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🇯🇵出発編0-1| 安定を捨てた30歳の決断〜退職通知と9ヶ月の準備【教科書に載っていない世界一周】

✈️ 緊張した退職願い

「2週間後に会社を辞めようと思います」
2000年10月1日。朝のミーティングが終わったあとの静かな時間。証券会社に勤めていたぼくは、勇気をふりしぼって上司に切り出した。


💼 2度目の世界一周

この計画は10年越しの夢だった。大学4年の時に初めて世界一周をした。2ヶ月半で14ヶ国。だが、それを「世界一周」と呼んでいいのか、自分の中でずっと引っかかっていた。

いつの日か、もっときちんとした「本格的」な世界一周をしよう。

そして就職。幸運にも会社ではそれなりの給料ももらえ、やりがいもあった。辞めなければいけない理由なんてなかった。だけど思ったのだ。
サラリーマンになるために、この世に生まれてきたわけじゃない。やりたいことをやって初めて人生と言えるのではないか。
そう信じて、入社したときから少しずつ、来たる日に向けて準備を進めてきた。

そして3か月前から「退職宣言」のタイミングを探していたのだった。
「上半期が終わったこの日なら、きっと上司も理解してくれるかもしれない」
そう考え、ドキドキしながら今日を待っていた

だが上司は社内でも有名な、“コワモテ”の男。100kgを超える体格に、ヤクザと間違えられるほどの風貌。そんな上司に、本音をぶつけた。

🎯 上司との駆け引き

「今度こそ、本格的な世界一周をしたいんです」
しばらくの沈黙。若いうちに、できるだけ多くの国を自分の目で見ておきたい。その思いだけは、まっすぐ伝えたつもりだった。

やがて上司は静かに口をひらいた。
「会社にも都合がある。あと2か月だけ、いてくれへんか」

意外な言葉だった。即答はできなかった。だが引き止めてもらえたことで、胸の奥が熱くなった。悩んだ末、2か月後に迎える30歳の誕生月に退職することで折り合いがついた。

🎁 花束の重み

そして最終日。広いディーリングルームの中央で、100人近い同僚に囲まれた。みんなから花束を差し出され、
「がんばれよ!」
「世界を見て、元気に帰ってこい!」
上司も先輩も同僚も、心からの声援をおくってくれた。

胸の奥が、熱くなった。それまでの半生で、いちばんうれしくて希望にあふれていた瞬間だった。

🚀 人生の第二ステージへ

2000年11月30日。ついに会社を退職した。ここから“世界一周”へ向けての準備が始まった。

そこから9か月。貯金の整理、装備の選定、予防接種、情報収集など着実に準備を進めた。

アジア、中東、アフリカ、南北アメリカ縦断、ユーラシア大陸横断。1年で80ヶ国を訪問する計画だった。紙の上では、世界はきれいに予定ルートででつながっていた。だが出発直後、米国で世界を揺るがす大事件が起こり、旅のルートは大きく変更を余儀なくされることになる。このときの僕は、まだそれを知らない。

それでも、あの日を境に人生は確実に動いた。会社員というレールを降り、自分の意思で世界へ向かった。人生の第二ステージの幕開けだった。

⏳ 毎日コツコツと4ヶ国語を習得

出発準備で、最も時間をかけたのは語学だった。

英語はこれまでの旅で実戦経験がある。だが、世界には想像以上に英語が通じない国が多い。そこで中国語、スペイン語、フランス語、ロシア語。この4つに挑戦することにした。これまでの実績に基づいた自分ならではの学習法だ。

まずは耳を慣らすところから。勉強法はシンプル。CD付きのNHK教材を手に入れ、朝晩ただひたすら聴く。意味は分からない。単語も拾えない。それでも毎日2時間近く、音だけを流し続けた。

最初の数週間は苦行だった。耳に残るのは、ただの雑音。「もうやめたい」と何度も思った。それでも続ける。1ヶ月ほど経つと、不思議なことが起きる。夢の中でその言語の会話が流れ始めるのだ。

その頃になって初めて、テキストを開く。すると、それまで意味不明だった音が、スポンジが水を吸い込むように頭に入り込むのだ。僕はいつも、この順番で学ぶ。各言語を1ヶ月ずつ。完璧ではないが、最低限の会話ができる土台は作れた

旅に出ると、中国語とスペイン語は、現地に入って2週間ほどで意思疎通できるようになった。市場や食堂、街角で一人で生きていくには十分な会話力はついていた。ロシア語は出番がほぼなかったが、フランス語は耳が慣れていたおかげで、言葉が通じず途方に暮れることはなかった。

語学は強い武器になる。それはこの学習のおかげで実感できた。

🎒 荷物にこだわる

荷物には異常なほど時間をかけた。
「荷物の重さ一つで、旅の質は大きく変わる」
それがぼくの旅の哲学。1gでも無駄なものは削った。

飛行機に乗る際には「決して荷物は預けない」。これがぼくのポリシーだ。理由は3つある。

1つ目はロストバゲージの可能性が低くはないこと。初めての海外旅行でロストバゲージに会い、その一部は戻ってこなかった。それ以来、機内に限らず、身体から離した荷物は二度と戻らないという覚悟を持って旅を続けている。仮に戻ってきても、その間の行動は制限されてしまい旅へのダメージは大きい。

2つ目の理由は、その方が早く動けるということだ。空港で他の旅人が何十分もかけて荷物が出てくるのを待ってる間に、バスに飛び乗り、中心部へ向かう。この数分の時間の差が、その後の数時間の差につながる。

3つ目の理由は、軽いほど行動範囲は広がるということだ。機内持ち込みの範囲内の荷物だけでほとんどの旅は可能である。この重量に荷物を抑えることによって、荷物と共に街を歩くことが可能となる。新たな街に着いても、ホテルに立ち寄ることなく、荷物を背負ったまま街を巡り、終わったらそのまま次のバスに飛び乗る、ということも可能になる。

ガイドブックは必要なページだけを抜き取り、製本し直す。薬は包装を切り落とし、洗面用品は詰め替え最小限に。道具は最軽量のものを選び抜く。下着は3日分で都度洗濯。旅のルートは、冬を避けるように巡り、余分な服を持たずにすむよう工夫した(寒冷地の後は防寒具を日本へ送り返した)。最終的に、荷物は全部で小指一本で持てるくらいにまで軽量化した。

荷物の軽さは、確実に旅を変える。1年で60ヶ国以上をじっくりと巡ることができたのも、荷物を絞ったことが大きかった。身軽さは行動力そのものだ。

次回、いよいよ出発する。

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