GWの読書におすすめの6冊
もうすぐゴールデンウイーク。みなさん、読書計画はできてますか?
この時期って余裕があるので、これまで読んでこなかった本にも向き合いやすいのかなと思っています。
昨年、僕はジュディス・バトラーの『この世界はどんな世界か?』との出会いがありました。それをきっかけに「ケア」のことをすごく考えることができた1年でした。
今年はどんな本当の出会いになるんだろう?
みなさんの出会いのきっかけにでもなればと思い、ここ最近僕が読んだ本のなかからおすすめの6冊を紹介します。
水晶宮としての世界/ペーター・スローターダイク
ペーター・スローターダイクの『水晶宮としての世界』は、近代以降のグローバル化、特に資本主義によって変容した世界を「水晶宮」という印象的なメタファーを用いて論じる一冊です。本書は、かつて形而上学や宇宙論が与えていた「外部」の支えが失われ、人間が自ら構築した巨大な内部空間へと回帰する「居住人(ホモ・ハビタンス)」となった大きな転換を描き出します。本書でこの変化は、before/afterの2部構成で論じられ、外部を持っていた時代の自由さと、外部を失った現代の閉塞感という対比が際立ちます。
「水晶宮」と名指されたこの内部空間は、技術と資本の力で地球全体を覆う「資本の世界内部空間」として現れます。そこでは距離が克服され、あらゆるものがアクセス可能で消費の対象となり、普遍的な快適さと接続性が提供されます。しかしその反面、外部性や他者性、ローカルな固有価値が失われ、経験が均質化されるという問題もはらんでいます。ある意味、それはドゥボールの「スペクタクルの社会」の話とも重なります。さらに、この「宮殿」の恩恵は一部に限られ、構造的な格差と排除が存在することも鋭く指摘されています。これは、後半で論じる「ケア」の文脈における一元的な家父長制、健常者主義につながる閉塞感の源です。
本書は、この巨大な内部空間の成立過程と、その中で生きる私たちの経験や認識の変化を深く考察しています。
グローバル化による「世界内部空間」の創出と変容:
近代以降、特にグローバル資本主義下で世界は外部を失い、全てが内部化・接続・消費可能となった「資本の世界内部空間」(水晶宮)へ変容しました。快適さと引き換えに経験は均質化する傾向にあります。近代的主体の形成とその両義性:
伝統的支えを失った近代人は自己に回帰する「居住人」となり、自己管理等を通じて主体性を能動的に形成しますが、その内面は予測不可能性やエゴイズムといった両義性を本質的に抱えています。「発見」と拡張の論理によるグローバル化の起源:
大航海時代の「発見」は単なる地理認識ではなく、命名・地図化・領有宣言を通じた支配権確立(大地のノモス)のプロセスであり、グローバル化の起源となりました。空間・場所概念の変容とローカル/グローバルの緊張:
技術による空間の均質化は、「場所なき自己」(ディアスポラ等)と「自己なき場所」(トランジット空間等)を増加させます。グローバル化の中で失われがちなローカルなものの固有性(延長、免疫、排他性等)の重要性が強調されます。普遍主義への批判と排除の現実:
「水晶宮」の普遍的快適さは一部の享受者に限られ、構造的格差と排除が存在すると批判されます。普遍的理念(人権等)と物質的基盤の偏在との矛盾を指摘し、相互接続性の増大と共に「責任」の重要性が増すことを示唆しています。
この本に関しては、読んでいる途中に以下のような記事も投稿しているので、興味がある方はあわせてお読みください。
ガイアに向き合う/ブルーノ・ラトゥール
本書は、現代社会が直面するエコロジー危機を、単なる「環境問題」としてではなく、近代が基礎としてきた「自然」と「文化(人間社会)」を分離する思考様式そのものの破綻として捉え直します。ブルーノ・ラトゥールは、この危機的状況を理解し対処するため「ガイア」という概念を導入し、新たな思考様式と政治的な実践を提案しています。
私たちは気候変動のような危機を、どこか遠い「自然」の問題として捉えがちですが、もはや「自然」は人間活動から独立した安定した背景ではありません。人間を含む多様な存在(微生物、河川、大気など)が複雑に相互作用し変化し続けるダイナミックなプロセスそのものであり、ラトゥールはこの領域を「ガイア」と呼びます。私たちはこの「ガイア」の一部であると認識する必要があるのです。
