初めてのM&A。安く買えたはずだった。
初めてのM&Aは、同業のガソリンスタンドだった。
仲介業者は入っていない。自分で直接、話を進めた。
相場よりだいぶ安く買えた。いい買い物をした、と思っていた。
M&Aという手段を知ったのは、YouTubeだった。
こんなやり方があるのか、と興味を持って、調べるうちに、やってみたくなった。
本業に、特別な知識や技術があったわけじゃない。
自分の武器は、異業種から来た視野の広さと、業界の常識に縛られずに決められること。そう思っていた。
当時の私が見ていたのは、決算書だけだった。
売上、利益、譲渡価格。数字が回るかどうか、そればかり見ていた。
洗車の値段が、教えてくれたこと
買ってすぐ、洗車の値段を上げようとした。
10年以上、料金を据え置いたままだったから。
物価も上がる、人件費も上がる。据え置きなんて、もう無理だ。
番頭さんは、譲らなかった。
「ウチはこの値段だから、お客さんが取れてる。他所は他所、ウチはウチのやり方がある」
現場で何度も話した。とにかく頑固で、自分の考えが世間の全てだと思っている。
他の社員は、誰も意見を言えなかった。
調べたら、相場の三分の一の料金だった。
洗車は主力じゃない。これ自体で、業績がどうにかなる話じゃない。
でも、たかが洗車の値段ひとつ、譲らない。
そこに、この人のスタンスが全部出ていた。
結局、番頭さんの言い分も汲んで、2回に分けて、当初の2倍まで上げた。
頑固だったけど、会社への思いは、誰より強い人だった。それが分かるのに、時間がかかった。
今は顧問という形で、時々現場に顔を出して、昔からの客とうちを繋いでくれている。
数字に出てこなかったもの
問題は、洗車だけじゃなかった。
社会保険も、最低賃金も、後から出てきた。
今なら買う前に気づく。でも当時の私には、決算書のどこを見ても、分からなかった。
人と企業文化
それ以来、私は、決算書を見る前に、人と、その会社の文化を見るようになった。
数字は、過去の結果でしかない。
人は、今だ。誰が、どんな顔で、そこで働いているか。
文化は、これまで働いてきた人たちと、歴代の社長が、時間をかけて積み上げてきたもの。
数字には、そのどちらも出てこない。
買ったあとに会社を回すのは、書類じゃなくて、人と、その文化だ。
具体的には、まず人を見る。
接客しているときの表情。スタッフ同士で話すときの顔。
社長や責任者が、スタッフをどんな表情とトーンで呼ぶか。
それから、その会社の空気を見る。長い時間をかけて染みついた、文化のようなものだ。
人はその瞬間、文化はその積み重ね。両方を見れば、会社の中身がかなり見えてくる。
譲渡前に、従業員との面談はまず組めない。
だから、トップ面談に行ったとき、すれ違いざまに一声かける。
挨拶ひとつ返ってくるかどうか。それだけでも、全然違う。
それが、今の判断になっている
ある会社は、営業赤字で、債務超過だった。
でも、接客が丁寧で、店内が綺麗で、掃除が徹底されていた。
誰だか分からない私にも、スタッフは笑顔で挨拶した。
数字は最悪でも、いい文化が残っていた。
この会社は、引き受けると決めた。今は営業を立て直して、黒字になっている。
逆に、利益も出ていて、譲渡価格も想定内で、それでも見送った会社はいくつもある。
決算書だけ見ていたあの頃の私には、できなかった判断だ。
決算書には、人のことも、文化のことも、書いていない。
そのどちらも、買ったあとの会社を、回していくものなのに。
だから私は、数字より先に、人と文化を見る。
