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近代戦争のはじめ方①

太平洋戦争のはじめ方 その1

日米関係を悪化させた満洲問題

 1941年12月8日、日本は真珠湾攻撃を決行し、アメリカとの戦争状態に突入。太平洋戦争の幕が開いた。
3年と半年近くに及ぶ戦いの末、日本は1945年8月15日に敗戦を迎える。犠牲者は、日本人だけでも軍民合計300万人以上。まさに惨敗である。
 太平洋戦争の直接的原因は、日本の大陸進出加速による利権衝突や日独伊三国同盟に関連する外交問題、石油禁輸をめぐる日米交渉の失敗など。しかし、昭和天皇をして「開戦の遠因である」と言わしめた出来事は、数十年前から起きていた。つまり、日米関係悪化の発端は、1904年に勃発した日露戦争の直後にまでさかのぼるのだ。
 明治後期までの日米関係は比較的良好であった。アメリカは、日露戦争では好意的中立の名目で独仏の対日干渉をけん制し、戦争末期には日露間の講和を仲介している。その結果として結ばれたのが、1905年に締結されたポーツマス条約である。
 アメリカが日本の味方となったのは、満州における権益保護という目的があった。当時のアメリカは門戸開放政策のもとで満州進出を図っていた。日露の開戦を利用して双方を弱体化させ、満州方面の勢力均衡と対中権益の確保を目論んだのである。
 ところが、アメリカの思惑は日本の善戦で崩壊した。満州の日本優位は確実となり、権益争いの標的がロシアから日本に代わることになった。1904年6月ごろには、アメリカ政府内で日本のフィリピン進出まで憂慮されていたという。そして、日米の満州権益争いは日露戦後に表面化することになった。
 1905年8月31日、アメリカ鉄道王として名高いエドワード・ヘンリー・ハリマンは、日本に南満州鉄道の共同経営を持ちかけた。日本政府はアメリカ参入による対露けん制と外貨獲得を期待し、桂太郎首相とハリマンの間で予備協定が結ばれることになる。ところが、小村寿太郎外相は満州独占を掲げてこれに反対。正式協定は中止されることになった。
 1909年に提案した満州鉄道中立化も、英仏露を味方にした日本に阻まれている。アメリカの満州進出は事実上失敗し、アメリカ政府内の対日感情は悪化に傾くことになったのである。

人種差別撤退条項に関する対立

 アメリカへの心象が悪化していたのは日本も同じだ。むしろ、日本の方が強くアメリカに敵愾心を抱いていたのかもしれない。
1914年に始まった第一次世界大戦で連合国側についた日本は、ドイツ領の太平洋各諸島と中国の山東半島を手に入れた。これによって日本は世界第3位の海軍国となっていくのだが、一方でアメリカの対日感情は悪化の一途を辿っていた。
 大戦中に日本が中国に突きつけた「対華二十一ヵ条要求」や、シベリア出兵における合意を無視した日本の過剰進攻が主な原因である。だが昭和天皇が「太平洋戦争の遠因」と考えていたのは「人種差別撤廃条項」の明文化に関する論争であった。
 第一次世界大戦の終了後、1919年1月18日からのパリ講和会議では、国際連盟設立に関する議論も戦勝国の間で交わされていた。そのさなか、日本は国際連盟憲章に人種差別撤廃に関する条文を明記するよう提案した。
 当時の有色人種は白人勢力の差別にさらされていた。日本人も例外ではなく、もっとも差別されたのは移民である。
 幕末の開国から、多数の日本人が仕事を求めて海外に渡航していた。主な移民先は北・南米大陸だ。アメリカ本土にも、1891年から1900年の間だけで約27440人の日本人移民が入国している。
 当初は安い労働力として重宝されていたが、日露戦争後は黄禍論の高まりで差別の対象となる。1907年から1908年にかけては、労働目的の新規移民を禁ずる「日米紳士協定」が結ばれるなど、アメリカの排日運動は終わりをみせなかった。
 そうした対日差別の是正のため、日本政府は国際連盟を足掛かりにしようと考えた。差別克服と植民地解体を期待する非白人の声を代弁したという説もある。ただし、日本は同年3月1日に発生した、朝鮮半島の「三・一独立運動」を武力弾圧している。他人種の差別撤廃にどれほど本気だったかは疑問の余地がある。
 日本の真意がどうであれ、白人勢力の優位を崩しかねない提案を欧米列強が呑むはずがない。日本の南方進出を警戒するオーストラリアや植民地を多数抱えるイギリスは反対の立場を取り、憲章への追加は難航した。
 日本は前文への挿入に方針を切り替え、4月11月の最終会合で各国の賛否投票が行われた。結果は賛成11対反対5と賛成多数。しかし議長のウッドロウ・ウィルソン大統領は、全会一致ではないとしてこれを却下してしまう。結局、日本の差別撤廃に関する運動は失敗に終わった。
 日本政府は冷静に失敗を受け止めたようだが、国民は違った。日本の新聞各社が大きく取り上げると、日本の主張を拒絶されたとして国民は大いに憤った。結果、日本国内の反米感情は急激に高めることになる。その流れをさらに加速させたのが、アメリカ国内の移民排斥の強化であった。