近代は、客観的で受動的な「自然」を科学が、理性的で能動的な「文化(人間社会)」を政治が扱うという役割分担を前提としてきました。しかしエコロジー危機はこの前提を覆します。「自然」は人間活動に敏感に反応し、逆に私たちの生活様式を規定する能動的な力として現れ、もはや政治的な対立から中立ではいられず、それ自体が政治的な争いの対象となるのです。
この状況をラトゥールは、従来の国民国家や国際機関の枠組みでは対応できない、地球という限られた存在基盤をめぐる新たな「戦争状態」と見なします。この対立においては、誰が、あるいは何が(生態系なども含め)正当な利害関係者なのか、どのように共存していくのかが根本的に問われます。解決には、地球を上から客観的に眺める抽象的な「グローブ」の視点ではなく、私たちが具体的に依存し相互作用する「テレストリアル(地上的なもの)」に根差した視点が求められます。
結論として本書は、近代的な自然観から脱却し、人間と非人間を含む多様なエージェントが織りなす「ガイア」の現実に着目し、その複雑な利害関係を調整して共生を探るための新しい「政治」を構想し実践することが、危機を乗り越える鍵であると主張します。
近代的な「自然/文化」二元論の終焉:
エコロジー危機は、人間社会から切り離された客観的で安定した「自然」という概念の虚構性を暴き、私たちがもはや近代的な世界観の中に生きていないことを示しています。環境問題は遠い「自然」の問題ではなく、私たちの生存基盤そのものに関わる根源的な大変動です。普遍的な「自然」から、相互作用する「ガイア」へ:
中立的で普遍的な法則に支配される「自然」という概念は、むしろ政治的・道徳的な論争を引き起こすものであり、現代の危機に対処する上では機能しません。それに代わり、人間と非人間(微生物、河川、大気など)を含む多様なエージェントが相互に影響を与え合い、自己調整的に(ただし目的論的ではなく)振る舞う複雑なシステムとしての「ガイア」を認識する必要があります。人間と非人間のエージェンシー(行為能力)の承認:
人間だけが世界を変える主体なのではなく、河川、ウイルス、大気、土壌といった非人間もまた、環境を形成し、他の存在に影響を与える能動的な「エージェンシー」を持ちます。私たちは、これらの多様なエージェントが相互作用し変容しあう「変容領域 (metamorphic zone)」に生きているのです。エコロジー問題の本質は「政治(戦争状態)」である:
エコロジー問題は、単一の科学的真実や普遍的な理性によって解決される技術的問題ではなく、地球という限られたテリトリーと資源をめぐる、多様な利害関係者(人間/非人間を含む)間の根本的な対立であり、新たな「政治」の問題(シュミット的な意味での「敵/味方」の区別を含む「戦争状態」)として捉え直さなければならないとラトゥールは指摘しています。「グローブ」から「テレストリアル」へ、新たな政治的共同性の模索:
地球を外から客観的に眺める抽象的な「グローブ」という視点を放棄し、私たちが具体的に依存し、相互作用する地上的な存在としての「テレストリアル」に立ち返る必要があります。これは、国民国家という近代的な枠組みを超え、特定の場所や利害(水、土壌、生態系など)を共有する人間と非人間からなる新たな政治的主体(アクターネットワーク)を構想し、外交や交渉を通じて共存の道を探ることを要求します。
家の哲学/エマヌエーレ・コッチャ
エマヌエーレ・コッチャの『家の哲学』は、伝統的に都市を中心に思考してきた哲学を批判し、人間存在の根源的な基盤としての「家」に光を当てる試みです。本書において家は、単なる物理的なシェルターとしてではなく、物、人、情動が混ざり合い、「ケア」という関係性が生まれる「道徳的な実在」として捉え直されます。私たちが家に住まうこと、すなわち「家づくり(家化)」は、人間が世界に適応すると同時に、世界を自身の延長として飼いならしていく相互的な変容プロセスであり、その中で「わたし」という主体は周囲の環境や他者との関係性の中に拡張されていきます。
しかし、近代的な家が人間中心主義に基づき、人間とノンヒューマン(他の生物種)を分離し、生物多様性を排除する装置として機能してきた側面も指摘されます。まさにこれは後で扱う障害者と家畜の話に通じます。
またコッチャは家づくりを書くことに喩え、どちらも日常を超えたヴィジョンを生み出し、他者の生を取り込み世界を変容させる試みであると論じ、固定的な所有物ではない、より流動的で精神的な家、そして他者や他種との新たな共生の可能性を問いかけています。
