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🇧🇭バーレーン編5-2| 6年ぶりのバハレーン─消えない景色と入れ替わる人々【教科書に載っていない世界一周】


(この記事はこれまで110ヶ国を訪問した筆者が、2001年からの13ヶ月にわたる世界一周🌏を、現在の目線で振り返ったものです)

🧭 今後のルートと計画の背景

インド南端を飛び立つとき、次の目的地として湾岸地域を選んだのには理由があった。単に距離の問題ではない。古代から人類が行き交ってきた「通り道」としての存在が、どうしても気になってしまったのだ。

インドとアフリカを船で往来していた時代、オマーン周辺は当然のように経由地として利用されてきた。歴史上の大動脈のような場所であり、ぼく自身も初めて上陸する東アフリカを、アラビア半島という古い文化の回廊を通って踏みしめてみたかったからだ。

最初の目的地にバハレーンを選んだのは、その国で仕事をしていた時期があったからだ。六年前の短い期間とはいえ、確かに一時期の生活の中心であり、「懐かしい第二のふるさと」だった。そんな思いに導かれるように、飛行機はマナマへと着陸した。

そこからオマーンへ飛び陸路でイエメンのアデン港まで行き、船でジブチへ上陸する。エチオピアケニアを抜けてケープタウンまで東アフリカを縦断する。そんなワクワクする計画を胸にバハレーンに到着したのだった。このあとオマーンで判明することになるが、このルートは日本を出るタイミングが半年早ければ実現可能だったのだ。

ちなみに、インド出国前にトリバンドラムの旅行代理店で購入したのは、マナマ(バハレーン)行きの格安往復航空券約8万円だった。行きはアブダビ(UAE)経由、帰りはマスカット(オマーン)とアブダビ経由だが、マスカット-アブダビ–トリバンドラム間は使い捨てにするつもりだった。なぜか片道より往復の方が安いという、よくある航空券事情のためである。

実際にはマスカットーアブダビ間も利用することになった

🏢 懐かしの職場を再訪問する

いずれにせよ、バハレーンでは久しぶりに、かつて働いていた野村證券の現地オフィスを訪れてみた。アラブ人やインド人、フォリピン人、イギリス人などの現地スタッフの多くはそのまま残っていた。彼らは不思議なくらい僕のことを覚えていて、「おかえり」と笑顔で迎えてくれる。久しぶりに一緒に食事へ行き、夜はシーシャ(水タバコ)をくゆらせながら昔話に花が咲いた。旅の緊張がゆっくり解きほぐれていくような感覚だった。

さらに今回は、在バハレーン日本人会の人たちとも新しく知り合うことができ、食事やテニスをご一緒したり、思いがけないほどの歓待を受けた。海外で暮らす日本人は単調な生活に刺激を求めがちで、世界一周の旅人と聞けば、一気に距離が縮まる。国籍という共通点だけで心の壁を取り払ってもらえるのは、実にありがたいものだなぁと改めて感じた。

ランチタイムで人のいないマナマの街角

🏜 戦争の余韻が残る国での仕事の日々

この国に赴任していた当時は、湾岸地域の銀行をひとつひとつまわり、投資対象として日本の債券を売り歩く仕事をしていた。ところが、タイミングが悪かった。湾岸戦争からまだ3年しか経っておらず、各国の懐は戦費と武器購入で冷え切っていた。投資どころではない。

当然のように、債券はさっぱり売れない。商談のテーブルについても、相手の表情に明るさはなく、話はすぐに途切れてしまう。最後には、アラブ人やインド人が営む小さな商店を一軒ずつ回り、飛び込み営業をするような日々が続いた。会社に戻ると上司からは毎日のように詰められ、当時が社会人人生における最も苦しい時代だった。

ただ、生活は天国。独身であるにも関わらず、与えられたマンションの部屋は3LDK。窓からは眼下にヨットハーバーが広がり、ペルシャ湾に沈む夕日も見える。洗濯や掃除はインド人のメイドがやってくれた。前述したように赴任を拒否する者の多い拠点であるため、給料は同期の3倍。始業時間は7:30からと早いが、ランチタイムは2時間半もあり、ビーチやプールサイドでサンドイッチを食べたり日光浴をしてから仕事に戻れたのは、日本では味わえない経験だった。娯楽は少ないが、仕事の辛ささえ我慢できれば贅沢な生活の送れる国だった。

だが幸せな日々は長くは続かないものだ。景気悪化は容赦なく街を覆い、失業者が増え、緊張感が漂い始める。スンニ派とシーア派の人種対立が高まり、王族に対する抗議運動が激化、島全体で爆弾テロも頻発するようになった。夜間外出禁止令が出され、安心して仕事や生活が送れないようになってしまった。そんな日々が続き、本社からの命令で帰国することになった

90年代後半、湾岸の多くの国で政情不安が生じた背景には、湾岸戦争で疲弊した財政と、その後も続いた軍備増強の負担が重くのしかかっていたようだ。

⏳ 浦島太郎の気持ちがわかった瞬間

そんな経験もあって、久しぶりに訪れたバハレーンであったが、とても不思議な感じがしたのは、かつて数十人いた、当時苦楽を共にした各社の現地駐在日本人が、退避と人事異動のため6年後にはほとんど全て入れ替わっていたということだ。騒乱自体は2年程度ですっかり落ち着いたが、日系企業の海外赴任は転勤頻度が高いことを改めて実感した。目に映るハイウェイやオフィスビル、レストランや美しい景色の多くは、6年経っても同じままなのに、同じ時間を過ごした仲間は誰一人として残っていない。これは本当に不思議な感覚。

浦島太郎が龍宮城から戻ったときの心境とは、こんな感じなのかもしれない。残っているのは昔と変わらぬ風景と思い出ばかり。当時を思い出しながら、少し寂しく切ない気がした。

続く


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