17歳で全てを失った僕が、IT営業になるまで
高校1年生のとき、僕は全てを失いました。
サッカー。
学歴。
将来への自信。
少なくとも、そのときの僕はそう思っていました。
原因不明の体調不良によって、高校を中退し、通信制高校へ転校することになったからです。
高校を辞めた日のことは今でも覚えています。
職員室で退学手続きを終えた帰り道。
グラウンドからはサッカー部の声が聞こえていました。
校舎には文化祭準備の看板が並び、
教室ではいつも通り授業が続いていました。
僕だけが、その日から別の時間を生きることになりました。
当時の僕は、
まさか数年後にIT業界で営業をやっているなんて想像もしていませんでした。
当時は体を動かすことができず、喋ることもできない日々。
大学病院で何度も検査を受けました。
でも原因は見つからない。
最終的にたどり着いたのが精神科でした。
精神科では、双極性障害II型と診断されました。
当時の僕は病名を知りませんでした。
でも今振り返ると、
病気より苦しかったのは、
「説明できない苦しさ」だったと思います。
目に見える怪我なら理解される。
精神疾患は見えない。
「最近元気そうじゃん」
と言われるたび、
うまく笑えない自分がいました。
元気に見える日もある。
でも次の日には起き上がれないこともある。
その波を自分でも説明できなかった。
だから人に理解してもらうことはもっと難しかった。
そう言葉にするたび、
自分でも何を説明しているのか分からなくなることがありました。
当時は診断された現実を受け入れることができませんでした。
「なんで自分なんだろう」
そんなことばかり考えていました。
頑張っていたサッカーは辞めるしか選択肢はなく、
学業も並行で頑張っていたのですが、指定校推薦の可能性も途絶え、
当時の僕には、
通信制高校へ進学したことが「人生の脱落」のように感じられていました。
通信制高校に転校して最初に驚いたのは、誰も勉強していないことではありませんでした。
誰も未来の話をしないことでした。
大学受験の話も、
将来やりたい仕事の話もない。
「卒業できればいいよね」
そんな空気が教室に流れていました。
僕自身も勉強をやめ、
楽な方へ流れそうになったことがあります。
今振り返ると、
あのとき欲しかったのは説教ではなく、
「まだやり直せる」
という感覚だったのかもしれません。
だからこそ今は、
何かにつまずいた人に対して、
簡単に努力不足だとは言えません。
そんな中、「今の自分にできることは勉強しかない」と思い、予備校に通い始めました。
通信制高校は、単位さえ取ればあとは自由でした。
大学の単位制度に近い感覚です。
僕は単位を早めに取り終え、アルバイト以外の時間はほとんど予備校で過ごしました。
その結果、成績は順調に伸びていきました。
高校3年時の模試では当時、目標としていた有名大学の判定がA判定になるまで力をつけることができました。
しかし、センター試験まで残り3ヶ月が迫ったところで体がおかしくなってきます。
勉強で自分を追い込みすぎて、静かに体が悲鳴を上げていたんです。
その頃からセンター試験までまともに寝れる日がなく、常にオールした後以上の眠気、倦怠感と戦いながら受験勉強をすることになります。
ここまで睡眠不足になると、
脳の働きが明らかに落ちていることが自分でも分かりました。
覚えたはずの単語が頭から消えていく。
簡単な計算もできなくなる。
1+1=2が分からなくなる。
これは当事者じゃないと伝わらない感覚だと思います。
大学受験の結果は惨敗でした。
高校3年の秋頃までは、本気で早稲田大学に合格できると思っていました。
模試ではA判定。
予備校の先生からも「このままいけば大丈夫」と言われていました。
通信制高校へ転校した自分でも、ここまで来られた。
そう思えたことが嬉しかったのを覚えています。
だからこそ、体調が崩れ始めたときも立ち止まれませんでした。
ここで休んだら今までの努力が無駄になる。
そう思って勉強を続けました。
でも体は正直でした。
机に向かっても集中できない。
英単語帳を開いても内容が頭に入ってこない。
昨日覚えたはずのことを翌日には忘れている。
焦れば焦るほど勉強時間だけが増えていきました。
そして迎えた受験本番。
結果は全滅でした。
不合格の文字を見たときは悔しいというより、何も感じませんでした。
あれだけ目指していた大学に落ちたのに、
感情が追いつかなかったんです。
ただ、
受験が終わった帰り道だけは覚えています。
「これから自分はどうなるんだろう」
そのことばかり考えていました。
センター試験は全滅。
1月以降に受験した大学も全て不合格でした。
唯一、12月に受験していた和光大学だけが合格でした。
浪人は免れました。
でも、素直に喜ぶことはできませんでした。
和光大学は、もともと受験の練習として受けた大学でした。
