佐々木中『万人のための哲学入門 この死を謳歌する』について
はじめに
この著者の本は数冊知っている。数年前に『夜戦と永遠』と『切り取れ、あの祈る手を』を読んでいるし、他には坂口安吾論と、いくつかの評論も読んだはずだ。
素晴らしくパッションに溢れた、感動的な文章を書く哲学の先生、として記憶している。その人が数年間うつ病に苦しみ、どうにか立ち直って書いたのがこの本、ということらしい。
そういう経緯と著者の以前の主張を前もって知っていたので、この本の内容も、ある程度は事前に予想はできた。予想と違って変なことを言い出していたらどうしようかと、少し心配していたくらいだ。
そういうこともなく、まずまずは予想を裏切られず、まずまずは良い意味で期待を裏切られ、という感じでこの本を読めたことを喜びたい。
この本の内容について
著者の元々の主張を知っていたら、なにか新たなことが語られているとは感じないと思う。
死のテーマがあり、一人称の死の不可能性が語られる。国家や宗教のような組織による死の搾取の危険性が訴えられる。
そして欲望のコピーの陳腐さと、儀礼性による主体の生産について。最後に、芸術による哄笑。
生を肯定する力を、人間は持っている。
そういう本だ。
八十九ページで活字も大きく、なにより哲学入門を銘打っている本だ。そんなにややこしい話をしている訳でもない。
これはこれで良い。欲を言えば、文献への参照みたいなものはどうしても弱いので、そこが少し不満ではある。このテーマなら、ジャンケレヴィッチやフーコーなんかは名前を出して多少解説しても良かったはずだ。けれど、そこまではフォローしないというのがこの本での著者の選択だったのだろう。
基本的な感想としては、コンセプト通りまとまった良い本だと感じた。あとはこれは「著者の考える哲学入門」ではあるので、著者の思想のクセを受け入れるかどうかとか、著者にどこまで思い入れがあるかとかで評価が決まるといったところだと思う。
哲学入門を銘打ってしまっているので、なにも知らないで手に取った読者が面食らう可能性はないではないけど、最初の方に「この本は普通の入門書ではない」と書いてある以上、それは読者の責任というものだろう。
余談
以下は、まったく余談になる。僕が個人的に「これは論じてもよかったんじゃないか」と思うところについて書いておくだけである。
性愛の問題
まず、この本が完全にオミットしているのが、性愛の問題になる。
これはクリシェ的(常套句的)な批判だ。なので、深く突っ込まないでさらっと流す。
哲学における性愛の扱い方は何通りもあるけど、「問題として扱わない」というスタンスはそれはそれで一つの立場ではある。
この立場は、哲学において、性愛がそれ自体で入門書に書かれるべきテーマになり得るとする立場とは対立する。対立軸としては、性愛を儀礼性や欲望の模倣のような問題圏で扱い切れるかどうか、あるいはそこからはみ出すものにどこまで論じる価値を認めるか、みたいなところになる。フーコー派とラカン派の対立とでもいうのか。
軍隊の行進や、時刻通りに出勤することや、消費社会を楽しむこと。
セックスや恋愛や結婚がそれらと同列に扱えるかというと、かなりの程度は同列に扱えると思う。
一方で、性愛は実存的水準で僕たちのアイデンティティを規定する。
当然のことながら死の問題とも関係してくる。結婚は死別を基本的前提としたパートナーシップで、同時に個体の死を乗り越えて次世代を生産する制度に他ならない。そして結婚に帰着するロマンチック・ラブ・イデオロギーの枠組みに収まらないものとしての恋愛もそれは別途存在する。
こういうところは短くでも良いので、本書の内容に絡めて論じてみて欲しかった。死の問題一本槍できれいなストーリーでまとめてしまうのは、ある意味片手落ちのような感は否めない。
生・死の搾取の問題
次に、本書のメインテーマに近い位置づけの、生と死の搾取について。
この本は国家や宗教が死に意味を与えることで生を搾取するという構造に警鐘を鳴らしている。
それはそれで必要な警鐘だと思う。現代でもアクチュアリティは失われていない。
一方で、現代にはデジタル資本主義による死の意味づけと生の搾取というものもあると思う。
それもまた、国家や宗教によるものと同じくらいか、それ以上に苛烈なはずだ。ただ、著者はその点には触れていない。以下に、僕が思っていることを書いておく。