排日移民法による反米感情の悪化

 1924年7月1日付の東京朝日新聞にて、アメリカにおける「ジョンソン=リード法」の制定が報道された。日本の報道によると、日本を含むアジア系移民を全面的に禁ずる法律とされた。日本では、「排日移民法」という呼び名でも知られている。
 ただし、この法律は日本人のみを狙った排斥法ではない。日本人以外のアジア系はもちろん、ヨーロッパ系、それ以外の西半球諸国系を含めた広範囲の制限法であった。ただし、扱いは人種ごとに異なっている。
 ヨーロッパ系の移民数は1890~1910年間の国税調査を参考に、そのとき在住中だった各国出身者の2%と定められた。西半球諸国の移民は量的割り当てを免除されている。労働需要の高まりを見越しての対応だ。それらに対し、アジア系は全面的に新規移民を禁止されたのである。
 禁止対象に日本人が含まれたのは、埴原正直駐米大使の失策だとされていた。埴原は法案成立阻止のため、国務長官あてに書簡を届けていた。その結びにあった「両国間の幸福にして相互に有利なる関係に対し重大なる結果を誘致すべし」の一文がアメリカへの脅迫と捉えられたがため、逆に成立が加速したという。
 ただし移民排斥の加速はすでに第一次大戦中から始まっており、1917年と1921年にも移民規制法案が可決されている。つまりアメリカの移民規制は既定路線であり、日本人移民のみが例外となる道はなかっただろう。
 それでも、この法案が日本に衝撃を与えたことは間違いない。人種差別条項の失敗から続く流れの中で、アメリカや国際社会に対する不信感は確実に溜まっていった。さらに1920年代以降は、政党政治が本格化した時代だ。普通選挙の実施で世論の反映がたやすくなり、新聞を始めとするメディア機能も発展していく。
 これまでのように指導者の判断と枠組みのみでの国家運営は厳しくなり、政府は国際情勢と世論の板挟みとなっていく。そのとき、国内世論が反米・排外主義に染まっていたらどうなるか。こうした人種差別条項に関する挫折から移民拒否で起きた日本国民の憤慨を、昭和天皇は独白録の中で「大東亜戦争(太平洋戦争)の遠因」と述べている。

※本作は書下ろしです。

【著者紹介】
高石弘明(たかいし・ひろあき)
1986年大阪府生まれ。2010年より編集プロダクションに勤務し、第二次世界大戦や近代の歴史的人物、事件などを中心に執筆。戦国時代や地理に関する執筆も多い。主な書籍は『終戦後の日本軍』(彩図社)『教科書には載っていない日本軍の謎』『太平洋戦争 通説のウソ』(同・共著)ほか。

【参考資料】
『日露戦争の世界史』崔文衡著・朴菖煕訳
『移民国家アメリカの歴史』貴堂嘉之
『昭和天皇独白録』 寺崎英成/マリコ・テラサキ・ミラー
『近代日本外交史 幕末の開国から太平洋戦争まで』佐々木雄一
『日本外交史 第四篇: 国際日本の確立(電子版)』清沢洌

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