だからこそ、そこへ進学する決断は簡単ではありませんでした。
正直、悔しかったです。
早稲田大学を目指していた僕にとって、
和光大学への進学は「第一志望合格」とは程遠い結果でした。
でも振り返ると、
第一志望に落ちたことよりも、
和光大学に進学したことの方が、
人生に大きな影響を与えました。
当時は失敗だと思っていた選択が、
後から振り返ると人生最大の転機だった。
そんなことが本当にあるんだと知りました。
当時、和光大学のキャッチコピーは、
「異質力で輝け」
当時の僕は、その言葉の意味をほとんど理解していませんでした。
正直、
「偏差値で勝負できないから個性で戦う大学なんだな」
くらいに思っていました。
でも今振り返ると、和光大学で社会学に出会い、
社会学とは、正解を覚える学問ではなく、
当たり前を疑う学問だと知ったことで、
僕が初めて、
自分の経験を社会の問題として考え始めた場所でもあります。
それまでの僕は、
「病気になった自分が悪い」
と考えていました。
でも社会学は、
個人の問題だと思っていたものを、
社会の仕組みから考える視点を教えてくれました。
卒業論文のテーマはすぐに決まりました。
「精神疾患を抱えた人は、なぜこんなにも生きづらいのか」
それは僕自身の問いでもありました。
このテーマについては次回の記事で詳しく書こうと思います。
大学生活は充実していました。
社会学を学び、
卒業論文を書き、
気付けば就職活動の時期になっていました。
面接は順調でした。
学歴ではなく、
自分自身を評価してもらえた。
そう感じられたことは大きな自信になりました。
でも同時に、
ある疑問も生まれました。
もし今ここで、
自分が精神疾患を抱えていることを話したら、
この評価は変わるのだろうか。
能力ではなく、
属性によって評価が変わるとしたら、
それは本当に公平なのだろうか。
大学4年の夏。
気付けば周囲の就職活動は終わっていました。
焦りながら参加した合同説明会で出会ったのがIT業界でした。
当時はITの知識なんてほとんどありませんでした。
それでも、目の前のお客様の課題を仕組みで解決するという仕事内容に惹かれました。
気付けば最終面接の日になっていました。
最終面接が終わり、帰宅するためにバスに乗車すると電話が鳴ります。
最終面接を受けた企業からでした。
「〇〇さんを採用したいんです」
安堵しました。
就職活動をやり直して、
やっと終わったと思いました。
ところが次の瞬間。
「営業ではなく、エンジニアとして採用できませんか?」
僕は言葉を失いました。
営業になりたかった僕にとって、
想定外どころではありませんでした。
僕は、少し考える時間を下さいと言いました。
たまたま父親が元エンジニアだったので、
仕事内容など詳しく聞きました。
詳しいことは理解できませんでしたが、
逆にチャンスだと思い、エンジニアにチャレンジすることにしました。
エンジニアとして3年間働きました。
テストや品質管理の仕事を通じて、
ソフトウェアは多くの人の試行錯誤で支えられていることを知りました。
正直、最初は不安でした。
でも気付けば技術の面白さに夢中になっていました。
途中、半年間、休職を経験しますが、
それは別の記事で書きたいと思います。
そして、2026年1月から念願が叶い、営業職に異動することができ、技術が分かる、開発と営業の架け橋となる存在を目指して、日々奮闘中です。
17歳の僕は、
高校を辞めた日に人生が終わったと思っていました。
でも26歳になった今、
あの日に終わったのは人生ではなく、
「こうあるべきだと思っていた人生」だったと感じています。
サッカー選手にはなれなかった。
早稲田大学にも行けなかった。
エンジニアになる予定もなかった。
それでも、
社会学に出会い、
技術に出会い、
営業という仕事に出会いました。
人生は一直線ではありません。
遠回りに見えた道が、
後になって一番意味のある道だったと気付くことがあります。
このnoteでは、
そんな遠回りの途中で考えたことを書いていこうと思います。
22歳の僕は、
社会に対してかなり怒っていました。
なぜ精神疾患を持つ人は生きづらいのか。
なぜ働けないことが自己責任になるのか。
なぜ社会は同じペースで働ける人だけを前提に作られているのか。
その怒りをぶつけたのが大学4年間の集大成である卒業論文でした。
次回の記事では、
22歳の僕が社会への怒りをぶつけた卒業論文を、
26歳になった今の僕が読み返します。
当時の僕は正しかったのか。
それとも社会を見る視点が変わったのか。
4年ぶりに向き合ってみます。
もし今、
人生が思い通りにいっていない人がいるなら、
その遠回りは、いつか意味のある道になるかもしれません。
過去は変わりません。
でも、
あのとき終わったと思った人生は、
終わっていませんでした。
ただ、自分が想像していたものとは違う形で続いていただけでした。
