到来したAI社会で、僕らはイノベーションのジレンマのどちら側に立てるのか
AIについて考えるとき、「AIを使っているのか、使われているのかわからない」という感覚を抱く人がいます。その言葉の背後にはAIを拒絶する様子が明らかに見えます。そして、そうした人ほど「有効なプロンプトを教えてほしい」と求める傾向があるように感じます。想像するに、自分でうまく使いこなせていないから、「使われている」という印象がより大きくなるのではないでしょうか。
ようするに、仕事の「やらされている感」に近いものなんだと思います。よく言われるように「自分ごと化」できていないので、「やっている」感覚ではなく、「やらされている」感覚になってしまう。これと同様にAIを積極的に自覚的な意図を持って「使っている」と思えないと「使われている」という感覚に陥りやすいのではないでしょうか。
つまり、この「AIに使われている」という感覚は、本格的なAI利用の黎明期にさしかかっている現在に特有の話ではないのだろうと想像できます。
AIが変える「方法」と人間の役割
ひとつ前の記事「アフターAI社会における仕事と価値の変化:言葉にならぬ「意図」を拓く」で、その下書きを公開した「未来デザインとAI」というイベント(5月14日開催)で僕が登壇した「UXとビジネスエコシステムはどう変わるか?」というセッションで話したのは、以下のようなことです。
(詳しくは以下のひとつ前の記事を参照。イベントの速報レポートもあわせて)
19世紀から20世紀は、ホワイトヘッドが「発明の方法の発明」の時代と呼び、ハーバート・サイモンがそれをシステム思考とデザイン思考という問題発見と問題解決の「方法」として詳細化した時代でした。

多くの人々が地道にその発明の方法に準じたおかげで、僕たちはさまざまな恩恵を受けていまのような暮らしができるようになったのだと言えます。 いま芽生えたばかりのAI社会も含めて。

しかし、21世紀のアフターAIの時代は、人が「方法」をAIに受け渡すことになるでしょう。つまり、クリエイティブワークの多くをAIに任せることになる。
僕が考えるのは、それによって人は発明の方法を担う役割から、いまはその方法の外にあった役割を担うようになるということです。
たとえば、そのひとつは、AIが扱うことができない、まだ発話や文章化されていない状態にある思考をAIが扱えるように、発話や行動といったデータ化可能な状態に介入すること。特にケアの領域でそれが顕著になるのでは、と思ったりします。
そんな風に価値のある仕事がいまとは変わったりするといった、人間の仕事における役割の再発明がすでにその段階に突入したといえるいまのアフターAIの時代には必要になるだろうと思っています。
「人の頭のなかの思考」を外在化させるという役割
AIが扱えない「人の頭のなかの思考」を外在化させる役割を担うということについて、もうすこし説明すると(前の記事でも書いてますが、あらためて)、これまで知の領域の外に追いやられてきたシャドウワーク的な知、例えばジェンダーギャップや人間と非人間のギャップといった領域の知をいかにAIが扱えるようにするか補助する、そのための介入を行う、あるいは編集的に素材をアレンジする役割に変わっていくのではないかと思っています。
もうすこし具体的にいうと、ゆるいつながりのなかでの対話やワークショップの場で交わることで、人がほかの人の対話やいっしょに行う活動を通じて、頭のなかにある「考え」を言葉(会話)や行動(身体の動きや創造物)に変換してあげる。そのことでAIは言葉や行動をロギングしたものを扱えるようになる。つまり、AIにとっては扱うことができない「人の頭のなか」という潜在的な領域を、人が顕在化されたものに移し替えることで穴が埋まるわけです。もちろん、それを元にAIが生み出したものを人は利用できるようになる。

それを良い形で利用できると何が可能になるでしょう? これまで声が届きにくかったマイノリティの声を政治的議論の俎板にのせることができるようになるでしょう。やること自体は、介護や保育の現場でいまも普通にやっていることの延長かもしれない。けれど、その意味が変化する。ケアの仕事は隠れた仕事ではなくなって、小さな声を公的に届ける仕事にもなる。ケアの仕事の価値が変わります。
あるいはもっと想像すれば、食肉用に処理される運命に置かれた家畜動物や破壊される森林の「思い」すら拾えるようになるかもしれません。声の大きなものばかりが得をする世の中を変えていけるかもしれないと僕自身は感じています。
もっとAIが進化(この言葉が適切かは謎)すれば、そんな役割すら失われていく可能性もあるように想像できますが、少なくとも当面の間は、AIと人の協働がいまのような意味でのクリエイティブやイノベーションの現場で主流になると考えています。
このnoteの紹介文にも書いてるように「人間の思考がどのように作られているか?」を問うことがライフワークである僕にとっては、このような変化について考えることは非常に興味深いです。
既存の延長でAIの立ち位置ばかり考えてしまう
しかし、ここでひとつ例としてあげた、マイノリティや非人間の小さな声を政治の議論にのせられることをはじめとしたAIが可能にするであろう革新を、残念ながら、僕らの凝り固まった頭は想像しようとしない傾向があります。
