作され、細切れにされ、強烈な刺激に慣らされ、どぎついけれど中身のない対象に、次から次へと振り回されてきた結果、私たちの注意力は断片化し、周囲に満ちたプログラムに影響されないものを創り出すために十分な時間、それを維持することができなくなってしまいました。私たちが失うのは、思考を持続させ、ニュアンスを理解し、他人の立場に立って考える能力です。私たちは直接感情に訴えかける単純な物語に簡単に影響され、広告だけでなく、プロパガンダ、扇動政治、ファシズムの格好の標的となってしまいます。そして、これら全ては様々な形で、お金の権力に奉仕しているのです。


前< ジョージ主義の系譜
目次
次> コミュニティの露天掘り

注:
1. 汚染クレジットのような制度は地球の吸収能力を財産権に転換しようとします。しかし、たとえそうした制度がなくても、吸収能力は既にあらゆる製造製品に組み込まれた目に見えない要素であり、供給量が限られた不可欠の材料です。明示的な財産権がないとしても、この吸収能力は共有財産から奪い取られています。
2. 例えば、映画制作者が映画の中で著作権で保護された画像を意図せず使用していないことを確認するために、著作権クリアランスを担当する大規模な法務部門を必要とします。これには、デザイナー家具、建物、ブランドロゴ、衣服など、人間によって構築された環境にあるほぼすべてのものが含まれます。その結果、創造性は阻害され、最も興味深い芸術作品の多くは違法なものとみなされるようになりました。(芸術が私たちの身の回りのものを題材にする場合、そしてそれらのものが既に財産権の対象となっている場合、これは避けられないことです。)
3. マンフォード、『技術と文明』、142頁。もちろん、発明の過程の最終段階にいる人物は、その創意工夫と努力に対して報酬を受けるに値しますが、社会的背景も考慮に入れなければなりません。特許権や著作権の保護期間が、当初の10年か20年から、場合によっては1世紀以上にまで拡大するにつれて、このことはますます無視されるようになっています。
4. クロポトキン、『パンの征服』、第1章。
5. 知的財産権に関する詳細な議論は、本書の範囲を超えます。確かに、私はこのアイデアの体系に貢献してきました(少なくともそう思っています)し、私の仕事は正当に評価されるべきです。しかし、私の著作やその他の創作物を他者が自身の新たな創作物に取り入れることを阻止するのは、いささかけちくさいと感じます。実際問題として、私は「フェアユース」の原則を大幅に拡大し、著作権と特許の保護期間を劇的に短縮することを提唱します。
6. あるいは、その子は現実を全く受け入れず、すべてを単なるイメージやシンボルとして片付けます。一方で、これはその子に「でたらめを見抜く」ことを可能にしますが、他方でその子を皮肉屋で厭世的な人間にしてしまいます。


原文リンク:https://sacred-economics.com/sacred-economics-chapter-5-the-corpse-of-the-commons/

翻訳メモ:
commonwealth:辞書には「国家、連邦、国民」といった意味が第一に出てきますが、ここではその本来の意味であるcommon wealthつまり共有財産のことです。


いいなと思ったら応援しよう!