都市中心主義哲学への批判と「家」の復権:
従来の哲学は都市空間を特権視し、人間が実際に居住し生を営む根源的な場所である「家」を忘却してきました。しかし、人間が世界に住まうのは常に家においてであり、家こそが幸福や存在の基盤となります。家=純粋な道徳的実在:
家は単なる物理的空間ではなく、物、人、情報、他者が混ざり合い、「ケア」という関係性が生まれる最小単位としての道徳的秩序です。幸福とは、家において物や人が一時的に心理的・精神的な親密性へと取り込まれる調和状態を指すとコッチャは言います。家づくり(家化)=自己と世界の相互変容:
家に住まうことは、人間が環境に適応するために自身を飼いならし、同時に、世界(物や他者)を自身の延長のように飼いならす、長期にわたる相互的な変容プロセス(家化)です。家は拡張された「わたし」であり、主体と世界の境界が曖昧になる場でもあります。近代的な家とノンヒューマンの分離:
近代以降の家は、人間中心主義に基づき、人間とノンヒューマン(他の生物種)とをラディカルに分離し、生物多様性を排除する装置として機能してきました。家は、他種との共生を不可能にし、「戦争」状態を表現する空間となっています。後で論じるスナウラ・テイラーの議論にも通じます。家と書くことのアナロジー(生の拡張とヴィジョン):
家を欲することと書くことを欲することは、日常的な経験や知覚だけでは不十分であり、現実から新たな「ヴィジョン」を創造し、他者の生を取り込み、世界を変容させたいという欲求において共通します。どちらも、生が自己を拡張し、身体や場所、時間を超えて移動するための策略です。
国家をもたぬよう社会は努めてきた/ピエール・クラストル
ピエール・クラストルの『国家をもたぬよう社会は努めてきた』は、一般に「未開社会」とされてきた社会が単に発展段階の低い「未熟」な存在であるという従来の考え方を根本から覆します。クラストルは、これらの社会が国家を持たないのは偶然や能力不足ではなく、むしろ積極的に国家という権力形態の出現を拒絶し、阻止しようと社会的な仕組みを駆使してきた「国家に抗する社会」であると主張します。その核心には、社会が支配者と被支配者に分裂することを防ぐ知恵があります。例えば、首長は尊敬され重要な役割を担いますが、命令・強制する「政治権力」は意図的に与えられません。また、国家の起源についても、経済的な格差から国家が生まれるのではなく、まず政治的な権力の分裂(命令する者/服従する者)が先に起こり、それが経済的搾取を生むと考えました。未開社会は、権力なき首長制、統合を阻む戦争、小規模な構造、非蓄積的な経済といった多様なメカニズムを用い、社会から分離した強制権力=国家の誕生に積極的に抗っている、というのが本書の中心的な論点です。
未開社会は「国家なき社会」ではなく「国家に抗する社会」:
これらの社会は発展が遅れている(未熟)のではなく、国家という強制権力が生まれることを積極的に拒み、それを阻止する仕組みを持つ社会です。「国家がない」のではなく「国家に抗う」意志を持つと捉えるべきです。未開社会の首長は「威信」を持ちますが、「権力」は持たない:
首長は尊敬され集団を代表しますが、メンバーに命令・服従させる強制的な「権力」は持ちません。支配者と被支配者への分裂を防ぐため、権力は意図的に首長から分離されています。国家(政治権力)の誕生は、経済的な階級分裂よりも先に起こる:
経済的な富の差から国家が生まれる(マルクス主義)のではなく、まず命令/服従という政治的な分裂(国家の萌芽)が先に発生し、その権力者が労働を強制することで経済的搾取が生まれるとクラストルは考えました。未開社会における戦争は、国家の形成を阻止する重要なメカニズム:
共同体間の絶えざる戦争や敵対関係は、各共同体の自律性を維持し、それらを統合する単一の大きな権力(国家=〈一なるもの〉)の出現を防ぐ効果を持ちます。戦争は社会の多元性を保つ装置なのです。未開社会は、国家を生み出さないための様々な社会的装置(メカニズム)を持っている:
権力なき首長制や戦争に加え、社会規範の共有、意図的に小さく保たれる社会規模、蓄積を目的としない経済活動など、様々な仕組みが複合的に作用し、権力の集中と国家の誕生を抑制しています。
荷を引く獣たち/スナウラ・テイラー
本書は、障害を持つ著者自身の経験を基点に、動物の権利や環境問題と接続し、「健常者中心主義」と「人間中心主義(種差別主義)」がいかに根深く連関しているかを論証します。
