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【聖なる経済学】 人類の成人期を迎える試練

訳者コメント:
人類文明の現地点は、成長するために何でも欲しがる子供の時代を終えて、思春期から大人へと向かう場面にいるのです。現在に折り重なるように起きている様々な危機は、大人になるための試練なのです。大人は愛する人と恋に落ち、自分という枠を拡げ、愛する人に自分が持っているものを捧げ与えたいと願うようになります。文明が成熟した後の時代に貨幣制度が残っているとしたら、何でもクレクレと叫ぶ高利貸しの貨幣では無くなっているでしょう。


人類の成人期を迎える試練

したがって、現代に終焉を迎えようとしているこの物語は、単なるお金の物語よりもはるかに深いところにあります。私はこの物語を「人類の上昇」と呼んでいます。それは果てしない成長の物語であり、今日の貨幣制度はその物語を体現し、自然界を人間の領域に作り変えることを可能にし、推進してきました。それが始まったのは数千年前、人類が初めて火を手なずけ道具を作った時で、それが加速したのは、これらの道具を動植物の家畜化に応用し、野生を征服し、世界を我が物にし始めた時でした。その栄光の頂点に達したのは機械の時代で、そのとき私たちは完全に人工的な世界を創り出し、自然のあらゆる力を操り、自分たちが自然の支配者であり所有者であると想像しました。そして今、この物語は終わりを迎えようとしていて、この物語が真実ではないという動かし得ない認識が徐々に明らかになってきます。私たちがどう振る舞おうとも、世界は実際に私たちのものではなく、私たちがどんな幻想を持っていようと、私たちが世界を支配しているわけではないのです。テクノロジーの予期せぬ結果が蔓延し、私たちのコミュニティ、健康、そして文明の生態学的基盤が悪化し、私たちが苦悩、暴力、疎外の新たな深淵を垣間見るにつれ、物語は最終段階に、すなわち危機、極限、そして結末へと突入します。物語の守護者たちが行う儀式ももはや無力です。物語がその終わりを超えて続くことはできません。

人生が思春期で終わらないように、文明の進化も成長の終わりとともに止まるわけではありません。私たちは変化の真っ只中にいますが、それは思春期から成人期への移行期に相当するものです。肉体的・物理的な成長は止まり、そこに必要だった資源は内側へ振り向けられ、他の領域での成長を促すのです。

幼少期から成人期への移行を特徴づける重要な変化が二つあって、それは個人のレベルであれ種のレベルであれ同じです。一つ目は、私たちが恋に落ちることです。そしてこの愛の関係は、子供と母親の関係とは異なります。幼少期の愛の関係において最も重要な側面は、受け取ることです。私は子供たちにできる限りのことを喜んで与えたいと思いますし、子供たちにはそれを遠慮なく受け取ってほしいと思っています。子供が肉体的にも精神的にも成長のために必要なことをするのは当然です。良い親が子の成長に必要な資源を与えるのは、母なる地球が私たちにしてくれたのと同じです。

これまで、人類は地球との関係において子供のような存在でした。私たちは狩猟採集生活という胎内で生まれ、人間と自然を区別することなく、自然という子宮の中に包み込まれていました。乳児は自己と他者の明確な区別を持たず、時間をかけて自己観アイデンティティ自我エゴを形成し、世界が自己の延長ではないことを学びます。これは人類全体にとっても同じでした。狩猟採集民は「人間」から区別された「自然」という概念を持っていませんでしたが、自然を物扱いし操作することに生活を依存していた農耕民は、自然を別のカテゴリーと考えるようになりました。農耕文明という幼年期に、人類は独自の自己観アイデンティティを発達させ、大きく成長しました。産業の発展とともに私たちは思春期への成長期を迎え、精神面ではデカルト科学を通して分断の極み、つまり若い十代の若者の成熟した自我エゴと超合理性へと至りました。若者は、科学時代の人類のように、「形式的操作」と呼ばれる認知の発達段階を完了し、抽象概念をあやつれるようになります。しかし陽の極限の中に陰の誕生があるように、分断の極限の中にも次に訪れるもの、すなわち再合一の種を宿しているのです。

思春期になると、私たちは恋に落ち、完璧な理性と完璧な利己主義の世界は崩壊し、自己が拡大して愛する人をその中に取り込むようになります。新たな愛の関係が生まれます。それは、ただ受け取るだけでなく与える関係、そして共に創造していく関係です。〈他者〉から完全に独立した存在として、私たちは他者に恋をし、生まれたときの合一状態よりも大きな、再合一を体験します。なぜなら、そこには分断の旅路のすべてが内包されているからです。

