【写本と出版】本はいつ「買うもの」になったのか─手書きの時代から江戸の出版文化へ
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本は「買うもの」ではなかった
本は、昔から「買うもの」だったわけではありません。 むしろ長いあいだ、本は「自分で書き写して手に入れるもの」でした。
では、日本で本が「買って読むもの」になったのは、いつだったのでしょうか。
日本の歴史のなかで、本を「お金を出して買う」ことが普通になったのは、実はかなり遅く、江戸時代に入ってからのことです。
それ以前、本とは「手で書き写すもの」でした。
原本を借り、一字一字、筆で写していく。
それが「読書」であり、「出版」であり、「知識を得る」ということでした。
コピー機も印刷所もない時代、本を手に入れるとは、自分の手で本をつくることだったのです。
では、その「手書きの時代」から、どうやって江戸の出版文化が生まれたのでしょうか。
そこには、思いのほか長い助走期間がありました。
平安貴族の「写本サロン」
写本文化の出発点として、まず平安時代を見ておきましょう。
更級日記の記事でも書きましたが、この時代、書物を持つことは特権でした。
貴族たちは和歌集や物語を書き写し、それを贈り合い、回し読みしました。
「源氏物語」のような長大な作品が今日まで残っているのは、何百年ものあいだ、誰かが繰り返し書き写し続けたからです。
ここで大事なのは、写本が「ただのコピー作業」ではなかったということです。
書き写すとき、人は必ず読みます。
読みながら写し、写しながら覚える。 つまり写本とは、知識を身体に刻み込む行為でもありました。
ただし、この文化には大きな制約がありました。
写本は一冊つくるのに膨大な時間がかかります。
だから本は高価で、持てる人はごく限られていました。
読者の数は、写す人の数によって制限されていたのです。
書き写すたびに「別の本」になっていく
さらに、写本にはもう一つ、意外な副作用がありました。
人の手で写す以上、写し間違いは避けられません。
一字の脱落、読み違い、行の飛ばし。それだけでなく、写す人が「こちらのほうが面白い」と勝手に文言を変えたり、自分の解釈や創作を書き加えたりすることもありました。
こうして、同じ作品でありながら中身の異なる「異本」が次々と生まれることになります。
「源氏物語」も例外ではありません。
鎌倉時代にはすでに、内容のかなり異なる写本が複数出回っていたとされます。
このままでは「本当の源氏物語」がどれなのか、誰にもわからなくなってしまいます。
そこで大きな役割を果たしたのが、鎌倉時代の歌人・藤原定家です。
定家はさまざまな写本を集めて読み比べ、もっとも信頼できる本文を選び取る「校訂」を行いました。
定家が書写・校訂した「青表紙本」は、のちに源氏物語の標準テキストとして広まり、今日私たちが読んでいる源氏物語のベースになっています。
ありがたいことです。
写本文化には「テキストが崩れていく」という宿命がありました。
しかし、崩れるからこそ正す人が現れ、古典はかえって鍛えられていった。 書き写すたびに壊れ、書き写すたびに修復される─それもまた、写本文化の一面だったのです。
「誰が写すか」が変わった─鎌倉・室町の転換
この制約が少しずつ崩れていくのが、鎌倉時代から室町時代にかけてです。
平安時代、写本の担い手は主に貴族と寺院の僧侶でした。
ところが鎌倉時代になると、武家社会にも書物への関心が広がります。
軍記物語や説話集が書き写され、武士の世界にも「読む文化」が浸透していきました。
さらに室町時代には、連歌師や茶人といった文化人たちが古典の収集と書写に熱中します。
本を貸し借りし、写し、注釈を加え、また別の人に渡していく。
写本は、いわば「知のネットワーク」を動かす媒体になっていたのです。
つまり、写本文化の担い手が、貴族から武家へ、そしてさらに広い文化人層へと広がっていったのです。
この「担い手の拡大」こそが、のちの出版文化を準備した重要な変化でした。
江戸の「出版爆発」─なぜ急に本が売れたのか
