【正岡子規】─"写生の人"は、紀貫之を「下手な歌よみ」と斬った過激派だった
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国語の授業で「古今和歌集は素晴らしい」と教えるたび、頭に浮かぶ顔があります。
紀貫之は下手な歌よみである。
古今集はくだらぬ集である。
そう言い切った人がいます。
平安時代から900年、和歌の教科書のような扱いを受けてきた古今集を、正面から「くだらぬ」と書いたのです。
言ったのは正岡子規。
ただし、この発言にたどり着くまでには長い助走がありました。
松山の漢学少年
正岡子規は1867年、松山藩士の家に生まれました。
5歳で父を亡くし、家督を継ぎます。
外祖父の私塾で漢学の素読を習い、漢詩や戯作、軍談に親しむ少年でした。
小学校時代には友人と回覧雑誌を作っていたといわれています。
後年、同人誌のような集まりを次々と生み出す子規の原点は、案外このあたりにあったのかもしれません。
1880年に松山中学へ入学しますが、1883年に中退して上京。
漢文塾、続いて受験英語の共立学校(現・開成)を経て、1884年に東京大学予備門(のちの一高)に入学します。
俳句を作り始めたのは、ここからです。
同じ予備門には、後に「漱石」と名乗ることになる夏目金之助もいました。
二人は寄席通いを通じて意気投合します。
血を吐いて、「子規」になる
順調に見えたこの時期、子規の体には静かに影が差し始めていました。
20代前半から、結核の兆候が出ていたとされています。
1892年、帝国大学を中退し、新聞『日本』の記者になります。
この新聞紙上を舞台に、子規は俳句の革新運動を始めます。
1890年代前半、『獺祭書屋俳話』という文章で俳句の世界に切り込みました。
当時の俳句の多くは、「花(桜)に鶯、雪に千鳥」のような、決まった組み合わせをなぞるだけのものでした。
鶯は梅の時期なので、現実的にはおかしいのですが、奈良から平安にかけて形成された共有された美意識を重視してきたのです。
子規はこれを「月並俳句」と呼んで切り捨てます。
今でいう、テンプレ通りの投稿に「これ、去年も見た」と突っ込むような感覚でしょうか。
かわりに掲げたのが「写生」です。
ただし「見たままをそのまま書く」だけでは、子規の写生の半分しか説明していません。
子規は1895年の『俳諧大要』でこう整理しています。
俳句には「空想」に頼る作り方と、「写実」に頼る作り方の二種類がある。初心者はたいてい空想に頼る。空想が尽きたとき、写実に頼らなければならない、と。
ここでいう「空想」とは、豊かな想像力のことではありません。「花に鶯、雪に千鳥」のように、誰かが昔作った組み合わせを、目の前の景色を見もせずに当てはめてしまうことです。
テンプレートを選ぶだけの作句、と言ってもいいかもしれません。
写生はその逆です。
テンプレートを一度捨てて、目の前にあるその一つのものを、自分の目で確かめてから言葉にする。むしろ手間のかかる、面倒な作業でした。
ちなみに「写生」はもともと絵画の用語です。子規は洋画家・中村不折との交流を通じて、この西洋絵画の考え方を俳句と短歌の理論に持ち込みました。
1895年、日清戦争が始まると、子規は新聞社の従軍記者として遼東半島に渡ります。上陸した2日後に講和条約が結ばれ、戦地での仕事はすぐに終わりました。
ところが、帰国の船の中で大量の血を吐き、重体に陥ります。神戸の病院に運ばれ、しばらく療養したのち、故郷の松山に戻りました。
「子規」はこのとき定着した号です。
本名ではなく、ホトトギスの漢名でした。中国の古い伝説で、ホトトギスは鳴きながら血を吐く鳥とされています。
子規は、船の中で血を吐いた自分自身をこの鳥に重ねたのです。子規という号には、最初から血の匂いがありました。
松山で療養する子規を、一人の青年教師が自分の下宿に迎え入れます。
当時、松山中学の英語教師をしていた夏目漱石です。二人はその下宿・愚陀仏庵で52日間、共に暮らしました。
まだ漱石が小説家になる前の話です。
