主体性の発明――スローターダイク『水晶宮としての世界』より
はじめに
私たちはなぜ、前へ進み続けるのでしょう。もはや新しい土地などないはずなのに既存の何かを更地にして発見したつもりになり、そうしていまなお昔ながらのやり方で資源を開発し、経済成長を追い求めることは、近代社会の基盤となっています。
この背後には「主体性の発明」という決定的な転換がありました。
ペーター・スローターダイクは『水晶宮としての世界』の中で、主体とは自らを訓練し、自己説得の審級を内面化し、行動を促すものであると述べています。今回は、ルネサンス期の探検と投機行動がいかにして主体性を生み出し、それが現在のグローバル化につながる契機となったのかについて書いていきます。
また、現代社会において主体性がどのような変遷を遂げているか、日本においては個人主義がどのような課題に直面しているのかについても掘り下げてみます。特に、西洋における主体性の確立と、日本における母娘関係がどのように作用しているのかを比較しながら、主体性がどのように行動を促し、社会を形成していくかを検討します。
1. 地球は誰のものか――発見と所有の論理
アメリカの首都ワシントンに掲げられたトマス・ジェファーソンの碑文には、こう刻まれているそうです。「われわれは、地球とその恵みは現世代の受益に委ねられていると断言する」と。
「現世代の受益に委ねられる」、まさに持続可能性ということを完全に無視した見方ですよね。スローターダイクは、この言葉が西洋近代が生み出した「地球を拾得物、資源と見なす考え方」を端的に示しているものと見ます。
ヨーロッパが大航海時代を迎えたとき、探検者たちは「発見」の名のもとに新たな土地を自らのものとしました。そして、その正当性をカール・シュミットが『大地のノモス』で述べたように、「発見が賦与しえた法的権原によってのみ」主張しました。つまりは、未踏の地を最初に見つけ、地図に記し、命名することが、その地を所有する論理的根拠となったというのです。
この論理は、単なる物理的な支配の話ではありません。
それは、世界に対してどのような態度を取るのかという主体性の問題と深く結びついています。
ペーター・スローターダイクは『水晶宮としての世界』において、ルネサンス期の探検行動が単なる物欲的衝動ではなく、「理論から行動への移行を可能にする主体性」 を生み出す契機になったことを示します。近代以降のヨーロッパ人は、自らの意志で行動する存在となるために、自制の放棄を可能にする審級を内面化していったのです。

2. 自制の放棄と命令の内面化
「自制の放棄を可能にする審級を内面化する」とはいったい、どういうことでしょう?
スローターダイクはその主体化のプロセスについてこう語ります。
「主体になるということの本当の意味は、演じ手の武装と自己抑制解除とからしか、ある意味ではヒステリー化からしか把握できない」と。
近代的な主体とは、自らの内に「命令者」を設け、それに従うことで自由に行動できるようになった存在です。それまでは神のような超越的審級が規範となり、外部から人びとの行動に制約を課していました。その審級を内面化したのが近代人です。審級の内面化により、外部の命令を受けるのではなく、自らが「自分に命令を下す」ことができる。これにより、人々はためらいを克服し、前へと進む力を得たというのです。
スローターダイクはまた、「近代の主体性の核心に自己への服従という構図が潜んでいる」と指摘しています。主体は、自らを訓練し、自らの行動を正当化するプロセスを内面化することで成立します。これは「自己助言と自己説得の特種な訓練」によって支えられ、その結果、最終的に目指すべきは「自己抑制の解除」であると彼は述べています。
この主体の形成過程は、ルネサンス期の探検や植民地拡張政策と密接に関係しています。特に、当時の探検者たちは、未知の土地に対する恐怖や不確実性を乗り越えるために、「自己説得の審級」を確立し、自らの行動を合理化しました。この合理化は、時に宗教的な正当化と結びつきました。「神の意志」に従い、「未開の地」を文明化するという使命感が、主体化の一環として機能したのです。

3. 『前へ前へ』という心性と起業家的エネルギー
冒険と投機の観点からはとにかく「前へ前へ」という心性が新世界を目指した当時のヨーロッパ人の内面を占めていました。それをもたらしたものは、単なる進歩への意欲ではなく、積極的に未知の領域へ飛び込む行動力でした。この主体性が確立されたことで、人々は危険やリスクを顧みず、新世界に赴く起業家的エネルギーを持つようになったといいます。
先にも述べたように。スローターダイクはこれを「演じ手の武装と自己抑制の解除」と表現し、この心性は時にヒステリー化とも言える状態を生み出したといいます。
このような心性の発展は、単なる冒険的行動だけでなく、経済的な投機の精神とも結びついていきました。大航海時代において、未知の地を開拓する行為は、単なる領土拡張ではなく、巨大な経済的リターンを生む投資でもありました。「新世界」への航海は、富を得るための手段であり、そのために命を賭けることも当然視されるようになったのです。
