【聖なる経済学】 コミュニティの露天掘り
訳者コメント:
露天掘り(ストリップ・マイニング)とは、地表の植生や表土を剥ぎ取り、その下にある鉱床を露出させて採掘する手法ですが、比喩的に言えば、長期的な結果を顧みることなく、ある源泉から利用可能な価値や資源をすべて、強引かつ徹底的、破壊的な方法で搾り取り、その場所を不毛な状態にしてしまうことを指します。お金がコミュニティにすることは、まさに露天掘りです。「そんなこと、お金を払えば他の誰かにやってもらえる。あなたなんか必要ない」というのは、人間関係を断ち切るときにいわれる言葉です。コミュニティを繋ぎ止めていた贈り物としての助け合いが次々と「有償サービス」の領域に取り込まれていくのに伴って、コミュニティそのものが現金化されていくのを、私たちは「経済的自立」を歓迎しながら、黙って見過ごしてきたのです。
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コミュニティの露天掘り
ここでの議論において最も重要な種類の資本は、社会資本です。社会資本とは、主に人間関係や技能、つまりかつて人々が贈与経済の中で互いに提供していた「サービス」を指します。例えば、料理、育児、医療、もてなし、娯楽、助言、食料の栽培、衣服の製作、家の建設などです。ほんの1、2世代前まで、これらの活動の多くは現在ほど商品化されていませんでした。私が子供の頃、知り合いのほとんどはめったに外食せず、近所の人がお互いに放課後の子供の面倒を見ていました。テクノロジーは、人間関係を「サービス」の領域に持ち込む上で重要な役割を果たしてきました。それは、暗い地の底にあった地球の一部を商品の領域に持ち込んだのと同じです。例えば、蓄音機やラジオの技術は、音楽を人々が自分で作るものから、お金を払って購入するものへと変えるのに役立ちました。貯蔵や輸送の技術は、食品加工において同様の役割を果たしました。一般的に、テクノロジーに伴う細分化された分業の結果、私たちが使うもののほとんどを他人に頼るようになり、隣人が私たちの作る物に依存する可能性は低くなりました。こうして経済的な繋がりは社会的な繋がりから切り離され、私たちが隣人に提供できるものは少なくなり、隣人を知る機会もほとんどなくなってしまいました。
社会資本の金銭化は、コミュニティの露天掘りです。お金がコミュニティの崩壊に深く関わっているのは当然のことです。なぜなら、お金は非人格の典型だからです。別々の二つの森も、お金に換えれば同じものになります。文化にも同じ原理を適用すれば、グローバルな単一文化が急速に生まれ、あらゆるサービスが有料となります。お金が私たちのあらゆる関係を仲介するようになると、私たちも独自性を失い、標準的な商品やサービスの標準的な消費者となり、他のサービスを提供する標準的な構成員になってしまいます。個人的な経済関係が重要性を失うのは、いつでも「誰かにお金を払ってやってもらう」ことができるからです。私たちがどんなに努力しても、コミュニティを作るのがこれほど難しいのは不思議ではありません。私たちがこれほど不安で、替えがきく存在だと感じるのも不思議ではありません。それはすべて、これから見ていくように、利子によって、唯一無二で神聖なものが金銭化され、無個性なものへと転換されてしまうからです。『人類の上昇』の中で私はこう書きました。
「お互いを必要としてなどいない」…。現在の世界におけるコミュニティーの喪失について、これ以上の表現があるでしょうか。私たちはお互いを必要としてなどいないのです。私たちの食料を栽培し、出荷し、加工し、衣服を作り、家を建て、音楽を作り、車を作り、修理する人を知る必要はなく、私たちが仕事をしている間に赤ちゃんの面倒を見てくれる人のことを知る必要さえありません。私たちは役割に依存していますが、その役割を果たす人には付随的に依存しているに過ぎません。何であれ、お金さえあれば、誰かにお金を払ってやってもらえばいい(あるいは他の誰かにお金を払ってやってもらえばいい)のです。ではどうやってお金を手に入れるのでしょうか。おそらくは別の専門的な役割を果たし、私たちから何かをしてもらうために他の人たちが支払う対価を得るのです…。
生活に必要なものは専門家の手に委ねられてしまったので、私たちには(自分の専門分野以外で)意味のあることは何も残っておらず、娯楽を楽しむしかありません。一方、私たちに残された日常生活での働きは、そのほとんどが孤独なものです。自動車の運転、買い物、支払い、インスタント食品の調理、家事。このどれも、隣人や親戚、友人の助けを必要としません。私たちは隣人との距離がもっと近ければ良いのにと思い、自分たちは喜んで彼らを助ける友好的な人間だと思っています。しかし彼らを手伝うような物事はほとんどありません。家という箱の中で、私たちは〈自活〉しています。というより、私たちは自分の知っている人に対しては自活していますが、何千マイルも離れたところに住む見ず知らずの他人には、かつてないほどに依存しているのです。
