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正岡子規は野球の名付け親、というのは実は俗説でした

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「ベースボールを『野球』と名付けたのは正岡子規」。
そう聞いたことはありませんか。

実はこれ、俗説です。
しかも面白いことに、名付け親どころか、当の本人が「ベースボールにはまだ訳語がない」と書き残しているのです。

子規は「訳語がない」とはっきり書いていた

「野球(やきゅう)」という訳語を考えたのは、中馬庚(ちゅうまん・かなえ)という人物です。
1894年、中馬は「Ball in the field」という発想からこの訳語を考案し、一高の『野球部史』で発表しました。
1897年には日本初の野球専門書『野球』を出版し、訳語は少しずつ世の中に広まっていきます。

一方の子規はというと、1896年、新聞『日本』に連載した随筆『松蘿玉液(しょうらぎょくえき)』の中でこう書いています。

「ベースボール未だ曾て訳語あらず」

ベースボールには、まだ訳語がない。
中馬の命名から2年後の時点でも、子規は「野球」を訳語として認識していませんでした。
当時の「野球」は、いわばリリースはされたけれどまだ誰もダウンロードしていないアプリのようなものだったのでしょう。

しかも子規はこの直後、「今ここに掲げた訳語は自分の創意による」と続け、自作の訳語をずらりと並べています。
その中に「野球」の二字はありません。
少なくとも、子規が訳語「野球(やきゅう)」を考案したという話は、これで成り立たなくなります。

では、なぜ子規の名前が語られるのか

子規は幼名を「升(のぼる)」といいました。そこから1890年、自分の雅号のひとつとして「野球(のぼーる)」という文字をあてて遊んだことがあります。
ダジャレのようなものです。

読み方は「やきゅう」ではなく「のぼーる」。中馬がつけた「野球(やきゅう)」とは、字は同じでも別物でした。
ハンドルネームがたまたま後の正式名称とかぶってしまった、と言えばイメージしやすいでしょうか。

そしてこの混同を広めたのは、意外な人たちでした。
子規の弟子・河東碧梧桐は回想の中で「ベースボールを訳して野球と書いたのは子規が嚆矢であった」と書き、親友の柳原極堂にいたっては「野球の名附親は子規である」とまで書いています。

つまり俗説の発生源は、子規を誰よりも近くで見ていた人たちだったのです。
師があまりに野球を愛していたから、「野球」という言葉まで師のものだと信じてしまった。
誤解ではあるけれど、どこか憎めない誤解です。

もう一つ、単純な理由もあります。
子規は「打者」「走者」「飛球」など、今も使われる野球用語をいくつも訳した人物でした。
それだけ翻訳に関わっていたのだから、「野球」という言葉自体も彼が作ったのだろう—そう考えるのは、むしろ自然な流れだったとも言えます。

それでも子規は、野球の恩人だった

とはいえ、子規と野球が無関係だったわけではありません。
むしろ、心から愛していた側の人間です。

子規がグラウンドに立っていたのは、予備門時代にベースボールと出会ってから1890年ごろまでの数年間でした。
捕手としてプレーしていましたが、1889年に喀血し、体力の低下とともにプレーからは退きます。
それでも野球への愛は消えず、道具を持って松山に帰り、地元の中学生に野球を教えました。
碧梧桐が俳句の世界に入ったのも、この松山で子規に野球を教わったのがきっかけです。

そして1896年、あの「訳語あらず」の一文を含む『松蘿玉液』で、子規は野球のルールや道具を新聞読者に向けて詳しく解説しています。
訳語がないと嘆きながら、自分で訳語を作りながら、このスポーツを言葉で伝えようとしていたのです。

グラウンドに立てたのは、ほんの数年でした。
けれどグラウンドを離れてからも、子規は句に、歌に、随筆に、野球を書き残し続けました。
体が動かせなくなっても、言葉でなら世界と関わり続けられる。
これは「写生」を掲げた子規の生き方そのものと、どこかで重なります。

名付け親ではなかった。
けれど、言葉を通じてこのスポーツを日本に根づかせた一人ではあった。
俗説の奥に、もう少し正確で、もう少し地味だけれど本物の功績が残っています。

正岡子規に関してはこちらの記事もお読みください。


『正岡子規ベースボール文集』復本一郎編(岩波文庫)

子規自身が詠んだ野球の句や歌、「ベースボールとは何ぞや」といった随筆まで一冊にまとめた文集です。
俗説の「名付け親」よりずっと面白い、本物の子規の野球愛がここにあります。

Amazonのアソシエイトとして、Takashi@国語の塾講師は適格販売により収入を得ています。


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