演繹法・帰納法は難しくない
ラテン語と明治の訳語からわかる、法学の三段論法の正体
難しい概念なのではなく、難しく見える概念として読むと、法学の入口はかなり変わって見えます。
「演繹法」「帰納法」と聞くと、急に難しい話が始まりそうに見えます。
法学や論理学の本に出てくる、いかにも学者っぽい言葉です。
けれど、その中身を平たく言ってしまえば、案外あっさりしています。
演繹法は、ルールから結論を出す方法。
帰納法は、事例からルールを見つける方法。
そして法学で使われる三段論法は、前者、つまり演繹法の基本形です。
では、なぜこれほど難しそうに見えるのか。
その大きな理由の一つは、中身そのものよりも、言葉の来歴にあります。
ラテン語から西洋論理学へ、さらに明治日本の翻訳語へ。
その長い旅の途中で、もともとはかなり素朴な思考の型が、学術用語の重たい衣装をまとってしまったのです。
この記事では、「演繹法」「帰納法」「三段論法」という言葉を、ラテン語と明治の訳語の歴史からたどりながら、法学の基本的な考え方をできるだけわかりやすく整理してみます。
まず結論から
最初に結論だけ言ってしまうと、こうなります。
演繹法
一般的なルールから、個別の結論を導く方法帰納法
個別の事例を積み上げて、一般的な傾向やルールを見つける方法
これだけです。
そして、法学でよく使われる三段論法は、まさに前者、つまり演繹法の典型です。
法律家がやっていることは、特別な魔術ではありません。
ルールを確認する。
事実を確認する。
そのルールをその事実にあてはめる。
基本はこれです。
難しそうな漢字の鎧を外してしまえば、骨組みは驚くほど素直です。
演繹法とは何か
英語の deduction は、ラテン語 deductio、さらに deducere にさかのぼり、「導く」「引いていく」「連れていく」といった意味の流れを持っています。
語の芯にあるのは、難解な抽象操作というより、何かをある方向へ導くという動きです。
Etymonline でも、deduction はラテン語系の「lead or bring away or down」に由来し、論理学上は「既知の原理から結果を導くこと」と説明されています。
つまり演繹法とは、何か特別に神秘的な操作ではなく、すでにある一般的な原理から、そこに含まれている個別の結論を引き出すことです。
法学でいえば、典型例はこうです。
大前提
窃盗罪は、他人の財物を窃取した者に成立する小前提
甲は、他人の財布を盗んだ結論
したがって甲には窃盗罪が成立する
やっていることはとても単純です。
一般ルールを個別事案にあてはめているだけです。
これが三段論法であり、法学でいう演繹法の基本形です。
「演繹」と書かれると、何か高い塔の上から雷でも落ちてきそうな雰囲気がありますが、実際には、条文や判例という一般ルールを確認し、それを具体的事実にあてはめるという、ごく自然な思考の流れです。
三段論法は難しい技術ではなく、整理の型である
「三段論法」という言葉だけ見ると、いかにも古典論理学の重装備に見えます。
ですが、実際には法的判断を整理するための、非常に基本的な骨組みにすぎません。
法学の考え方を平たく言えば、こうです。
ルールは何か
事実はどうか
そのルールをその事実にあてはめると、どういう結論になるか
この順番があるから、議論が整理されます。
法学の答案で三段論法が重視されるのは、難しいことを言うためではありません。
むしろ、どのルールから、どの事実を使って、どう結論に至ったのかを見える化するためです。
つまり、三段論法は読みにくくする装置ではなく、本来は読みやすくする装置です。
コトバンクでも、三段論法は「二つの前提命題から一つの結論命題を導く論理的推理」と整理されています。
難しいのは、この骨組みそのものではありません。
本当に難しいのは、その中に入る
どの条文を使うのか
その条文をどう解釈するのか
事実をどう認定するのか
どこまでを要件に含めるのか
といった中身の部分です。
骨組みは単純。
中身が争われる。
ここを取り違えると、「法学は三段論法だから難しい」という、少しずれた印象になってしまいます。
帰納法とは何か
これに対して帰納法は、個別の事例を積み重ねながら、一般的な傾向やルールを見いだしていく考え方です。