ひたむきなパイオニアたちは、船上で、皆が同じ一つの志と夢を持つチームが一丸となって、不可能の実現を目指すことを学んだ。19世紀以降、政治的な局面で追求されうるに至った、絶えざる進歩と世の中全体の富の拡大という近代ヨーロッパの指導的理念は、心理史的な観点から見れば、本質的に、航海によるグローバル化時代の初期に由来する、チームで追求する夢のイメージを、国や社会の地平に逆投影したものにほかならない。それらの夢が描く絵図は、航海が掲げる定言命法としての「前進」を、定住生活の状態や条件に逆転移しようとする試みと言える。
この精神は、近代以降の企業経営や産業革命の推進力ともなり、現在のグローバル資本主義にまでつながっています。「リスクを恐れず前進する」という行動様式が、企業のグローバル展開を正当化する論理となり、現代においても「起業家精神」や「イノベーション」として賞賛されているとおりです。そこにおいて主体性が強く求められるのは、当時から続いているものなのでしょうか。
4. イエズス会士と「操り人形」としての主体
近代初期において、最初の主体性を体現したのは16世紀に創設されたイエズス会であったとスローターダイクは述べています。カトリックがプロテスタントに対抗するために編成したこの組織は、単なる宗教団体ではなく、心理技術やメディア戦略を駆使した主体形成の機構 でした。
イエズス会の戦略は、プロテスタントの成功を分析し、それをより強固な形でカトリック側に適用することでした。この過程で、「信仰に基づく行動」という概念が主体性の確立において中心的な役割を果たすようになります。
特に、イエズス会は自制の放棄 に宗教的な価値を見出し、信仰への殉教を単なる服従ではなく、積極的な決断として捉えました。
スローターダイクは、行動が自らの信仰の発露だという人間には、貫徹する力の契機も味方に付くと指摘しています。
この追い越し作戦で、自制の放棄に関して宗教だけが持つ独特の価値が発揮されることになる。行動が自らの信仰の発露だという人間には、貫徹する力の契機も味方に付く。これは誰の目にも明らかだ。そのことが分かってくると、一連の宗教戦争の時代には心理意味論的な軍拡競争が生じ、その過程で宗教はただ単に動機としてだけでなく、武器としても用いられることになる。
これは、主体が内面化された命令に従って行動するという近代的モデルの原型といえます。
また、イエズス会は 「劇場としての信仰」 を強く意識していました。
スローターダイクによれば、彼らは信仰を舞台化し、演劇的な要素を駆使して信念を強固なものにしようとしました。この視点からすると、彼らは「神の意志を体現する操り人形」として振る舞い、徹底的な服従の中で主体を確立していたのです。「私どもは最も近代的な造りで組み立てられた操り人形でございます」という彼らの言葉は、自己抑制の解除と忠誠心の徹底を示しています。
イエズス会士は単なる修道士ではなく、厳格な訓練を受けた組織的な主体 でした。彼らの訓練は、「自己を磔刑に処し、自らを純然たる道具として利用させる」ためのものであり、ここには現代の自己啓発や企業戦略とも通じる「最大限の実行力を確保するためのトレーニング」という発想が見え隠れしています。
さらに、イエズス会のモデルは「徹底的な服従の中で形成される能動的な主体」という矛盾を内包していました。完全なる服従の中に、最高度の行動力を発揮する主体性があったのです。この構造は、近代以降の組織論や政治運動にまで影響を及ぼし、国家形成や経済活動へと応用されていきました。
宗教的情熱を社会的な規律へと転換するイエズス会の手法は、後の企業組織や軍事機構にも影響を与えました。彼らは単なる信仰者ではなく、近代的な主体のプロトタイプ としての役割を果たしたのです。自由意志と服従の二項対立を超え、いかにして「自己抑制の解除」と「統制の内面化」を両立させるかという問いは、現代にも通じる重要な問題であり続けています。

5. 無謬な教皇という心的機能
近代において主体性が形成される過程では、「内なる教皇」とも言える心理的機能が重要な役割を果たしました。スローターダイクによれば、この内なる審級が、人々をためらいから解放し、行動への移行を可能にするのです。この構造は、カトリック的な主体形成の伝統の中で顕著に見られました。
イグナチオ・デ・ロヨラが率いたイエズス会は、トリエント公会議後のカトリック的主体形成において、体操・宗務・軍務・学務の四つのモチーフを統合し、徹底した訓練のもとで主体を作り上げました。これは、ギリシャ人の言う「ポノス(労苦・鍛錬)」の概念と結びつくものであり、身体と精神の自己統制を徹底することで主体を強化しようとするものだったのです。
このような訓練は、自己の受動性を能動的に統制する文化として定着し、やがて近代の主体性文化へと移行しました。スローターダイクは「中世後期の受難信仰が主体性文化の形成に果たす役割はどれほど高く評価しても足りない」と述べています。特に、13世紀に始まった聖体祭や、1215年以降すべてのキリスト教徒に義務付けられた年に一度の告解は、個人の内面への転換を促す強力な装置となりました。
