【聖なる経済学】 ニーズの創出①
訳者コメント:
技術と経済が創り出した「新たな商品とサービス」によって人間のニーズがより良く満たされるようになった、というのは嘘で、実際には元々豊かにあって困ってなんかいなかったものを、盗んでおいて売り戻されただけだったのです。ミヒャエル・エンデの『モモ』を思い出します。エンデが晩年に経済を語っていたのも、わかる気がします。
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ニーズの創出
経済学者なら、蓄音機やブルドーザーといった技術革新が、それまで存在しなかった新たな商品やサービスを生み出し、私たちを豊かにしてきたと言うでしょう。しかし根本的なレベルでは、これらの技術が満たす人間のニーズは何も新しいものではありません。ただ、そのニーズを満たす方法が違うだけであり、私たちは今その対価を支払わなければならないのです。
電気通信について考えてみましょう。人間には、抽象的な意味で長距離通信の必要性があるわけではありません。私たちは、感情的・経済的なつながりを持つ人々と連絡を取り合う必要性があるのです。昔なら、こうした人々はたいてい近くに住んでいました。狩猟採集民や14世紀ロシアの農民にとって、電話はほとんど無用のものだったでしょう。電話が人々のニーズを満たすようになったのは、技術や文化の発展によって人々が互いに遠く離れ、大家族や地域社会が分断された後のことです。つまり、電話が満たす基本的なニーズは、決して新しいものではないのです。
私の子供たちが、私の大きな困惑をよそに、逆らえないほど夢中になっている別のテクノロジー商品について考えてみましょう。それは、大規模多人数同時参加型オンライン・ファンタジー・ロールプレイングゲームです。こうしたゲームが満たすニーズも、決して新しいものではありません。十代の子供たちは、探検に出かけ、冒険をし、この探検や冒険に連なる仲間との交流を通して自己を確立したいという強い欲求を持っています。かつては、こうしたことは実際の屋外で行われていました。私が子供の頃でさえ、トム・ソーヤーの物語に描かれているような、何世代も前のような自由は全くありませんでしたが、それでも友達と私は、小川や使われていない採石場、未開発の丘の上、鉄道線路まで、何マイルも歩き回ることがありました。今日では、子供たちが集団で歩き回っているのを見かけることはほとんどなく、あらゆる土地がフェンスで囲まれ、立ち入り禁止の標識が立てられ、社会は安全に執着し、子供たちは過密なスケジュールをこなし、成果を出すことを強いられています。テクノロジーと文化は、子どもたちが心底から必要としているものを奪い、そしてビデオゲームという形で売り戻したのです。
何が起こっているのか悟った日のことを覚えています。私はたまたまポケモンのテレビ番組を見ていたのですが、それは基本的に三人の子供たちが魔法の冒険を繰り広げる物語です。画面上の、商標登録された架空のキャラクターたちが、魔法の冒険を繰り広げていました。これはかつて現実の子供たちが実体験していたものですが、今ではそれを見るために(広告を通して)お金を払わなければなりません。その結果、GDPは成長しました。新しい「財とサービス」(つまり定義上、貨幣経済の一部であるもの)が生み出され、かつて無償で果たされていた役割を置き換えてしまったのです。
少し考えればわかるのは、今日利用できるほとんどすべての商品やサービスは、かつては無料で満たされていたニーズを満たしているということです。医療技術はどうでしょうか。狩猟採集民や原始農耕民が享受していた素晴らしい健康状態と、私たち自身の劣悪な健康状態を比較すれば、私たちが身体機能を維持するために多大な費用を払っていることは明らかです。育児はどうでしょう? 食品加工は? 交通は? 繊維産業は? 紙面に限りがあるので、これら一つ一つについて、どのような必需品が盗まれ、私たちに売り戻されてきたのかを、ここで分析はしません。私の考えを裏付けるもう一つの証拠を挙げましょう。もしお金の増加が本当に技術的・文化的進歩を推進し、新しいニーズを満たしているのなら、私たちはこれまでの人類が経験したことのないほど満たされた生活を送っているはずではないでしょうか。
部族の語り部ではなく映画を、ピアノを囲む集まりではなくMP3プレーヤーを持つことで、今の人々はより幸せになり、満たされているのでしょうか。隣人の畑や自分の庭で採れたものよりも、大量生産された食品を食べることで、私たちはより幸せになったのでしょうか。ニューイングランドの古い石造りの農家やウィグワム〔北米先住民のテント小屋〕に住むよりも、プレハブ住宅や豪華一戸建てに住むことで、人々はより幸せになったのでしょうか。私たちは本当に幸せになったのでしょうか。新しいニーズが満たされたのでしょうか。
