45.強すぎる善。
三次元スピの世界にいたころ。
憧れの女性がいた。
当時の私は目の前の現実が苦しくて、「早くラクになりたい!」「早くここから抜け出したい!」と、スピリチュアルな学びをしており、
その先生が尊敬するTさんだった。
最初に会った時から彼女の人を許容するあり方に魅かれ、講座に通うようになったのだけれど、
今から思うと、その学びで「ラクになりたい」というよりも、「Tさんみたいになりたい!」という思いの方が強かったように思う。
これを自我の構造的観点で説明するならば
「現実を変えたい」という不足を埋める対象としてTさんに期待し、彼女からエネルギーを搾取していたワケだけれど(ごめんねTさん)、その頃の私は必死だった。
「これを学べば先生みたいになれる」
「先生の発言、態度、行動を真似れば彼女のあり方に近づける」
そんな風に思っていた。
けれど。
彼女を崇拝すればするほど苦しくなっていき、一生懸命学べば学ぶほど進歩しない自分に苛立ちをつのらせていった。
当時の私がしていた裏には
Tさんのあり方を絶対的「善」とすることで、
そうなれていない自分を圧倒的「悪」とする自我の構造があった。
強すぎる光が深い闇を作るように、
彼女への憧れが強まるほどに、そうなれない自分をどんどんジャッジする。
絶対的「善」が、圧倒的「悪」を生む。
そんなことが起こっていたのだった。
これは私に限らず、多くの人が陥る自我のワナではないだろうか。
先生と生徒。
師匠と弟子。
メンターとメンティー。
教祖と信者。
それは上下関係が生まれる間柄で起こりうる『善悪』をもとにした自我のワナだ。
救いを求めて学びを始めたのに、その教えや、教えを説く先生が(自我にとっては)「善」すぎて
教え通りにできない自分や、先生のようになれない自分をどんどん「悪」にしていく。
救ってくれるはずの先生が自己ジャッジの源泉になってしまうのだ。
この背景には自我の『自己定義、他者定義』の構造が隠れている。
自己定義と他者定義は対。
他者を「すごい人」と決めつけた途端、「すごくない自分」がそこに現れる。
本質はその逆で。
「ダメな自分」と自己定義させたいがために、
自我は「すごい人を探してくる」。
もちろんここで言う「すごい人」は、「その自我にとっての」だけれど。
これも結局は、
「エネルギーを滞留させる」という最終目的のために行われる自我の上等手口だ(言い方W)。
\ そしてここからがポイントで /
その学びを始めたから苦しくなったワケでなく
「不幸な人生」「望まない現実」を叶えるために、自我がTさんや、学びを利用したということ。
何が言いたいのかというと。
Tさんの「在り方」や、学びの「内容」は何の関係もなく
そのときの自我にとって、「この人(この学び)なら自己ジャッジの源泉にできそうだ!」と判断した対象が
Tさん(学び)だった、というだけの話で。
Tさんが悪かった(選ぶ先生を間違った)ワケでも、学ぶ内容が合っていなかったワケでもないということ。
ここに氣づけないと、
自我は次から次へとその時の不足を埋められる新たなメンターや新たな学びを探してきては、そうなれず、自己ジャッジしてイヤになり、また別の対象を探してくる、という同じことを繰り返す。
結果、さらにエネルギーが固定化されていく、という自我の思うつぼにハマってしまうのだ。
Mr.DXはそれをこんな風に表現していた。
メンターなんていりません。
もしそんな存在がいるなら破壊してください。
『Know-Wing』を知る中で、この状態を重要視する自我さんがいたら
Mr.DXを破壊してください。
強すぎる「善」が生む苦しみ。
その裏にはこんな自我のワナが隠れていたというおはなし🍎🍎🍎
【関連記事】