健常者中心主義は、障害者を社会的に不可視化し抑圧するだけでなく、「正常」な身体規範を押し付けるイデオロギーです。歴史的に、障害者や特定のマイノリティは「動物のようだ」と貶められ、この「動物化」を通じて人間以下の存在として搾取や暴力の対象とされてきました。また、現代の産業化された畜産では、利益のために動物が意図的に「障害化」され、そこで働く人々や地域環境も犠牲になっています。これは、生産性や効率を至上とする健常者中心主義の論理が、人間以外の存在や環境にも適用されていることを示しています。
著者は、特定の能力を基準とする功利主義的な動物解放論に疑問を呈し、ケアの倫理や、本来的な相互依存関係の重要性を強調します。最終的に、ヴィーガニズムを単なる食生活の選択ではなく、健常者中心主義と種差別主義に抵抗する身体化された政治的・倫理的実践として捉え直し、障害解放と動物解放は切り離せない問題であると訴えます。
健常者中心主義と種差別主義の共犯関係:
人間の間で「正常/異常」を線引きする健常者中心主義の論理が、人間と動物を区別し、動物の搾取を正当化し、逆に動物との比較で人間(特に障害者等)を貶めるために利用されてきた歴史と構造を論じます。「依存」の再定義と相互依存の可能性:
「自立」を称揚し「依存」を否定的に見る社会に対し、依存は本来的な状態であり、問題はそれを負担と見なす社会構造や権力関係にあると指摘します。相互依存の認識から、新たな社会関係を考察します。「動物化」という抑圧のメカニズム:
特定の人間集団を「動物のよう」と貶める「動物化」が、なぜ、どのようにして抑圧の道具として機能するのか、そしてそれが現代の様々な差別(ヘイトスピーチ等)にどう繋がっているかを考察します。産業システムが生み出す「障害」と搾取の連鎖:
工場式畜産等の産業システムが利益追求のため、動物・人間・環境の脆弱性を利用し、「障害」を生産しながら搾取の連鎖を生み出している構造的な問題を議論します。能力主義批判とケアの倫理:
特定の能力(理性等)を基準に生命の価値を判断する倫理観に疑問を呈し、障害を持つ経験からの知見やケアの倫理、共感的配慮の重要性を問いかけます。多様な存在を包摂する倫理的枠組みを探ります。
近代家族とフェミニズム/落合恵美子
落合恵美子氏の『近代家族とフェミニズム』は、私たちが当たり前のように考えている「近代家族」のあり方が、決して普遍的・自然的なものではなく、歴史の中で社会的に構築されてきたものであることを、歴史社会学とフェミニズムの視点から解き明かした本。現代的な「子ども観」や「母性」、あるいは「家事」や「性別分業」といった近代家族を特徴づける要素が、市場経済の発展や近代国家の形成といった社会の変化と密接に関わりながら生成されてきた過程が明らかにされます。家族は社会から独立した私的な安息所などではなく、むしろ市場や国家と相互に影響しあい、規定しあう関係の中で形作られてきた、近代システムを構成する重要な一部であると論じられています。
近代家族は歴史的な発明品:
当然視される「子ども時代」や無垢な子ども像、「母性愛」「父性愛」などは普遍的ではなく、近代西欧において主に中産階級が創り出した歴史的な産物です。家事や主婦も近代に生成:
現代的な「家事」は、産業化による家庭と仕事場の分離、性別分業、衛生観念の高まりと共に生成されました。当初の使用人衰退後に「主婦」が担い手となりました。近代は家族・市場・国家の三位一体システム:
近代社会は、私的な「家族」と公的な「市場」「国家」が相互補完するシステムです。家族は孤立した避難所ではなく、国家の法制度等に支えられ、管理される近代システムの一部なのです。近代化は女性の社会関係を変化させ、家庭への囲い込みを進めた:
近代化は女性たちの伝統的な情報交換ネットワークを縮小させ、男性中心の公共領域に対し女性の活動を家庭内に限定しました。出産場所の変化なども家庭への囲い込みを完成させました。日本の「家」は単純な近代の発明ではなく、歴史的変遷の中で近代家族と結びついた:
日本の「家」制度は明治政府の発明という側面だけでなく、歴史的な広まりも持ちます。戦後の理想的「大家族」像は、この「家」と近代的な「愛情」中心の家族観が融合したものです。生命観等も変化しました。
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