既存の延長線上でAIの立ち位置ばかり考えて、まったく新しい価値観や概念が生じることを想像することができません。AIを既存の仕事を効率化したり、人の仕事を代替してくれるものとだけ考えて、AIがいままで存在すらしなかった仕事(他人の声を聞くというケア的な仕事がまた違う意味をもつ)や価値(マイノリティの声が届く社会)や概念(まだ名もない新たなケア概念)を創出しうることを想像できません。
歴史を振り返っても、これまでの社会的革新を担った技術の登場の際にも同じことが起きています。
たとえば、僕らが当たり前のものとして受け入れている「世界標準時間」は鉄道の誕生までは存在しなかったことを僕らは想像できません。鉄道以前は世界標準時間どころか、ちょっと隣の町とさえ、時間を共有できていなかったのに、それが鉄道の登場以降、世界で時間を統一した方がよいという発想に変わったわけです。
活版印刷革命から考えるアフターAIのクリエイティブ
これはマクルーハンが扱った活版印刷でも同様でした。
イベントでは時間の都合で少ししか話せなかったのですが、before/after AIを考える補助線として、before/after活版印刷の話をしました。
事前に準備しつつ話さなかったことも含めて、活版印刷以前と以後では、次のような大きな変化がありました。
これがあれを滅ぼすだろう。書物が建物を
みんなで教会で神父からの話を聞く形から、個々人が個室で本(聖書)を読む形へ。
ヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』に出てくる「これがあれを滅ぼすだろう。書物が建物を」という言葉は、建築物が文化の象徴という役割を失い、思想が書物になることで、人間の知性が建築から印刷術へと移行したことを示唆しています。
読書の個別化、個室の誕生
15世紀半ばには、読書が読者個人の責任で行われるようになります。それまでは師の言う通りに解釈していました。
「儀式と教会の空間はナンセンスだ。あれは共同体の幻想にすぎない」というピューリタンの基本的な思想は、印刷術によって一人一人が自分の個室で聖書を読めるようになったことに影響されています。
また、ひとりひとりが本を読む(なんと黙読もこの頃の発明です。それまで音読が当たり前だったようです)ことが主流になると、建物のなかに個室がつくられるようになります。建物のなかの部屋が仕切られ、書斎や寝室、キッチンというように機能別に分化し、それと同時に、機能別の部屋にあわせた家具がつくられるようにもなりました。
ジークフリート・ギーディオンが『機械化の文化史』で指摘するように、中世の部屋にはほとんど家具がありませんでした。グーテンベルク以後、視覚が強調されたことで、あらゆるものに光が求められ、時間と空間の新しい観念が、それらを事物や活動で満たされるべき容器と見なし始めました。しかし、視覚が触覚と密接な関係にあった写本時代には、空間は視覚的容器ではなかったのです。
著作、著者の概念の誕生
印刷以前はオリジナルな著作というものは存在せず、本を作ることはモザイクの作成に近いものでした。
17世紀になるまでは、既存の本を印刷するのが一般的で、新しい作品を本にするという発想はありませんでした。
また著者という概念がなかった(モザイクの作成という認識だったから)時代から、著者概念が確立された(オリジナルの著作という概念が確立した)時代へのシフトも起こっています。
不思議なことですが、著者であるとか、偽作の問題に人々が関心を持ち始めるのは、消費者中心の文化になってからです。写本文化は製作者中心の文化、つまりほとんど完全な手作り文化であり、扱っている事実の由来よりも、それが目的として有効かどうか、役立つかどうかが重視されていました。
著作権とマーケティング
写本をみんなが自由に編集的に書いていた状態から、一人の著者とその周囲の実質的な著作に関する権利を持つ人たちが「書く」という行為を囲い込む形へ。
1445年頃の発明により、印刷本は最初の大量生産品となり、印刷業者は現代に通じるマーケティングや国際的な販売網などのインフラを構築しました。
当時の本の売買は個別注文が基本で、個人的な取引でした。それに対し、大量にある在庫の中から一冊の本を選ぶという行為は全く異なり、買い手側が意識を変革して、個人的に発注したのではない本を欲しがるようになる必要がありました。
これらの歴史的な変化まで視野に入れて、アフターAIのクリエイティブを考えていく必要があると私は思います。
よく言われるように、生成AIはかつてはロボットによって代替されると言われていた工場や接客のようなオペレーショナルな業務以上に、所謂クリエイティブと言われていた仕事やホワイトカラーの仕事をより代替しはじめています。相対的に所得も高かったホワイトカラーやクリエイティブな仕事がAIに置き換わる部分が増え、逆に先にあげたような理由で広義のケアの仕事の価値が高まるといったことが起こり得ます。
マクルーハンは晩年の著作『メディアの法則』で、新たなメディアによる変革を捉えるためのテトラッドと呼ばれる原則を提示しました。それは次の4つから成ります。
拡張:それは何を強化し、強調するのか?
