メモ なぜ社会科学でシミュレーションを行う必要があるのか
現代の社会科学の研究では、シミュレーションが必ずしも主流の方法になっていません。少なくとも大学教育における政治学では、シミュレーション分析を学生に習得することを求めていません。ただ、シミュレーション分析によらなければ、理解しがたい政治現象もあることが、先駆的な業績によって示されています。ここではシェリングとアクセルロッドの業績を簡単に紹介してみたいと思います。
トーマス・シェリングは、差別に基づく棲み分けが発生するメカニズムを考察するためにシミュレーション分析を利用しました。彼は、それぞれが独立して意思決定を行う行為主体に意思決定の基準となる選好を操作したとき、行為主体の間でどのような相互作用が生じるのかを分析しています。正方形の格子上で気まぐれに住民を配置し、それぞれにAとBという属性を与えたとします。AはAと、BはBと隣り合おうとする好みをわずかに与えておき、移動を繰り返すシミュレーションを実行します。AとBとの間には空間的な棲み分けが進み、その境界がはっきりとなってくることが分かりました。
この研究の面白い点は、個人単位で測定された選好の内容がほんのわずかに偏っているだけで、それが社会の全体的な状態に重大な影響を及ぼすことを明らかにしたことです。直観的に考えると、個々人が特定の性別、民族、宗教などの属性に基づいて人を差別する態度を強く持っている場合、社会に与える影響も強くなると考えられますが、シミュレーションはほんのわずかな差別的態度を多くの人々が幅広く持つだけで、社会の分断が大きく進む可能性があることを示しています。まだコンピュータ・シミュレーションが一般的に利用できなかった時代であったこともあり、このような研究成果を得るだけで多くの計算作業が必要であったことが伺われます。
ロバート・アクセルロッドは、規範が社会で形成され、普及し、そして衰退する過程を分析するモデルを提案しています。規範は、2人以上の行為主体から構成された社会で、共通の権力に服従しない場合であったとしても、無制限に対立が続く状態から抜け出す強力なメカニズムです。アクセルロッドが提案した「規範ゲーム」は、20人の行為主体は規範に従って協調するか、それに違反して裏切るかを選択させるシミュレーションです。すべての行為主体が協調している限り損失は発生しませんが、裏切者が発生すると、その行為主体だけが利得を得て、それ以外の行為主体はすべて損失を被ることになります。
もし裏切者を目撃できていなければ、それ以外の行為主体は損失を受けるだけで次の手番に進みますが、もし目撃に成功した行為主体が存在した場合は裏切者を懲罰するかどうかを選択します。懲罰した場合は、裏切者は裏切ったときに得る利得をはるかに上回る損失を被ることになりますが、懲罰者もやや損失を出すことになります。このような相互作用を通じて行為主体は自らの利得を減らす戦略を淘汰し、利得を増やす戦略を次の世代に受け継いでいくと想定します。つまり、アクセルロッドは進化論的な規範ゲームを考えており、それぞれの行為主体が合理的な計算によって最善の方法を特定するとは限らないことを前提としています。
規範ゲームを実装したコンピュータ・シミュレーションの結果から読み取れるのは、裏切者が発生したときに、それぞれの行為主体が懲罰に加わることを避けようとするということであり、最終的に誰も規範を守らなくなるということです。これを避けるためにアクセルロッドが導入する必要があるとしているのが「メタ規範ゲーム」であり、これは規範の裏切者を懲罰しない行為主体に対して懲罰を加える選択肢を組み入れた規範ゲームの拡張です。例えば、アメリカがソ連に対して経済制裁を行ったときに、この経済制裁に従わなかった外国の企業に対して制裁を加えたことは、メタ規範ゲームの具体的な事例です。
このメタ規範ゲームを実装してシミュレーションを行った場合、裏切りを防止する効果があることが確認されました。この結果を踏まえれば、規範を維持する上で裏切者だけを処罰するだけでは十分ではないと考えられます。これは規範が維持されるためには、その規範に違反した行為主体に対して他の行為主体に懲罰的な行動をとらせる圧力がなければなりません。
どちらの研究でも、直感だけでは気が付きにくいメカニズムが、人々の社会的な相互作用に重要な影響を及ぼしていることを示しています。大きな結果が生じるためには、それだけ大きな原因がなければならないと思いがちですが、そのような関係が見出せるシステムの性質は「線形性(linearity)」と呼ばれています。これとは反対に「非線形性(nonlinearity)」は小さな原因であるのに、大きな結果がもたらされる関係を表すときに使う用語であり、例えば武力紛争や金融市場も非線形性の性質を持つ社会現象の一つです。非線形性を持つ社会システムは局所的な相互作用に注目していても、全体的な相互作用を捉えることができないことは覚えておいてもよいでしょう。
いずれにしても、シェリングの考察は政治意識や投票行動を考える上で参考になるものであり、アクセルロッドの分析は、国際社会で既存のルールに違反する侵略国が出現した場合に、そのルールを存続させることができるかどうかを左右するのは、侵略国に対する制裁の成否だけではなく、どれほど多くの国々が制裁に協力するかであることを示唆しています。
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