社会関係の商品化の結果、私たちが何か一緒にすることといえば消費以外なくなってしまいました。共同消費がコミュニティの構築に全く結びつかないのは、贈り物を必要としないからです。多くの社交の場でしばしば嘆かれる虚しさは、「あなたを必要としない」という漠然とした認識から生じているのだと私は思います。食べ物、飲み物、ドラッグ、娯楽を消費するのに、あなたの助けは必要ない。消費には誰からの贈り物も必要なく、誰にも本当の人間性を呼び起こしはしません。コミュニティと親密さが共同消費から生まれることはなく、与えることと共同創造からのみ生まれるのです。
自由至上主義者が私有財産の神聖さを主張するとき、彼らは意図せずして自分たちが忌み嫌う〈巨大政府〉の必要性を生み出してしまいます。なぜなら、コミュニティの絆が失われた結果、残されたばらばらの個人は、かつてコミュニティ構造が担っていた多くの社会的機能、すなわち安全保障、紛争解決、そして集団的社会資本の配分を、遠い彼方の権威、つまり法的に構成された国家に依存せざるを得なくなるからです。経済領域の所有化と民営化は、いわば私たちを「寄る辺ないまでに独立」させてしまうのです。つまり、知り合いにも頼らず、遠くから統治する非人格的で強制的な制度に依存するのです。
人々に人生で最も欠けているものは何かと尋ねると、最もよく返ってくる答えは「コミュニティ」です。しかし、コミュニティの構成要素である、お互いのために行う行為がすべてお金に換えられてしまった今、どうやってコミュニティを築くことができるのでしょうか。コミュニティは贈与によって織り上げられるのです。お金や物々交換のように、取引が終われば義理が残らないものとは異なり、贈与は常に未来の贈与を暗示します。受け取れば、借りができます。感謝は、受け取ったという認識と、今度は自分が与えたいという願望です。しかし今、与えるものが何かあるでしょうか。生活必需品ではなく、食料、住居、衣服でもなく、娯楽でも、物語でも、医療でもありません。これらは誰もが購入するものです。だからこそ、私たちは衝動的に、すべてから逃れて自給自足的な生活に戻り、自分たちの家を、自分たちの食料を、自分たちの服を、コミュニティの中で作りたいと思うのです。しかし、この運動には価値があるものの、コミュニティを持つためだけに、再び困難な道を歩み始める人はそう多くないでしょう。現代の労働の専門化と機械による効率化に逆行する以外にも、解決策は存在します。それは、お金が私たちの多くのニーズを全く満たしていないという事実から生まれます。今日、非常に重要なニーズが満たされていませんが、お金はその非人格的な性質ゆえに、それらを満たすことができないのです。未来のコミュニティは、お金では本質的に満たせないニーズから生まれるでしょう。
私がなぜお金を「コモンズの屍」と呼ぶのか、これでご理解いただけたでしょう。自然資本、文化資本、社会資本、そして魂の資本がお金に転換されることは、リチャード・シーフォードが述べたように、触れるものすべてを均質化する貨幣の力の成就です。「個性を均質な非人格へと落とし込むことで、貨幣の力は死の力に似てくる」と彼は書いています[7]。実際、すべての森林がボードフィート〔木材の量の単位〕に変えられ、すべての生態系がアスファルトで舗装され、すべての人間関係がサービスに置き換えられたとき、地球生命と社会生活のプロセスそのものが停止します。残るのは冷たく死んだ貨幣だけであり、それは何世紀も前のミダス王の神話に予言されていたことです。私たちは死にますが、非常に、非常に金持ちになることでしょう。
注:
7. シーフォード、『貨幣と初期ギリシア人の精神』、157頁。
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原文リンク:https://sacred-economics.com/sacred-economics-chapter-5-the-corpse-of-the-commons/
翻訳メモ:
functionary:機能(職務)を果たす人、という意味から、職員・役人という訳語が付きますが、一般人が社会の中で果たす役割は「プロ」ではないので職員とは言えません。ここでは「構成員」という言葉を使いました。
generic:無個性な。ジェネリック医薬品のように、ノーブランドで無印の。