新しい愛の意識への最初の集団的な目覚めは、環境運動の誕生とともに1960年代に起こりました。(ここで私が言っているのは大規模文明のことです。土着社会では、この意識は何ら新しいものではありません。)分断の頂点に達し、あたかも自然を征服したかのように得意げに見渡していた私たちは、自然がどれほど多くのものを与えてくれていたかに気づき始めました。私たちは自然の傷や苦しみに気づき、地球から奪うだけでなく与え、地球を守り大切にしたいと願うようになりました。この願望は、後からわき出てきた絶滅への恐怖に基づくものではなく、愛に基づくものでした。私たちは地球に恋をしていたのです。60年代に、地球の最初の写真が軌道上の衛星から送られてきて、地球の美しさを見た私たちは、以前とは違う私たちになりました。地球を外から眺めることは、自然との分断における最後から二番目の段階で、最終段階は宇宙飛行士が物理的に自然を後にして空に昇ったことでした。そして彼らもまた、地球に恋をしたのです。宇宙飛行士ラッセル・シュウェイカートが語ったとされる言葉を紹介します。

あなたがもし月面から見たら、地球はとても小さく、とてもはかない。宇宙の中のかけがえのない小さな点に過ぎず、親指で覆い隠すことができるほどだ。そして、その小さな青と白の点に、あなたにとって意味のあるすべて、あらゆる歴史、音楽、詩、芸術、死、誕生、愛、涙、喜び、遊び、そのすべてが、親指で覆えるその小さな点に詰まっていることに気づく。そしてその視点から、自分が永遠に変わってしまったこと、地球に何か新しいものが生まれていること、地球との関係がもはや以前とは違うことに気づくのだ。[3]

成人への移行における二つ目の特徴は、試練です。古代の部族文化では様々な成人儀式や試練が行われ、孤立、苦痛、断食、幻覚作用のある植物、その他の手段によって小さな自己を意図的に打ち砕き、それを再構築してより大きく超個人的な自己に再統合しました。私たちは飲酒、薬物、大学のクラブや軍隊でのしごきのような形で、本能的にこうした試練を求めますが、現代の男女は通常、この過程を部分的にしか経験せず、一種の永遠の思春期に留まります。それが終わるのは、運命のいたずらによって自分の世界が引き裂かれた時だけです。そのとき私たちはより広い自己の一部となり、そこでは与えることが受け取ることと同じくらい自然にわき起こります。成人への移行を完了した男女は、自分に与えられた才能を完全に受け入れ、一人前の人間として部族の皆の幸福に貢献しようと努めるのです。

いま人類が経験しているのは、これとよく似た試練です。私たちに折り重なる複数の危機は、私たちの自己観アイデンティティそのものを揺るがす試練であり、生き残れる保証さえもない試練です。それはまだ実現されていない能力を呼び覚まし、新たな方法で世界と関わることを私たちに強います。感受性の強い人々が危機に直面して感じる絶望は、試練の一部なのです[4]。部族の通過儀礼のように、私たち人類が種としてこの試練から抜け出たとき、私たちもまた、生命の「部族」の一員である一人前の生物種として、あらゆる存在の共同体コミュニティに加わることでしょう。私たちの技術と文化という独自の能力を、あらゆる存在の幸福のために振り向けるでしょう。

人類の幼年期には、成長を体現し、地球からますます多くのものを奪うことを要求する貨幣制度は、おそらく適切だったのでしょう。それは〈上昇〉の物語の不可欠な一部でした。今日それは急速に時代遅れになりつつあります。それと相入れないのが、大人の愛、共同創造のパートナーシップ、そして成人期に伴う〈与える者〉という地位への移行なのです。これこそが、新しい種類の貨幣を含まない金融改革や経済改革が機能し得ない根本的な理由です。新しい貨幣は、自然を母としてではなく、恋人として扱う新しい物語を具体化したものでなければなりません。それでも私たちは今後も長きにわたり貨幣を必要とし続けるでしょう。なぜなら、〈人々の物語〉を具体化し、それを創造的なひな形として物理世界に適用するため、魔法の象徴を必要とするからです。貨幣の本質的な性質は変わりません。それは、物理的なものであれ電子的なものであれ、役割を割り当て、意図を集中させ、人間の活動を調整する魔法の護符となるでしょう。