江戸時代に入ると、京都を中心に商業出版が本格的に始まります。
木版印刷そのものは新しい技術ではありませんでした。
しかし、それを「商売」に変えた人たちが現れました。
本屋が版木を彫らせ、刷り、店頭で売る。そういう出版ビジネスが成立したのです。
そして、この出版ビジネスの成立が、新しいタイプの「作家」を生み出しました。 その代表が、井原西鶴です。
西鶴の『好色一代男』は、出版市場で「売れる」ことを前提に書かれた、日本で最初期のベストセラー小説ともいわれています。
本が商品になった瞬間、「売れる物語を書く人」という職業が生まれたのです。
さらに面白いのは、木版印刷と「絵」の相性のよさです。
活字印刷では文字と絵を同じ面で刷るのが難しいのですが、木版なら文字も絵も同じ板に彫れます。
浮世絵はもちろん、絵入りの小説や実用書が大量に出回ったのは、この技術的な特徴があったからでした。
前回の記事で、御伽草子は「絵とセットで届けられた」と書きました。
実は、江戸の出版文化はその延長線上にあります。 文字だけでなく、「見て楽しむ本」という日本独自の伝統が、木版印刷によって一気に花開いたのです。
貸本屋という「江戸のサブスク」
もう一つ、江戸の読書文化を語るうえで外せないのが「貸本屋」の存在です。
本を買えない人でも、わずかな料金で最新の出版物が読めます。
江戸だけで数百軒の貸本屋があったといわれています。
これは、考えてみればかなりすごいことです。
今でいえば、Kindleの読み放題やマンガアプリに近いかもしれません。
「買わなくても読める仕組み」が江戸時代にすでに存在していたのです。
そして、この仕組みがあったからこそ、読者の裾野は劇的に広がりました。
写本の時代、本は「写す人の数」で読者が決まっていました。
木版印刷の時代、本は「刷る部数」で読者が決まるようになった。
さらに貸本屋が加わることで、「一冊の本を何人で読めるか」という新しい次元が開けたのです。
識字率が支えた「読む大衆」
ただし、本がいくら安くなっても、読めなければ意味がありません。
江戸時代の日本は、同時代のヨーロッパ諸国と比較しても、比較的高い識字率を持っていたとされます。
その背景にあったのが、寺子屋です。
町人の子どもたちが「読み・書き・そろばん」を学ぶ場として、全国に広がっていた寺子屋。
この教育インフラと、木版印刷による安価な書物の普及が、同時に起きていた。 つまり、「読める人」と「読める本」が同時に増えたのです。
どちらか一方だけでは、出版文化は成立しません。
技術と教育と流通が噛み合ったことで、江戸は世界でも有数の「読む社会」になりました。
「手書き」から「みんなのもの」へ
ここまでの流れを振り返ると、本が「みんなのもの」になるまでには、いくつもの段階があったことがわかります。
平安時代、本は貴族が手で写す一点ものでした。
鎌倉・室町で、その担い手が武家や文化人へと広がりました。
そして江戸で、商業出版・木版印刷・貸本屋・寺子屋教育が重なり合い、「本を買って読む」「借りて読む」という文化が爆発的に広がった。
つまり、出版文化は一夜にして生まれたのではなく、写本の時代に蓄積された「読みたい」という欲求が、技術と社会の変化によって、少しずつ解放されていった結果なのです。
御伽草子が「下剋上の夢」を短い物語に託したように、江戸の出版文化もまた、「知を独占させない」という静かな下剋上だったのかもしれません。
私たちが当たり前のように本を買い、借り、読んでいる文化は、じつは長いあいだ続いた「書き写す文化」の上に成り立っています。
「語り直し」の系譜を、近代文学の側から味わえるのが太宰治の「新釈諸国噺」です。
この記事で触れた西鶴の作品群を、太宰が自分の文章で語り直した一冊です。
前回紹介した「お伽草紙」が昔話のリライトなら、こちらは江戸文学のリライトです。 古典が「語り直し」によって別の命を持つ瞬間を、太宰の筆で体験できます。お伽草紙の文庫に収録されています。
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