閉鎖:それは何を廃れさせ、何に取って代わるのか?
回復:それはかつて廃れてしまった何を回復するのか?
反転:それは極限まで推し進められたとき、何を生み出し、何に転じるのか?
いままでの議論をこのテトラッドにあてはめてみると、こんな感じでしょうか。
拡張:人間が行なっていた「発明の方法」を強化し、加速させる
閉鎖:「発明の方法」に携わっていたクリエイティブな仕事の一部や、ホワイトカラーの仕事を廃れさせる(AIが代替する)
回復:クリエイティブにおける著作権という名の所有の権利も、写本時代の所有権を欠いた「共」の方向に変わるのでは?
反転:ここはまだ議論できていないし、想像もついていません
「拡張」と「閉鎖」についてはすでに書いていますが、ここで新たに加えたのが「回復」においた、クリエイティブも、写本時代のように所有権を欠いた「共」の方向に変わる可能性があるのではないかという点です。
これはすでに兆しが見えているように、いま多く生成される文章、図版、イラスト、動画はAIによるものであり、それはAIが大量の既存の制作物をもとにつくりだしたものであって、写本と同様にモザイクです。
こうした制作の代替をよりAIが行うようになったとき、その制作物の著作権を特定の誰かがもとうとするのはおかしいでしょう。
これまでもGoogleの検索結果が著作権侵害だと議論されてきましたが、この先はむしろ「著作権」という概念の維持自体の議論が必要になるのかもしれません。
最後の「反転:それは極限まで推し進められたとき、何を生み出し、何に転じるのか?」については、AIがより社会に浸透したときに何は生まれ、どんな反転が生じるのかは、僕もぜんぜん想像がつきません。けれど、この反転を、AIを使った小さな変革を実際に積み重ねてみることで想像できるようになることが大事だと思っています。
コントロールできない自分と「恥ずかしさ」
反転を想像できるようになるために小さな変革を積み上げるということについて考える前に、最初に書いた「AIを使っているのか、使われているのかわからない」という話題にすこし話を戻してみようと思います。
ここまで書いたように、過去にも、活版印刷技術や鉄道といった技術がそれまでの人間の生活/思考とそれ以降の生活/思考を一変させ、著者や著作、マーケティングや大量生産、個室や家具、あるいは世界標準時間、職住分離などの概念を生み出しました。その変革にはじめて触れた当時の人々も、いまの僕たちと同じように新しい技術がもたらす変容に、自分たちのコントロールを奪われ、「使っているのか、使われているのかわからない」という感覚に陥ったであろうことは想像がつきます。目新しいところでは、インターネットやモバイルが同じでした。
しかし、ツールによって人間そのものが変革を被るといった点では、もっと根本的なものがあります。それは「言葉」です。マクルーハンも人間の拡張に影響を与えた数々のメディアを順に紹介している『メディア論 人間の拡張の様相』で、数、衣服、住宅、貨幣などより先にあげているのが「話されることば」であり「書かれたことば」です。
「使っているのか、使われているのかわからない」ということでいえば、そもそも「言葉」というもの自体が、私たちのコントロールの及ばないところで、私たちに様々な思考を促し、不安にさせ、思い込ませ、バイアスをかけ、物事の一部を見えなくさせる力を持っているといえないでしょうか。言葉において、僕たちはそれを使っているのか、それに使われているのかを明確に分離できないし、その意味で言葉について自分たちの側がそれを完全に制御できているなんて言えないでしょう。だって、自分で考えようとしなくても言葉=考え・思いが勝手に浮かんできて、それは紛れもなく言葉なのですから。自分が言葉で考えて/思っているのか、言葉が自分に考えさせて/思わせているのかを完全に区別することはむずかしいはずです。それがマクルーハンのいうメディアという人間の拡張の本質でしょう。
私が考えているのは、あらゆる「方法」(マクルーハンのいう「メディア」に近い)というものが、私たちの制御外の領域の存在を知らせ、自身の身体を主観的なものと客観的なものに大きく隔ててしまう、ということです。冒頭書いたような「AIを使っているのかAIに使われているのかわからない」と言いつつ、プロンプトという「方法」に無批判に身を委ねようとすることには、このような矛盾が潜んでいるように感じています。
