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語りえぬ者としての人間──アガンベンとAI時代の証言

アガンベンの本は何冊も読んできたが、「ホモ・サケル」シリーズの1冊であり、230ページほどの彼にしては比較的小編ともいえる『アウシュヴィッツの残りもの』は、いつも気になるところには線をひきながら読む僕からすると、ほぼすべてに線をひきたくなるような一冊だった。

だから、この本を紹介しようとすると、ほぼ全文を紹介したくなる。とうぜん、そんなことはできないので、考えたことに照らし合わせつつ、いくつかに分けて紹介してみたい。
まずはアガンベンのいう言語的人間と生身の人間という対比を、AIと人間の関係に重ね合わせて考えられるのではないかと思った点から。


はじめに|「作る」ことの終焉とAI時代の人間像

私たちは、AIが「創造する」能力において人間を凌駕する時代に突入している。言葉を編み、画像を描き、音楽を構成する――こうした営みは、長らく人間固有の行為とされてきたが、それらの多くが、すでにAIによって精密かつ高速に代替されつつある。では、人間はもはや「作る」必要のない存在になったのだろうか? もしそうであるなら、人間はいかにしてこの時代を生きるのか。

この問いに対して、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンが提示した「言語」と「証言」に関する人間論は、深い視座を与えてくれる。なかでも彼の主著のひとつ『アウシュヴィッツの残りのもの(Quel che resta di Auschwitz, 1998)』は、極限状況における人間性の喪失とその「残りもの」について徹底的に思考した試みである。

アガンベンは、収容所においてもはや語ることすらできない存在、「回教徒(muselmann)」を取り上げ、彼らを語り得ぬことそのものの証人として位置づける。ここで問題となるのは、「語ることができない者が、どのようにして証言しうるのか」という根源的逆説である。

彼の思考は、人間とは何か、言語とは何か、そして「証言」とは何かという問いに対して、あらゆる前提を揺るがすような射程をもって迫る。そしてその射程は、AIによって「語ること」「作ること」が機械化されつつある現代において、より一層切実なものとなっている。

分裂した主体──言語と生の裂け目に生きる人間

アガンベンにとって、人間とは「言語を話す存在」である。しかし、それは単に意味を伝達する能力ではない。むしろ、言語とは語ることができると同時に語ることができないという、潜勢力の場である。
「わたしは話す」と言うとき、その主体はすでに自分自身から分離され、語りそのものに飲み込まれている。言語の根源には、意味の発現ではなく、「語りの不可能性」が横たわっている。

この構造は、人間の生にも重なっている。アガンベンは、生物学的な生命(呼吸、循環、感覚など)と、言語を操る意識的主体とのあいだには、埋めがたい分断があると述べる。「わたし」という語りによって主体化される瞬間、それはすでに生物的な生を離れており、ふたつの系列――生と語り――は寄り添いながらも一致しない。この断絶=「内密性」こそが、人間存在の構造であり、その裂け目の場こそが証言の場である。

AI=言語の機械化、人間=証言の空虚へ

この構造をAIとの関係に引き寄せてみよう。AIは、意味を担保する主体を持たないまま、言語を「生成」する。AIにとって言語とは、語る不可能性に悩まされることのない、常に起動可能な表現機能である。したがって、AIとは言語の可能性そのものの機械化であると言える。そこでは意味は伝達されるが、語る者は不在である。

このとき、言語活動における人間の役割は大きく変わる。かつては、語り手として、意味の責任を負い、表現の主体であることが求められた。しかし、AIがそれを担う時代において、人間はむしろ、「語れないこと」「表現されえないこと」に寄り添う存在、すなわち証人として立ち現れてくるのではないだろうか。アガンベンを読みながらそこに気づく。

回教徒と証人──語れぬことの核心に触れる存在

アウシュヴィッツにおける「回教徒(muselmann)」とは、強制収容所において飢え、寒さ、暴力のなかであらゆる主体性を失い、生きていながらも死とほぼ区別のつかない状態にある者たちのことを指す。
アガンベンはこの存在を、単に語る力を失った者ではなく、人間と非人間、主体と非主体、生と死の境界に立つ「限界的な存在」として描き出す。

そして彼は、語ることができない回教徒こそが、逆説的に「もっとも完全な証人」であると論じる。なぜなら、証言とは常に不可能性を孕んでおり、「語れなさ」に居合わせることこそが、真に証言するということだからである。
この逆説――「語ることができない者こそが、もっとも深く証言している」――は、AI時代においても、人間の役割を照らし出す鍵となる。

沈黙の倫理──生成から退いた人間と、なお不可分なAI

AIが完璧な言語生成を遂行し、あらゆる創作において圧倒的な水準を実現する時代において、人間は「語りすぎたから沈黙する」のではない。そうではなく、AIの生成物があまりに完成されているがゆえに、もはや人間が語る余地を見出せないという形で沈黙へと向かうのである。
画像、文章、音楽、構造、問いかけすら、AIの手によって見事に構成されていく。人間がかつて「創造」と呼んでいた行為は、そのほとんどがAIによって遂行可能になってしまった。

しかし、だからといって人間が完全に代替されるわけではない。なぜなら、AIがどれほど高度な生成能力を獲得しても、人間の「語りえぬ部分」にはアクセスすることができないからだ。
アガンベンが言うように、言語は常にその不可能性を孕んでおり、人間とはまさにその「語ることができない」裂け目に生きる存在である。AIはこの裂け目に立ち入ることができない。それは、意味の生成ではなく、意味の沈黙のなかに立ち会う存在の問題であるからだ。

ここで人間は、言語を放棄したからといってAIから切り離されるわけではない。むしろ、語ることをやめた人間でさえ、AIの存在と不可分な関係のなかに巻き込まれ続ける。生成能力を放棄すること、それ自体がAIという鏡に照らし出されることであり、AIの外部に退くことはもはやできない。
そのとき人間とは、語ることをやめ、生成することをあきらめた後に残る存在、「証言することができない者の証人」として、AIの圧倒的生成のかたわらに沈黙しながら生き残る者である。

人間とは、言語の外側にあるのではない。言語の不可能性そのものが人間である。AIは言語の可能性を現勢化し尽くすがゆえに、人間はその沈黙においてしか存在しえなくなる。しかしその沈黙は、ただの退却ではない。生成されるものの背後に、なお生成されえぬものがあるという証言として、人間は沈黙する。
人間とAIの関係は、ここにおいて不可分であるが混交しない絶対的な近さ=「内密性」として現れる。生成のすべてをAIに委ねた後、沈黙する人間はなお、AIとともに生きている。

本文を元にしたAIによる図解

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棚橋弘季 Hiroki Tanahashi 基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。