本書の第二部では、そのような貨幣制度とともに、それに伴う経済と心理について論じます。私たちが今まさに足を踏み入れようとしている物語の変容には、個人的な、あるいはスピリチュアルとも言える側面があります。今日の高利貸しの貨幣は、〈分断の物語〉の一部であり、そこでは「私の分が増えれば、あなたの分は減る」のです。これこそが利子の本質です。つまり、私があなたとお金を「共有シェア」するのは、その見返りに最終的には私がより多くのお金を得る場合に限られるのです。制度のレベルでも、貨幣に掛けられた利子が生み出すのは、競争、不安、そして富の二極化です。一方、「私の分が増えればあなたの分は減る」という言葉は、自我エゴのモットーでもあり、現代の経済学、生物学、哲学における切り離された自己という概念を考えれば、自明の理と言えるでしょう。

自己意識が愛によって他者をも包むように拡大したとき初めて、その自明の理は正反対の真理、「あなたの分が増えれば私の分も増える」が取って代わります。これは世界の真の霊的な教えに体現されている本質的な真理で、誤解されがちなイエスの黄金律(正しくは「あなたが他人にするように、あなた自身にもするのである」)から仏教のカルマの教義に至るまで、同じことを言っています。しかし、これらの教えを理解し同意するだけでは十分ではなく、私たちの多くは信じていることと実際に生きていることの間に隔たりを抱えています。私たちが〈存在〉を体験するあり方を実際に変容させる必要があり、そのような変容は通常、私たちの集団的な変容が今まさに経験しているのとほぼ同じように起こります。つまり、古い〈自己の物語〉と〈世界の物語〉が崩壊し、新しい物語が生まれることによって起こるのです。なぜなら、自己もまた究極的には始まりと終わりを持つ物語だからです。あなたは、ある体験をくぐり抜けた後、自分が誰なのかほとんど分からなくなるような経験をしたことがあるでしょうか。

成熟し結びあう自己、相互共存の自己は、与えることと受け取ることのバランスが取れた状態になります。その状態では、個人であれ種全体であれ、自分の能力に応じて与え、同じ魂を持つ人々とつながり、自分のニーズに応じて受け取るのです。

私が今、共産主義の根本原則である「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という言葉を別の言い方で使ったのは、けっして偶然ではありません。これは、あらゆる贈与ギフトのネットワークを的確に表していて、人間の身体、生態系、あるいは部族の贈与ギフト文化などに共通しています。これから説明するように、これは神聖な経済も的確に表しています。その通貨は、高利貸しの貨幣とは全く異なる〈人々の物語〉、〈自己の物語〉、そして〈世界の物語〉を形作ります。循環的であって指数関数的ではなく、常にその源へと戻る通貨。それが促すのは自然の保護と豊かさであって枯渇ではありません。それが再定義する富とは、寛大さの関数であって蓄積の関数ではありません。それは豊かさの現れであって欠乏の現れではありません。それが秘める可能性は、原始社会の贈与ギフトの力学を地球規模で再現し、人間の贈り物ギフトを引き出して、地球のニーズへと導くことです。

私が十代の頃、アイン・ランドの『肩をすくめるアトラス』を読んだことを覚えています。白黒はっきりとした登場人物、極端な合理性、そして道徳的絶対主義に、思春期の私の心は強く惹かれました。この本は、個別ばらばらの自己、欲に駆られた自我エゴの宣言であり、今日に至るまで思春期の若者の心を捉え続けています。この本は「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という語句をこれ以上ないほど痛烈にこき下ろし、人々がより多くの資源を分配してもらうため競うように切実な要求を突きつけ合う一方で、生産者には生産する意欲が全くないという状況を描き出しています。この筋書きは、ある意味で共産圏で実際に起こったことですが、「自分が与えても見返りが何もなかったらどうしよう」という、欠乏に囚われた現代人の根源的な恐れを反映しています。見返り、つまり寛大さというリスクに対する報酬への欲求は、利子の根底にある考え方であり、思春期特有の物の見方ですが、やがてそれに取って代わるのが、より大きな広がりを持った大人の自己であり、存在共同体の一員として一人前に成熟するのです。私たちは、自らの才能ギフトを発揮するためここにいます。それは私たちの最も深い願望の一つであり、そうでなければ真に生きることはできないのです。