資本主義社会、市場経済においては、すべてのものは商品化される。家族も葬式ももはや商品になっている。
葬式代を出す遺族がいなければ、僕たちの死体は生ゴミと大差ない形で処理される。辛うじて家族がいても、死者を弔う余裕などなく、直葬して骨壺を自宅に置き続けゴミに埋もれさせるといったケースだってある。
死者を弔える人間がいなければ、死者が弔われることはない。単純な現実がそこにはある。
この事実は、シリアスに僕たちの尊厳を打ち砕く。ある社会階層の人々にとって、死とは一生の最後に生ゴミになることだ。
これは一応葬式が出て墓が立ち、家族に弔って貰えるという人々にとっても、無縁の事実ではない。一昔前であれば、人はみな死ねば弔われるという宗教的ディスクールが生きていた。それこそ無縁仏のような形であっても、宗教は万人を包摂しようとしていた。
そのような宗教的ディスクールが消滅してしまえば、葬式や弔いといったものは、もはやブルジョア的な儀礼でしかない。こうなると、ブッダも真っ青のニヒリズムが社会を覆う。
著者はこの本の中で、一カ所だけこのテーマに触れている。
われわれが本当に「文化」を失う時があるとすれば、親しい人の死骸を生ゴミに出して何の痛痒も感じなくなるときでしょう。葬礼が「屍体処理」に切り詰められてしまう時と言えばいいでしょうか。当然、そのような時が来ていいとは思いません。
これはすでに起きていることの否認ではないだろうか。
独居老人にとって最も親しい人は、介護に訪れるヘルパーさんかもしれない。ヘルパーさんがある日、老人の自宅を訪れて、その老人が死んでいるのを発見する。然るべき行政機関に連絡して引き渡す程度のことはするだろう。縁が切れていた親戚がいれば、連絡くらいはしてくれるかもしれない。それでも、そこまで。
あるいは、ネットの友達が一番親しい人間だという中高年独身者だっていると思う。彼(女)が孤独死しても、友達はSNSの更新が急に途絶えたことにしか気付かない。死体はいずれ腐敗し、発覚すれば行政だったり賃貸住宅のオーナーだったりが生ゴミと大差ない処理をする。
そういう形で「弔い」は消滅しつつあるのだと思う。市場経済では死者の価値はゼロなのだ。
(著名な芸能人や作家、スポーツ選手のような、死後もその人物を巡る経済活動が行われるというようなケースは別に考えるとして:ネームバリューや残した作品などの価値が認められるとしても、それは死者自身の尊厳を尊重した態度とは少し異なるのではないだろうか)
そして、その「価値ゼロ」は、一つの死の意味づけではある。
「死はあなたが価値ゼロに至る点なのだから、思うに値しない。あなたが生きている間に、可能な限り市場経済を享楽せよ」
これがデジタル資本主義の、生・死の搾取のあり方だ。
自分が生きている間、自分が幸福であることのみを求めるという形で、「この死を謳歌」することはたぶんできない。
インターネットにいる無数の人たちを見るだけでもわかる。
インターネットで得られる承認以外に、まったく自尊心の根拠のない人たち
人目を引くコンテンツを生み出すことでしか社会と関われない人たち
仕事が終わったあと、YouTubeを見る以外の趣味を持てない人たち
ゲーム仲間以外との人間関係が存在しない人たち
引きこもってゲームをする以外に、できることがなくなってしまっている人たち
彼らは人としては「いい人」である割合がおそらく高い。それでも、デジタル資本主義社会に過剰適応すると、こうなってしまう。なにしろデジタル資本主義の中では、デジタル商品を楽しむこと以外に生きる意味を与えられないのだから。
これに立ち向かうための筋書きがないのは、現代の哲学入門書としては弱みになると感じた。
芸術的生産の問題
上ではかなりケチをつけてしまったけど、この本は状況は変えられるという希望でしめくくられていて、それは著者の倫理的なところだと思う。
もう少し具体的な話はしてほしかった。
たとえば、芸術がどうやって世界に意味を与え直すのか。実際のところ、芸術の効果は泥臭く物質的な作業を膨大に積み上げた上にしか成立しない。どこまでも具象を積み上げる芸術という営みが、意味という抽象的なものを生産する。
そこには奇跡が起きている。そして、そう考えると、やや不満の残る書き方ではあった。
これは『夜戦』『切り手』のテーマと被るので、そっちを読んでくれ、ということかもしれない。あるいは著者は新しい芸術論を準備しているのかもしれない。
そのあたりは今後に期待したい。