この主体性の核にあるのが、「無謬の教皇」としての審級の働きです。ウィリアム・ジェイムズは、「人は人生の指針となる仮説を打ち立てるとき、まるで『無謬の教皇』のように振る舞う」と指摘しました。この審級は、人々に確信を与え、行動へと駆り立てる役割を果たします。
6. 行動を起こす主体と外部サービスの変遷
行動を起こすことをためらわなくなった主体性は、自己説得の審級を内面化することで確立されていきましたが、それでも完全に自己完結するものではなく、外部の後押し を必要とする局面が多々ありました。この外部の後押しとして機能したのが、1968年以前までは「イデオローグ」、それ以降の「コンサルタント」になります。そして1980年代以降に「エンターテイナー」や「クリエイター」が果たした役割です。これは私自身、その類の仕事をしているので実感があります。ただし、日本の場合、あとでも書くように西洋ほど主体性も個人主義も確立しきっていないので、後押し以上のものでもありますが。
1968年以前、主体の行動を後押しするのはイデオローグの役割でした。歴史の法則を根拠とし、革命的な変化 を導くために個人や集団を説得する存在でした。殲滅すべき敵がいた時代です。正しく殲滅すべき理由が必要でした。その根拠となったのが歴史の非情性でした。しかし、1968年の文化変容の中で、歴史そのものが固定的なものとして語られることが難しくなり、イデオローグの影響力は低下しました。
代わって登場したのが、コンサルタントです。コンサルタントは、主体に対して具体的な成功の指針を提供し、行動へ移行する際のリスクを最小化する役割を担いました。この移行は、競争社会の中で「殲滅すべき敵はいないが、勝ち抜く必要がある」という状況に対応したものです。勝ち抜くための効率的、効果的な手段を選んでいるという根拠を提示するのが役割です。
さらに1980年代以降、「おもろい」や「楽しさ」という概念がコンサルタントに代わって主体を動かす力を持つようになりました。エンターテイナーやクリエイターが、個人を説得する新たな手法として「楽しさ」や「魅力」を武器に主体の行動を促します。ワクワクですよね。これがポストモダンの価値観と結びつきました。これもなんとなく実感あります。もはや正しさも効率効果もどうでもよく、とにかく「前へ前へ」というワクワクさえあれば良くなっているのでしょう。敵も競争相手も意識されなくなりましたが、影響を受ける外部がいなくなったわけではありません。ワクワクのために犠牲になる排除された者たちがいることを「おもろい」は完全に見えなくしてしまっているという点ではこれまで以上の罪深さを感じます。
7. 日本における個人主義と母娘問題
さて、西洋において個人主義は確立された形で機能していますが、先にも書いたように日本においてはこのプロセスが不完全な形で進行しています。その一例として、すこし前に三宅香帆さんの『娘が母を殺すには?』を取り上げて紹介した母娘関係における主体性の問題があります。
日本社会では、個人の行動の審級が外部に残り続ける傾向があります。特に母娘関係では、母の規範に従うことに苦しむ娘 という構図が顕著に現れます。これは、個人主義が確立しきれない日本特有の状況に由来しています。
三宅さんは『娘が母を殺すには?』において、この状況を「母の呪縛」として詳述しています。
「娘」たちは、幼少期から母によって『それは世間が、ゆるさない』『そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ』と、呪文のように唱えられる。経済的に自立しても、結婚して姓が変わっても、母の介護を担当するような年齢になっても、繰り返し、繰り返し。そして、その呪文は、『母』から『娘』に受け継がれていく。
このように、母は世間の規範を体現する存在となり、それが娘の生き方を制限する要因となるのです。
母の価値観が強く内面化されながらも、それが「外部のもの」として意識されることで、主体が完全に自立することが難しくなっています。これは、スローターダイクが指摘する「内面化された命令者」が確立されないまま、外部からの影響を強く受け続ける状態に似ています。
三宅さんはまた、娘が母の規範を内面化する過程についても指摘しています。
娘の欲望が、母の与えた『規範』から逸脱するとき――娘が自らの欲望を満たそうと行動を起こすとき、母の許しが必要になる。しかし母は往々にして、娘の『規範』からの逸脱を許さない。このプロセスを繰り返すうちに、やがて娘は母の規範の範囲内でのみ、欲望するようになる。
この状況は、日本社会における個人主義と集団主義の対立を示しており、個人が完全に自己の審級を確立することが難しい背景として機能しています。母の期待に応えることで承認を得る構造が、主体性の確立を妨げる要因になっているのです。