たとえば、
この事例でもこうだった
あの事例でもこうだった
別の事例でも同じ傾向が見られた
ならば一般に、こういうことが言えるのではないか
という形です。
英語の induction は、ラテン語 inductio、さらに inducere にさかのぼり、「中へ導く」「導き入れる」という意味の流れを持っています。
Etymonline でも、論理学上の induction は、キケロがアリストテレスのギリシア語 epagoge をラテン語 inductio としたことに由来し、「既知の事例から一般化に至る」と説明されています。
こちらは、演繹法のように「すでにあるルールをあてはめる」のではなく、個別の観察から一般化していく方向の思考です。
科学でも、日常の経験則でも、私たちはかなり頻繁にこのやり方を使っています。
法学でも、最終的な答案や判決文は演繹の形をとっていても、その背後では帰納的な思考がかなり働いています。
複数の判例や事例を読み込みながら、「この事情は重視される」「この場面ではこの要件が厳しく解される」と見抜いていく作業は、かなり帰納的です。
つまり、法律の世界でも、演繹法と帰納法はまったく別々の惑星にいるわけではありません。
最終的な表現は演繹の形をとりつつ、その背景には帰納がしっかり潜んでいることが少なくないのです。
「演繹」「帰納」は、最初から自然な日本語だったわけではない
ここで少し面白いのは、私たちが今では当たり前のように使っている「演繹」「帰納」という言葉が、最初から自然にそこにあったわけではないことです。
三省堂の「百学連環」を読む解説によれば、この「帰納」と「演繹」は西周が訳したものだと言われています。
しかも西周は『致知啓蒙』で、いきなり現在の完成形だけを出したわけではなく、deduction に「鉤引」、**induction に「套挿」**という訳も試みたうえで、「演繹」「帰納」という語を用いています。
これはかなり重要です。
なぜなら、ここから見えてくるのは、明治の知識人たちが、西洋の概念にただ漢字を当てたのではなく、その概念の動き方まで日本語に移そうとしていたことだからです。
「鉤引」は、鉤で引っかけて引き出すような感じがあります。
「套挿」は、同じようなものを重ね入れていくような感じがある。
その後に残った「演繹」「帰納」は、より漢語として引き締まり、学術語として整ったため、定着していったのでしょう。
私たちが今「演繹法」「帰納法」と聞いて難しそうだと感じるのは、概念そのものの難しさだけではありません。
明治期に選び取られた学術漢語の重さまで、一緒に受け取っているのです。
そもそも deduction と induction は、どちらも「導く」言葉だった
さらに語源までさかのぼると、面白いことが見えてきます。
deduction も induction も、どちらもラテン語の ducere、つまり「導く」という語根につながっています。
Etymonline でも、deduction は deducere、induction は inducere から来ており、どちらも ducere による「lead」の系列語だと説明されています。
つまり、deduction も induction も、もともとどちらも導くことを軸にした言葉です。
違うのは、「どちら向きに導くか」です。
deduction は、一般原理から個別結論へ導く
induction は、個別事例から一般化へ導く
こう整理すると、急に視界が開けます。
「演繹」と「帰納」は、実はどちらも、人間の思考が何かを導く運動であることを表している。
ただ、ベクトルが逆なだけなのです。
「三段論法」もまた、明治日本が整えた翻訳語だった
実は、「三段論法」という言葉も昔から自然にあったわけではありません。
コトバンクの『精選版 日本国語大辞典』系の解説によれば、この語は幕末明治初期に英語 syllogism の訳語として考案された新漢語で、1866年の『改正増補英和対訳袖珍辞書』では「三段ノ話法」と訳され、その後『附音挿図英和字彙』で「三段論法」の形に整えられました。
つまり、法学でおなじみの
演繹法
帰納法
三段論法
