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【感想文】仮面の告白/三島由紀夫

メノンのパラドクス

著者は本書『仮面の告白』について次の様に書き残している。

私は無益で精巧な一個の逆説だ。この小説はその生理学的証明である。

『仮面の告白』ノートより抜粋

そこで今回は、本書の理解をより深める事を目的として上記の言葉を精査した。その結果は以下の通りである。

[表記上の解釈]

まず、下の句における「生理学的証明」について、これは自身を生物として捉えた時の自らに生じた現象(=生理学的)を小説という形で記録したものである(=証明)。では何を証明したのか。それは「逆説」であり、上の句において著者は自らを「無益で精巧な」と表現し、言い換えると、無駄なものでありながら正確に作られているといった不可解な性質を持ち、そうした自らを逆説だと称する。よって本書は、不可解な私という逆説に生じた現象を記録した書物となる。では左記の「私という逆説」とはどういうことか。

[メノンのパラドクス]

プラトンの著作『メノン』における主題は「アレテー(徳)とは何か?」である。この議論において「アレテーを知らない」と告白したソクラテスに対し、すかさずメノンは次のパラドクス、つまり逆説を提出する──「探求の対象を知らなければ、自分が求めていたものであると知ることもできない。対象を知っているのであればもう探求の必要はない」と。このことから、メノンは知識(knowledge)としての知を求め、ソクラテスは理解(understanding)としての知を求める、という知に対する姿勢の相違が浮き彫りになる。

これを踏まえて以下、本題。

[仮面における同一指定の問題]

本書『仮面の告白』は、生理学的証明と謳っているため、ソクラテス的な「理解」を前提とし、その対象の理解に際しては、原因推論を要しながら対象を知るといった段階を踏まなくてはならない。しかし、それにも関わらず本文中には 「欺瞞ぎまん」および「韜晦とうかい」といった単語を用いたあたかも現実逃避するかのような説明が散見され、自らの異常性(=逆説)という対象を探求するための原因推論を一時中断し、正当化をもって自らを都合良く証明しようとする態度は、正にメノン的である(作品の欠陥だと言いたいのではない)。繰り返すが、メノンのパラドクス──対象を同一指定(identify)できないなら探求は不可能、におけるこうした空虚な営みはそのまま「無益で精巧な一個の逆説」に該当しており、そして著者にとって受け入れがたい事実をペルソナ(社会的仮面)を通じて証明する試みは、彼がペルソナとして語る以上、対象を同一指定することはできず、正当化による主観的判断に陥ることになる。言い換えれば、対象を客観的に捉えるのではなく直感による証明に過ぎず、自らを否認すべきなのか、容認すべきなのか、その存在意義の探求が手探りのまま結末を迎えてしまうのは当然である。自らが抱える情動じょうどうへの違和感は世間に沿う順接ではないという自覚は確かにあるにせよ、それを彼は逆説と称する他に術を持たなかったものと思われる。

[といったことを考えながら]

本稿で紹介した『メノン』はプラトン哲学の中でも入門編として推奨されることもあるが、実際にはやや難解である。そこで、代わりとして紹介したい作品を一つ挙げるとすれば『お信』という小説が非常に読みやすく、かつ、メノンと同等かそれ以上の事柄が論じられているため、まずは『お信』を読んだほうがよい、絶対に。

以上

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