目的からこぼれ落ちる声──沈黙とケアのための倫理へ
前回に続き、アガンベンの『アウシュヴィッツの残りもの』を題材とした思考の展開を。
今日は「ケア」という視点における社会の分断について。これをアガンベンのいう「目的(テロル)」の観点から紐解いていきたい。
分断される社会と「目的」の暴力
わたしたちの社会は、目的を持つことを前提に設計されている。効率、成果、役割、キャリア、ゴール――それらは一見すると自己実現のための希望の言葉として響くが、同時に「目的を持たない者」に対する排除と無視を伴う。高齢者、障がい者、子ども、ケアを必要とする者、あるいはケアを提供しているにもかかわらず評価されない者たち。こうした人々は、成果を生まないという理由で周縁化され、「社会の外」に追いやられている。
昨年の夏頃に行ったプロジェクト(と、これに続くプロジェクト)では、まさにこのような「目的至上主義」が制度や空間設計のレベルで浸透している現実が明らかになった。
ジェンダー役割に基づく家庭内外の役割分担、都市空間の設計、育児支援制度の構造、そして団地や郊外における孤立化。すべてが「生産すること」「達成すること」を前提に構築されているために生じる課題ではないか? それがプロジェクトを経て得た仮説だった。
その中で、「目的を持たない」ことが許される空間──無為でありながら存在を保障される空間──の希少性と重要性が、逆説的に浮かび上がってきた。
「目的を持つ」ことの暴力性
私たちは日々、何らかの「目的」を要求されて生きている。どんな学校に行くのか、どんな職業に就くのか、どんな成果を上げるのか。目的をもたない行為は無意味とされ、目的を見出せない生き方は「迷い」と見なされる。だが、この目的論的思考は本当に中立なのだろうか。
アガンベンが示すように、「目的に従って生きること」が倫理的な自律性と結びつけられるとき、それはしばしば排除の根拠にもなる。特に、語ることができない者、生産性を示せない者、自律できないと見なされる者たちは、「語りの枠外」へと追いやられ、「残りもの(resto)」として、制度の可視性の外に置かれる。
根拠とは、ここでは目的の関数であって、目的とは人間の到達点もしくは根拠、非人間の人間への生成の到達点もしくは根拠のことなのである。徹底的に問題視しなければならないのは、この考え方である。主体化と脱主体化のプロセス、生物学的な生を生きている存在が言葉を話す存在となることと言葉を話す存在が生物学的な生を生きている存在となること――もっと一般的にいえば歴史のプロセス――を、黙示的なものであれ、世俗的なものであれ、テロスをもったものと見なしてはならない。生物学的な生を生きている存在と言葉を話す存在、非人間と人間があるいは一般的に歴史のプロセスの両端が、あるひとつの到達され完成された人間性のうちで溶接され、実現された同一性のうちで合成されるような、そのようなテロスをもったものと見なしてはならないのである。といっても、目的を欠いているからといって、それらのプロセスは、果てしのない幻滅や漂流という無分別さ、あるいはむなしさを宣告されるわけではない。それらのプロセスは目的(fine)をもたないが、残りのもの(resto)をもっている。
ここで岡野八代の『ケアの倫理』が明示する家父長制の構造は示唆的である。
家父長制とは、家族形態を表す概念であり、家族を構成する者たちのなかで、男女であれば男、男のなかでも年齢の長じた者が独裁的な支配権をもっている集団として制度化された家族形態を意 味していた。そこにおける家族familiaは、現在わたしたちが連想するような愛情や情緒によって結びついた親密な人間関係とは異なっており、古代ローマ時代に典型的だったように、家長に属する家内奴隷、つまり財産の総体を指した言葉であった。
家父長制とは、単なる家族制度ではなく、「目的=秩序」を家長が一元的に掌握する、支配の倫理である。古代ローマの familia は、情緒的な共同体ではなく、財産管理の単位であり、奴隷を含む家内のすべてを「目的化」する場であった。そしてこのオイコノミア的な支配のモデルは、国家にも移植され、「政治経済」というかたちで現代にまで制度化されている。
つまり、「目的を持つ」ということは、その「目的」に貢献しない者を不可視化することであり、家父長的秩序の枠外に生きるものたちの沈黙を前提として成り立っているのである。
「生き残らせる」生政治と語りえぬ者
アガンベンが論じる「生き残らせる(far vivere)」という統治の形式は、死なせるでも、生かすでもない。むしろ、生を最小限に管理し、ただ持続させる。そこには「目的なき生」の許容ではなく、「目的から排除された生」の投棄がある。アウシュヴィッツにおけるムスリム──言語を失い、人間としての証言主体性をもはやもたない者──こそが、その象徴である。
だが、アガンベンはその沈黙の中にこそ、「証言」の根源を見出す。語れないという極限の不可能性においてなお、関係が可能であるという事実。つまり証言とは、語る力をもつ者が真実を語ることではなく、語ることができない者と共にいること、語れなさを保存することなのだ。