という三つの言葉は、どれも最初から透明な日本語だったわけではなく、
西洋の論理学を日本語へ移しかえる中で整えられた翻訳語なのです。
ここが分かると、法律初学者がこれらの言葉に圧迫感を抱くのも、ある意味では当然だと見えてきます。
最初に出会う時点で、すでに概念だけでなく、明治翻訳語の重みまで背負わされているからです。
法学の三段論法は、特別な奥義ではない
法律初学者にとって、三段論法はしばしば必要以上に大きく見えます。
けれど本当は、法学の三段論法とは、
条文やルールを確認する
事実を確認する
あてはめて結論を出す
という、かなり自然な整理の方法です。
むしろ、この枠組みがあるからこそ、議論が感覚論に流れずに済みます。
結論だけを勢いで叫ぶのではなく、
どのルールで
どの事実を基礎に
どう結論へ至ったのか
を順番に示せるからです。
法律家の文章が独特に見えるのは、この順番を大事にするからでもあります。
逆にいえば、この順番があるからこそ、第三者が検証できる形になるのです。
法学はしばしば「難しい学問」と見られます。
確かに、条文解釈や判例理論や事実認定は簡単ではありません。
けれど、少なくとも三段論法という骨組み自体は、思ったよりずっと素直です。
三段論法は、思考をいじめる道具ではなく、むしろ思考を整える道具です。
言葉の重さにだまされないことが大事
ここで見えてくるのは、法学の基礎概念そのものが難しいというより、日本語でそれを受け取るとき、私たちはすでに明治の翻訳語という重たい衣装を着せられた状態で出会っている、ということです。
deduction も induction も、本来は「導く」系の言葉です。
そこに西周が「演繹」「帰納」という学術漢語を与え、さらに syllogism が「三段論法」として整えられた。
その結果、論理の基本動作そのものより、まず言葉の見た目が難しそうに見える。
法学初学者が最初に圧倒されやすい理由の一つは、まさにここにあります。
日本の法学や学術用語には、どうしても「難しそうに見える言葉」が多くあります。
けれど、その中には、言葉の外見ほど難解ではないものが少なくありません。
演繹法と帰納法は、まさにその典型です。
演繹法は、一般から個別へ
帰納法は、個別から一般へ
法学の三段論法は、演繹法の基本形
ここまでつかめれば、入口としては十分です。
難しい漢字の鎧を外してしまえば、そこにあるのは、人が物事を順序立てて考えるための、ごく自然な型です。
おわりに
「演繹法」「帰納法」という言葉は、いかにも学問的で近寄りがたい印象を与えます。
けれど、ラテン語からたどり、さらに明治日本でどう訳され、定着していったかまで見ていくと、その中身は意外なほど素直です。
特に法学の三段論法は、演繹法のもっとも基本的な姿にすぎません。
ルールを確認し、事実を確認し、そのルールを事実にあてはめる。
法律家が毎日やっているのは、まずこの作業です。
難しいのは、その枠組みではなく、その中に入る解釈や事実認定や価値判断の方です。
だからこそ、法律を学び始める人は、「演繹法」「帰納法」という言葉に必要以上に身構えなくてよい。
演繹とは、ルールから結論を出すこと。
帰納とは、事例からルールを見いだすこと。
まずは、そうつかめばよいのだと思います。
学問用語は、ときどき必要以上に重たい顔で現れます。
けれど、その語の由来と役割までたどれば、中身は意外なほど素直です。
演繹法と帰納法も、まずはそこから見直してよいのではないでしょうか。
まとめ
最後に、一番大事な部分だけもう一度まとめます。
演繹法は、一般的なルールから個別の結論を導く方法
帰納法は、個別の事例から一般的な傾向やルールを見つける方法
法学の三段論法は、演繹法の基本形
「演繹」「帰納」は西周が訳したものだとされる
西周は『致知啓蒙』で「鉤引」「套挿」も試しつつ、「演繹」「帰納」を用いた
「三段論法」もまた、幕末明治期に syllogism の訳語として整えられた新漢語
難しく見える大きな理由は、概念そのものより、翻訳語の見た目の重さにある
このあたりが見えるだけでも、法学の入口はかなり歩きやすくなるはずです。
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