ほとんどのニーズは金銭化され、それらのニーズを満たすために必要な労働量は減少しています。したがって、人間の才能ギフトが最大限に発揮されるためには、この余剰な人間の創造性は、何か別の目的に、現代の貨幣の領域の外にあるニーズや目的へと向けられなければなりません。なぜなら、紛れもなく貨幣制度がこれまでに破壊し、今なお破壊を続けているのは、数多あまたの美しいものであり、まさに私有できないあらゆる公共財だからです。いくつか例を挙げるなら、光害のない満天の星空、道路騒音のない田園地帯、活気に満ちた多文化的な地域都市経済、汚染されていない湖や川や海、そして人類文明の基盤となる生態系などです。私たちの多くは、これらすべてに貢献できる才能ギフトを持っていますが、それに対して報酬を払ってくれる人は誰もいません。なぜなら、私たちが知っている貨幣は、究極的には公共のものを私的なものへと転換することに基づいているからです。新しい貨幣はこれとは正反対のことを促し、私たちの理想と実際の財務実態との間の葛藤は終わるでしょう。

高利貸しのお金は成長のお金であり、地球上で人類の成長段階と〈上昇の物語〉、支配と統制という物語には最適なものでした。次に来るのは地球との共創的なパートナーシップという段階です。この新たな段階の〈人々の物語〉は、今まさに形をなしつつあります。その物語を紡ぐ人々は、パーマカルチャーホリスティック医療再生可能エネルギー菌類による環境浄化リジェネラティブ運動社会的企業修復的司法アタッチメント育児など、数え切れないほどの分野のビジョンを持った指導者たちです。〈高利貸しの時代〉が自然、文化、健康、そして魂にもたらした損害を修復するには、私たちを人間たらしめるあらゆる才能ギフトが必要ですが、実際それは途方もなく困難な課題であるため、それらの才能ギフトを新たな発達段階へと引き上げることが必要になります。

これは、絶望的に考えが甘く、曖昧で、理想主義的に見えるかもしれません。私は『人類の上昇』の中でその論理の一部を引き出しましたが、本書の後半でさらに詳しく解説していきます。今のところは、あなたの中の理想と皮肉という相反する二つの声を吟味し、こう自問してみてください。「これ以下のものに甘んじることができるだろうか。」醜悪さがますます増していく世界を、あなたは受け入れることができるでしょうか。それが避けられないと信じることに、あなたは我慢できるでしょうか。できません。そのように信じるなら、ゆっくりではあっても確実に、あなたの魂を殺してしまうでしょう。頭は皮肉の快適さと安全さを好み、並外れたことを信じようとしませんが、心が求めるのはその反対で、美へと私たちを駆り立てます。そして、その呼びかけに耳を傾けることによってのみ、私たちは新たな〈人々の物語〉を創り出す勇気を持つことができるのです。

私たちがここにいるのは、美しいものを創造するためです。それは「私たちの心が可能だと告げる、より美しい世界」と私が呼ぶものです。それが真実だということが心の奥深くまで染み込み、折り重なる危機が私たちを古い世界から押し出すにつれて、必然的にますます多くの人々が人生の基礎に据えるようになる真実とは、あなたの分が増えても私の分が減るわけではないという真実、私があなたにすることは私自身にもすることになるという真実、能力に応じて働き、必要に応じて受け取るという生き方の真実です。私たちは今すぐにでもそれを始めることができます。私たちは恐れていますが、本当にそれを実行するなら、世界は私たちのニーズを満たす以上のものを与えてくれます。そして気付くのは、私たちが知っているお金に具体化されている〈分断の物語〉は真実ではなく、真実だったことなどなかったことです。しかし過去1万年は無駄ではありませんでした。時には嘘を徹底的に生きる必要があり、そうして初めて真実に向けて次の一歩を踏み出す準備ができるのです。高利貸しの時代における分断という嘘は、今や完成の域に達しました。私たちはそれを完全に、その極限まで探求し、それがもたらしたすべてを目にしてきました。砂漠と監獄、強制収容所と戦争、善きもの、真実なもの、美しきものの消耗。この長い〈上昇〉の旅を通して私たちが培ってきた様々な能力は、いま間近に迫る〈再合一の時代〉において、私たちの友として役立つことでしょう。


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注:
3. この言葉は数多くのサイトに引用されていますが、信頼すべき情報源を見つけることはできませんでした。
4. 実は、すべて順調です。危機は進化の上で役割を果たしているのです。しかし、だからといって安心してはいけません。すべて順調といえるのは、すべてがひどく間違っていると私たちが認識しているからこそなのです。

原文リンク:https://sacred-economics.com/sacred-economics-chapter-8-the-turning-of-the-age/


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