さらに、日本社会における「母娘密着」の構造についても次のように述べています。
日本のジェンダーギャップは、『娘』を親と対等の存在としてまなざす。そうした期待の視線のもとで、娘は親をケアする役割を担う。そしていつのまにか、『母』をケアする娘が誕生する。母娘密着は、こうして永遠になる。
このように、日本における母娘関係の密着は、主体性の確立を妨げる要因の一つとなっているのです。では、この密室構造から脱する方法はあるのでしょうか。三宅は「母殺し」の困難さについても指摘しながら、その可能性についても考察を続けています。
8. 主体性と植民地主義の現在
日本社会における主体性のあり方を見てきたうえで、次にそれがグローバルな文脈でどのように作用するのかを考察してみましょう。主体性の確立が生み出す行動と、植民地主義や現代のグローバル資本主義の関係についてはどうなっているのでしょうか。
先にも示した通り、カール・シュミットが述べた「発見を権原とすることによる支配の正当化」は、ヨーロッパの植民地主義の基盤となりました。近代において、主体性を持つ者が「未開」とされた地域に進出し、それを「発展」の名のもとに管理するという流れが正当化されてきました。これは、探検や発見が単なる地理的な移動ではなく、政治的・経済的な支配と密接に結びついていたことを示しています。
この構造は、現代のグローバル資本主義の中でも依然として機能しています。グローバルサウスにおける開発や資源の搾取は、「発見」を口実とする支配の新たな形態として現れています。主体性が確立された者が、新たな市場や投資機会を発見し、それを「成長」や「支援」という名のもとに管理しようとする。この構造は、植民地主義のロジックを継承しながら、新たな経済体制の中で展開されています。
現在のラテンアメリカの視点では、この特徴は”コロニアリティ"と呼ばれる。その中心的な特徴は、差異の分類と階層的な区別であり、近代の形態に適合しない知識や存在の形態を支配的に抑圧し、切り捨て、従属させ、さらには破壊することである。さらにコロニアリティは、性別の観点から分類された人間/文明(西洋)世界と、非人間/未開(非近代、肌の色が暗いとされる諸民族ー動物と同じように生物学的な性別で説明される存在)といった二分法を強固にした。
日本の主体性のあり方は、このグローバルな力関係において微妙な位置にあります。日本は、西洋の近代化を模倣しながら独自の発展を遂げましたが、その過程で「西洋的な主体性」をそのまま内在化することなく、部分的に採用する形をとったからです。そのため、日本がグローバルサウスに対して行う開発支援や投資も、西洋的なモデルを踏襲しつつ、その内実は曖昧なものになりがちです。
例えば、日本の国際開発援助(ODA)や企業の海外進出において、「現地の主体を尊重する」としながらも、実際には日本の技術やシステムを一方的に導入するケースが少なくありません。これは、西洋の植民地主義的な開発の構造を踏襲しながら、日本独自の経済的利益と結びついている点で特徴的です。
主体性がどのように確立され、どのように行動へと移行するのかを問うことは、現代のグローバルな力関係を考察する上でも重要になってきています。主体としての行動がどのように他者へ影響を与えるのかを問うことで、単なる経済的発展を超えた倫理的な次元をも含む議論が可能となります。
日本社会における母娘関係と同様に、グローバルな関係性においても、「支援する側と支援される側」の構造が固定化されていることが問題視されるべきでしょう。「母の呪縛」と同じように、日本がグローバルサウスに対してどのような関係を構築するのかは、主体性の確立と関係性のあり方を再考する上で欠かせない課題です。
終わりに
主体性の確立は、歴史を通じて様々な形で変化し、現在のグローバル社会にまで影響を与えています。近代ヨーロッパでは、主体性は探検や宗教的服従の形をとりながら、やがて個人主義の根幹へと発展しました。
しかし、日本においては、西洋型の個人主義とは異なる形で主体性が発展しており、外部の審級への依存が強く残っています。特に、母娘関係のような親密な関係の中で、主体性の確立が妨げられ、個人が独立して行動を決定するプロセスが制限される傾向にあります。同調圧力といわれるものも、日本独特の審級のかたちでしょう。
また、グローバルな資本主義の中で、植民地主義の論理が現在もなお生き続けています。主体性を確立した者が、新たなフロンティアを発見し、それを発展の名のもとに管理するという流れは、歴史的な植民地主義と地続きの構造を持っています。
開発の言説によってリアリティが支配されてしまい、その状況に不満を持つ人々が、別のリアリティを構築しようとするプロセスに望みを託しつつも、非常に限定的な範囲でしかそれを望めず、細々とした自由を求めてあがいているという構図である。
このあたり、こんなエスコバルの議論なども含めて引き続き考えてみたいと思っています。
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