たとえそうでないとしても、自然と人類にあらゆる破壊をもたらしたにもかかわらず、私はテクノロジーの体系全体を捨て去るつもりはありません。実際、科学技術の成果は重要なニーズを満たしており、それは神聖な経済の主要な原動力となるニーズ、探求し、遊び、知り、そして新たな形の美を創造したいというニーズです。神聖な経済において、科学、技術、そしてそれに伴う労働の専門化は、これらのニーズを満たすための手段であり続けるでしょう。私たちは、この科学技術のより高次の目的をすでに目にしていますが、それは潜性遺伝子のように、どんなに商業化が進もうとも、抑えきれずに現れ出るのです。それはすべての真の科学者と発明家の心の中にあるものです。不思議さ、興奮、そして新しさに魅了される心です。古い世界のあらゆる制度には、新たな世界にも相当するものが存在し、同じ音を別のオクターブで奏でています。私たちが求めている革命は、古いものを根絶し、新しいものを一から作り出すのではありません。そのような革命は過去にも試みられてきましたが、毎回同じ結果に終わっています。その理由は、その考え方自体が旧世界の遺物だからです。〈聖なる経済学〉は全く異なる種類の革命の一部なのであり、それは粛清ではなく変革なのです。この革命において、敗者は自分が負けたことにさえ気づかないでしょう。
今日に至るまで、前述のニーズを満たしたものは、私たちの経済と技術が生み出した製品の中で、ごくわずかしかありませんでした。遊び、探求、そして驚きへの欲求が満たされないだけでなく、肉体的な欲求を満たすことでさえ、大きな不安と苦労が伴います。これは経済学者の主張と矛盾します。たとえ新たなニーズが満たされなくても、技術と分業によって既存のニーズをより効率的に満たすことができると言われます。機械は千人の仕事をこなすことができ、コンピュータは千台の機械の作業を調整できると言われます。そのため18世紀以来、未来学者たちは間もなく訪れる余暇の時代を予測してきました。しかしその時代は到来せず、実際ここ30年でさらに遠ざかったように見えます。明らかに何かがうまくいっていないのです。
経済学の二つの主要な前提の一つは、人間は通常、合理的な自己利益に基づいて行動し、この自己利益は貨幣に一致するというものです。二人が交換(例えば、お金で何かを買うこと)を行うのは、そうすることで双方に利益がある場合に限られる。ならば、交換の回数が増えれば増えるほど、得られる利益も増えるのだ。そこで、経済学者は貨幣をベンサムの「効用」、すなわち善と結びつけます。それが理由で、経済成長は経済政策における疑う余地のない聖杯とされるのです。つまり、経済が成長すれば、世界の善のレベルが上昇すると考えられるのです。経済成長を自分の功績にしたいと思わない政治家がいるでしょうか。
経済の論理によれば、新しい財やサービスが生まれたとき、誰かがそれにお金を払う意思があるということは、それが誰かの利益になるはずだということになります。ある狭い意味で、これは真実です。私があなたの車の鍵を盗んだなら、あなたが私から鍵を買い戻す方があなたにとって利益になるかもしれません。私があなたの土地を盗んだなら、あなたが生き延びるために土地を借り戻す方があなたにとって利益になるかもしれません。しかし、金銭取引が全体的な効用の増大を示す証拠だと言うのはばかげています。あるいはむしろ、そこに前提となっているのは、金銭取引が満たすニーズが元々は満たされていなかったいう仮定です。もし私たちがお金を払っているのが、かつて自給自足や贈与経済によって提供されていたものに過ぎないなら、経済成長の論理は間違っています。ここに、その仮定に隠されたイデオロギー的動機があって、トマス・ホッブズの言葉を借りれば、原始人の人生は「孤独で、貧しく、不快で、野蛮で、短かった」というものです。そのような過去は現在を正当化するかもしれませんが、現在こそ実際に様々な形でホッブズが述べたすべての特徴を備えているのです。郊外住宅地の「壮大な屋内」での生活が、孤独でないとすれば一体何でしょうか。赤道直下のアフリカでの人生は、短いものでないとすれば何でしょうか[8]。そして、不快さと残酷さにおいて、前世紀に匹敵する時代はあったでしょうか。おそらく、過去は厳しい生存競争であったというホッブズ的な見方は、私たち自身の状況をイデオロギー的に投影したものなのです。
(②に続く)
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注:
8. 現代人の人生も短い。比較的長い寿命にもかかわらず、忙しく慌ただしい人にとって、人生は短く感じられます。
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原文リンク:https://sacred-economics.com/sacred-economics-chapter-5-the-corpse-of-the-commons/