この構造は、現代社会においても持続している。評価に値しない行為、制度にとって意味をもたない存在は、相変わらず「残りもの」として周縁化される。アガンベンの思想は、単に過去の極限的な例ではなく、現代の生政治が人間をどのように分配し、切り捨てているかを告発するものである。
ケアは目的を持たない──にもかかわらず不可欠な営み
ジョアン・C・トロントは『ケアリング・デモクラシー』において、「ケア」という行為がいかに民主主義の根幹に関わるかを説いている。ケアとは、明確なゴールをもたない営みであり、その成否は一義的に判断できない。さらに、ケアは不平等で、個別的で、多元的である。だからこそ、それは目的論的な社会システムのなかで軽視され、私的なものとされてきた。
民主的なケアの特徴は、平等が、それらとはまったく異なる基盤に依拠していることを前提としている点にある。すなわち、その平等は、ケアの受け手であるという点において、私たちは民主的市民として平等である、と。「みながケアの受け手である」という点において、市民のケアニーズと、彼/彼女たちのニーズを満たしてくれる他者への相互的な依存が、平等の根拠になる。(中略)こうしたニーズは、ある時点において個々人のあいだで違いがあるというだけでなく、それぞれの個々人や社会集団にとっても、時とともに変化する。人びとは、乳幼児期や、病弱なとき、あるいは歳をとり衰弱するとき、より多くのニーズがあるだろう。それでも、この二ーズがあるという性質は、すべての人間に平等に共有されている。
たとえば、育児や介護、家事労働、感情労働といったケアの実践は、しばしば「評価されない労働」として不可視化されてきた。これは家父長制的社会構造の直接的な帰結であり、岡野が示すように、ケアの担い手(多くは女性)が政治的主体としての関係性を持ちにくくされていることとも重なる。
トロントは、「すべての人がケアの受け手である」という視点から、新しい平等の形を提案する。それは、自律的に目的を持ち得るかではなく、誰もが時に依存し、ケアを必要とする存在であるということに基づく平等だ。ここには、「目的を持たない空間」にこそ民主主義の核心があるという逆説が浮かび上がる。
ラトゥールの「分水嶺」とナチスの構造的再演
ブリュノ・ラトゥールが『地球に降り立つ』で提示した「二つの分水嶺」──加速的に未来を目指す近代の流れと、地球への着地を模索する反近代の流れ──はいずれも、「誰を内に、誰を外に置くか」という分配の問題を孕んでいる。
ここで注目すべきは、外に追いやられたものとの関係性を回復することなしに、「着地」など不可能だというラトゥールの指摘である。特に近代的思考が前提とする普遍性や合理性は、岡野やトロントが批判する「家父長的/男性中心的な理性」と通底している。さらに言えば、ナチスの優生思想や官僚的殺人もまた、「内」と「外」を分け、外部の生を「目的にかなわぬもの」として切り捨てる思考に基づいていた。
アウシュヴィッツは歴史的に特殊な事例ではなく、「合理的で目的的で効率的であること」に価値が集中したとき、社会がいかにして制度的暴力を正当化できるかの極限例なのである。そしてその原型は、家父長制における「家政=オイコノミア」であり、「政治=経済」なのである。
「目的をもたない場所」は沈黙と共感の政治空間
冒頭のプロジェクトのレポートで描いた「目的をもたない場所」は、こうした構造に抗うひとつの希望である。それは、ケアがケアとして、成果ではなく応答として尊重される空間である。そこでは、語れなさが無視されるのではなく、共に保持され、沈黙することが行為となる。
アガンベン的に言えば、証言とは、「語れないことに耐える空間」をつくることである。トロント的に言えば、それは「誰もがケアを必要とする」という前提に立ち、ケアを個別的に分かち合う空間である。岡野的に言えば、それは家父長的な支配構造から解き放たれ、政治への直接的な関係性を回復する場でもある。
つまり、「目的をもたないこと」は無意味ではなく、むしろ新たな倫理と政治の条件なのである。
結語──「残りものたち」とともにあるということ
私たちはいま、成果や合理性、普遍的な目的に還元できない他者との関係性をどう捉えるかを問われている。それは、ケアの実践であり、証言の倫理であり、そして分断の構造を超える政治の回復でもある。
誰もみなの中にある――そう、平等にある――「残りもの」としての人間存在に寄り添うこと、それは語ることができない沈黙を破るのではなく、その沈黙を共に聴くということ。目的なき時間、評価されない関係、語れなさのなかで交わされるケア。そうした場所にこそ、わたしたちが本当に「共に生きている」と言える空間が生まれるのではないか。
今こそ、語りえぬものと共にある勇気と、目的を超えて居ることを許す社会の想像力が問われている。
このとき、目的を持たない空間は、弱さや沈黙、失敗、あるいは語れなさが共有されうる「共居」の空間となる。それはまさに、アガンベンが証言に託した「語れないものを、語れないままに引き受ける」行為と共鳴する。
いいなと思ったら応援しよう!
基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。