蕪村を掘り起こし、「ホトトギス」が生まれる
体調を崩しながらも、子規は俳句史そのものを問い直す仕事に取りかかります。
1897年、『俳人蕪村』を書き、当時ほぼ無条件に神格化されていた松尾芭蕉に対して、静かに異議を唱えました。
芭蕉のかわりに光を当てたのが、忘れられかけていた与謝蕪村です。
蕪村はもともと画家でもあり、その句には絵画のような視覚的な描写がありました。
子規はここに、自分が目指す「写生」の手本を見出したのです。
芭蕉を否定したというより、一人に偏っていた評価を、もう一人に分け直した、という方が近いかもしれません。
同じ1897年、松山の友人・柳原極堂が雑誌『ホトトギス』を創刊します。
誌名は子規の号からそのまま取られたものでした。
まもなく東京に発行所を移し、松山中学時代の後輩だった高浜虚子と河東碧梧桐が編集を引き継ぎます。
二人はもともと碧梧桐が虚子に子規を紹介したことで知り合った間柄で、上京後もそろって子規の俳句革新を支え続けました。
貫之を、下手だと言い切った
俳句の次に子規が向かったのは短歌でした。1898年、『歌よみに与ふる書』という文章で、こう書きます。
貫之は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集にて有之候。
三十六歌仙にも名を連ねる大歌人を、新聞紙上で「下手」と言い切ったのです。
かわりに評価したのは『万葉集』でした。飾り立てず、感じたことをそのまま言葉にする。
ここでも軸は「写生」です。1899年には、子規の病室で最初の歌会が開かれます。後にアララギ派へつながる、根岸短歌会の始まりでした。
古い教科書を全部書き直すような発言に、当然反発も起きました。
けれど子規はひるみませんでした。
ちなみに、万葉集と正岡子規に関しては以前の記事にも書きました。
6尺の部屋、そして最後の糸瓜
子規の病はゆっくりと進み、脊椎カリエスに至ります。
骨が壊れていく結核の一種です。
晩年は「病牀六尺、これが我世界である」と書くほど、身動きの取れる範囲が狭くなっていました。
6尺は約1.8メートル。畳一枚ぶんの世界です。
子規の過激さは、単なる反抗心ではなかったのかもしれません。
病によって残された時間が見えているからこそ、借り物の言葉や古い権威に付き合っている余裕がなかった。
「本当に見たもの」「本当に感じたもの」だけを信じようとした結果が、あの過激な発言だったとも読めます。
それでも弟子や友人が病室に集まり、句会や歌会が開かれ続けました。
1902年9月、子規は絶筆となる三句を書き残して亡くなります。享年34。
糸瓜咲て痰のつまりし佛かな
子規本人の生前の知名度は、決して高くありませんでした。新聞『日本』の発行部数は最盛期でも2万部ほどで、活動の場も根岸短歌会という小さな集まりが中心です。
子規の死後、根岸短歌会は伊藤左千夫に受け継がれ、1908年、雑誌『アララギ』の創刊へとつながります。斎藤茂吉、島木赤彦、長塚節といった歌人たちが、ここから育っていきました。
小さな結社に集まった弟子たちが、その後も長くホトトギスとアララギを育て続けたことで、子規の名は少しずつ広がっていったのです。
最後まで、見たままを、感じたままに書く人でした。
回覧雑誌を作っていた漢学少年が、古今集を「くだらぬ」と切った過激派になり、最後に選んだ言葉は、庭に咲く一本の糸瓜だったのです。
始まりから終わりまで、彼が信じていたものは変わっていませんでした。
正岡子規『歌よみに与ふる書』永井祐訳(左右社)
この記事の冒頭で引用した「貫之は下手な歌よみにて…」の、まさに出典です。
現役の歌人・永井祐さんによる現代語訳なので、120年以上前の過激な文章が、驚くほどすらすら読めます。
古今集をくだらぬと切った子規の言葉を、原文の勢いのまま体感できる一冊です。
教科書的な解説を読むより、まずこの本で「切られている」側の感覚を味わってみてください。
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