【掌篇小説】コンプライアンスドラッグ
「オッケーオッケー。ゆっくりやろう」
「君なりに頑張ってるのはわかってるから、大丈夫だよ」
「申し訳ない、こちらの伝達ミスですね」
その会社のコンプライアンス意識の高さは全ての従業員に完璧に浸透していた。
末端に至るまでが穏やかに働き、高い従業員満足度を誇っていた。
しかし、会社の目標である正社員離職率ゼロパーセントだけは、毎年達成することができていなかった。
経営層は原因分析に乗り出した。
すると、退職者のうちの一部に穏やかすぎる社風への不満があることがわかった。
明らかに自分の能力の低さに起因する遅れやミスがあっても、指摘も叱責もない。
注意して聞いていなければ意図がわからないほど、指導がまわりくどい。
この環境で成長する自分をイメージできない。
いつでも自発的に動けるわけではない人間にとって、この会社は優しすぎる。
他の環境に移るようなことがあった時に、自分がダメになっていそうで怖い。
そんな声が上がっているようだった。
「なるほど。否定せずに伸ばしていく文化を定着させようとしすぎたあまりに、熱血を欲している一部の層を置き去りにしていたのだな」
役員会議で報告を受けた社長は、そう頷いた。
「確かにこのところコンプライアンスコンプライアンスとばかり叫ばれて、私が若かった頃のような愛のある力強い指導、というのは廃れてきている。だからといって、今さらそんな指導ができるような社員もほとんど残ってはいないだろう」
「仰る通りです、社長。我々はコンプライアンスを最重要課題に掲げ、あらゆる手段を講じてきました。我々が若手と呼ばれていた三十数年前、社を挙げ、夜を徹し、怒号にまみれて駆けずり回っていたあの頃とは、もう時代が違うのです……」
「ううむ。時代を逆行することはできん。しかし全従業員の満足を実現するにはどうすれば良いのだろうか」
社長は寂しげに目を伏せる、長年共に戦ってきた専務、部長たちを眺めた。
みな、一様に老け込んだものだ。
あの頃は良かった。言葉遣いこそは荒いが、全ての社員が愛情を持って全力で仕事にあたっていた。
成果が出れば喝采を上げ、夜の街に繰り出してジョッキをぶつけ合う。
誰かがミスをすれば怒鳴りもするが、重役が先頭を切って謝罪に赴くものだから、信頼が途切れることもない。
紙が飛び交い、足を使う。そんな時代ならではの熱量があった。
「仕方ない」
社長がぽつりと言った。
「あれを使おう」
「……社長、まさか」
「そうだ。以前、実用化寸前で中止になった試験薬があっただろう。聴覚を刺激して、聴こえる音声の受け取り方と精神状態をコントロールする薬だ。あれを使えば、希望の社員だけ、受ける指導が少し荒っぽい言い方に聴こえるように調整することもできるはずだ」
会議室に沈黙が降りた。
そして、役員の一人がおずおずと応えた。
「社長……実は我社は既に、指導内容が穏やかに聴こえるように成分を調整した薬を、全従業員に配布しているのです」
『コンプライアンスドラッグ』──終
