【随想】名誉の不在―現代政治と為政者の価値観をめぐって
現在、国会では高市総理への追及が続いている。 正面から答えれば済むはずの場面でも、言葉を濁し、核心を避けているように見える。
とはいえ、質問する側もまた問題を抱えている。 問いの内容は本質から遠く、枝葉末節に終始する。政治の場で扱うべき重みを欠き、空虚である。
政治家は結果によって評価されるべき存在である。 誤解を恐れずに言えば、たとえ賄賂を受け取ろうが、虚言を弄しようが、最終的に国家と国民に益をもたらすのであれば、その行為は歴史の中で相対化される。為政者とは本来、そのような厳しい評価軸にさらされる存在であった。
現代人は、江戸時代の為政者を「民衆から収奪する悪人」と捉える傾向が強い。 時代劇に登場する「悪代官と越後屋」の図式が、その印象を補強してきたことは否定できない。
しかし、江戸時代の為政者は儒学を重んじていた。 儒学が男尊女卑的側面を持つことは事実であるが、その根幹には「民を慈しみ、民のために政治を行う」という理念がある。 保科正之や上杉鷹山は、その理念を体現した名君として知られている。
儒学は、良くも悪くも「名誉」を重視する思想である。 名誉は彼らにとって生命や財産に優越する価値であり、為政者としての行動を律する規範でもあった。
では、現代人はどうか。 共有される価値観は自由と平等であるが、それらは解釈の幅が広く、また生命や財産を超える絶対的価値としては機能していない。 現代の政治家は、名誉よりも目先の利益、すなわち金銭を優先しているように見える。国家の名誉や国民の名誉よりも、目前の利得が重んじられている。
財産が重要であることは言うまでもない。 生命が最も尊いことも疑いない。 しかし、それらを守るための価値観、あるいはそれらを超えて為政者を律する規範は、現代において失われつつあるのではないか。
国会中継を見るたびに、その欠落が胸に重くのしかかる。
