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🇦🇪UAE編7-2| ドバイで気づいた「国籍ヒエラルキー」【教科書に載っていない世界一周】

あなたは、自分の“国籍”を意識したことがあるだろうか。「日本人」であるだけで、どれほど信用を得ているか、考えたことはあるだろうか。
砂漠を走る乗り合いタクシーで、ぼくはその現実を知った。


(この記事はこれまで110ヶ国を訪問した筆者が、そのなかで最も刺激的だった2001年からの13ヶ月にわたる世界一周🌏を、現在の目線で振り返ったものです)

👀 日本人だとわかる前に向けられた視線

その視線は、ほんの一瞬だった。
アブダビからドバイへ向かう乗り合いタクシーの車内。
向かいに座っていたフィリピン人女性に、何気なく声をかけた。
「どちらまで行くんですか?」

小綺麗なOL風の彼女は、ちらっと僕を見たあと、ほとんど口をきこうとしなかった。車内はそれまで和やかな空気に包まれていたのに、ここだけ温度が違った。冷たい、というほどではない。ただ、何かを瞬時に判断されたような、かすかな違和感が残った。

そのときの僕は、髪は3か月伸び放題。くたびれたシャツに埃っぽいズボン。観光客にはとても見えない格好だった。日本人があまり利用しない乗り合いタクシーでは、なおさらそう映ったのだろう。彼女は、僕をどこか別のアジアから来た出稼ぎ労働者だと思ったようだ。

UAEは人口の約9割が外国人といわれる国だ。そのなかでフィリピン人は1割弱を占め、英語能力の高さを活かして接客や秘書業務など対人サービス分野で活躍している。肉体労働が中心の南アジア系労働者より、待遇が良いことも多い。だからこそ、あの一瞬の視線には、単なる人見知りとは違う何かが含まれていたように思えた。

🔄 空気が反転した瞬間

他の乗客との会話の流れで、ふとぼくが日本人だと分かった瞬間があったそのときだった。彼女の態度が、目に見えて変わったのだ。

それまで素っ気なかった口調が、急に柔らかくなった。言葉遣いは丁寧になり、目線も合うようになった。ホテルまでの行き方も、身振りを交えて親切に教えてくれたのだった。

ほんの数分前までとは、まるで別人のようだった。もし最初から「日本人です」と名乗っていたら、この変化には気づかなかっただろう。

なぜなら、その後の対応は、僕たち日本人が東南アジアの人たちから“普通に”受ける種類の礼儀正しさだったからだ。僕は無意識のうちに、それが世界共通の態度だと思い込んでいた。そして外国では、誰もが同じように接してくれるものだと。

だが少なくともあの車内では違った。彼女たちは、僕という人間を見ていたのではない。まず“どこの国の人間か”を見ていた。そして、その判断によって接し方を選んでいたのだった。

🌍 世界にある見えない序列

その出来事以来、ぼくは人の態度を少し注意深く観察するようになった。すると、多くの場面で、人は相手の“国籍”によって無意識に接し方を変えているように見えてきた。

まず「どこの国の人か」を把握し、そのうえで距離感や言葉遣いを選んでいる―そんな瞬間が思いのほか多い。

日本では軽く見られがちかもしれないが、世界全体で見ればフィリピン人は比較的条件の良い仕事に就くことも多い。英語力や対人能力を活かし、サービス業や管理的なポジションで働く人も少なくない。

そうした立場の違いが、他のアジア系労働者との間に微妙な序列意識を生むこともあるのかもしれない。あの車内で感じた空気の差も、その延長線上にあったのかもしれない。

だが、これはフィリピン人に限った話ではない。世界の多くの場所で、国籍は一種の“ブランド”として機能している。その人の人格や能力より先に、「どこの国の人か」というラベルが評価を決める

日本人も例外ではない。相手が欧米人か、アジア人かで、無意識に態度が変わる場面は決して少なくない。戦後の歴史や経済格差が、劣等感や優越感として心の奥に残っている可能性もある。

あのとき、彼女たちの中で“相手は日本人だ”というスイッチが入ったように見えたのは、個人の問題というより、そうした世界の構造の一端だったのだろう。

🇯🇵 「日本人」というブランド

僕がこのことをはっきり感じ始めたのは、あえて他国の人のような身なりをするようになってからだ。それまでは、日本人であればどこでも似たように扱われているものだと思っていた

思い返せば、バハレーンで営業をしていた頃、飛び込み訪問でも「日本人です」と伝えるだけで会ってもらえることが少なくなかった。壊れにくい電化製品、唯一の被爆国としての歴史、戦後の平和主義外交、そして高度経済成長。そうした積み重ねが、“日本人”というブランドを形づくってきたのだろう。

世界の多くの場所で、日本人は比較的信頼を得やすい立場にある。政治的に複雑な関係があったとしても、軽く扱われることは少ない

“日本人”という看板は、確かに僕らの大きな資産だ。だが同時に、それは世界に見えないヒエラルキーが存在することの証でもある。

あの乗り合いタクシーで感じた違和感は、他人の態度を責めるためのものではない。むしろ、自分は誰をどう見ているのか、という問いを突きつける出来事だった。

ぼくは本当に、人をその人自身として見ているだろうか。それとも、無意識のうちに“国籍というブランド”で値踏みしてはいないだろうか
あなたは、どうだろうか。

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