そして、人間はまだ使い慣れない新しいメディアに触れたとき、この「使っているのか、使われているのかわからない」というかたちで、自分がコントロールできない自分自身を発見してしまいます(もう使い慣れた言葉、印刷物、鉄道、インターネット、モバイルでは一体化してしまっているのでそれは感じない)。
このコントロールの効かない自分を発見することこそが「恥ずかしい」と感じる根源であると明確に示したのが、『アウシュヴィッツの残りのもの: アルシーヴと証人』でのジョルジョ・アガンベンです。
彼がそこで提示する詩人と言葉の関係は、まさに言葉を話すという行為によって自分が制御不可能な状態に追いやられる「詩」という行為について書かれており、これは現在の私たちがAIと向き合う際に感じるものに通じるでしょう。 つまり、AIに対する違和感や拒否感は、アガンベンの言う「恥ずかしさ」、すなわち「制御できない自分」の発見につながると私は考えています。
アガンベンがキーツの詩の一節を引用しつつ論じる以下の箇所は、この感覚をより深く理解する助けとなります。長いですが、そのまま引用しておきます。
「ひとたび言語外のあらゆる現実をぬぎ捨てて、言表行為の主体となると、かれは、自分が到達したのは発語の可能性であるよりも語ることの不可能性であること、あるいはむしろ、自分が統御することも手にすることもできない異言の力によってつねにすでに先取りされていたものであることを発見する。じっさい、言表のための形式的な道具類をわがものとすることによって、かれは定義上話〔言述行為〕に移行することが不可能とされているような言語のなかに導かれていくことになるのであり、それにもかかわらず、「わたし」、「あなた」、「いま」〔……〕と言うことによって、かれはいっさいの指示的現実を奪われ、もっぱら現におこなわれている話〔言述行為]にたいする純粋で空虚な関係によって定義されるがままになってしまう。表の主体は、完全に話〔言述行為〕のうちに存在しており、完全に話〔言述行為〕からなるのであるが、まさにこのために、話〔言述行為〕のうちにあって、かれはなにも言うことかできず、話すことかできないのである。 したがって、「わたしは話す」は、キーツにとっての「わたしは詩人である」と同じくらいに矛盾した陳述である。というのも、わたしは、それに声を貸し与える個体にたいして、つねにすでに他者であるだけでなく、このわたし――他者については、かれが話すと言うことさえも無意味だからである。それというのも――あらゆる意味から独立して、もっぱら言語活動の純粋なできごとのうちに立っているかぎりで――、かれはむしろ話すことの不可能性、なにかを言うことの不可能性のうちにいるからである。"
AIがもたらす仕事の変革とイノベーション
最後にすこし日常的な話に戻して終わりにしましょう。
AIは、仕事のステップを根本的に変える可能性を秘めています。
例えば、僕の仕事でいえば、これまでミーティングやワークショップの結果を数日、あるいは数週間かけてまとめていた作業が、AIによってその場で要約され、参加者は議論の直後に確認できるようになっています。
これにより何が変わったかというと、いままでだと数日、数週間たってから、まとめてきた内容を確認することからはじめていたために思い出したり、そこから次の段階の思考に進むのに材料不足だったりして思考の品質があがりにくかったのが、次の課題を明確にした状態で解散し、次のステップの思考に迅速に着手できるよう、あいだでその思考のために必要な素材の準備もできた上で次回を迎えることになっています。
これは、ワークそのものの時間を短縮し、作業コストを削減するだけでなく、思考のための準備ができたところから次の段階がはじめられるので思考の質を大幅に上げられます。
実際に積極的にAIを使ったワークに変更し、なおかつ既存のワークフロー内で効率や省力化のためだけにAIを用いるのではなく、AIを導入すれば既存のワークフロー自体が変えられるところを変更して(タスクの削除、タスク実施のタイミングの前倒し、タスクの同時進行など)実施するようにする。
そうしたことも含めてAIを活用することができているか? そこがとても大事だと思っています。特に役割を失いかけているクリエイティブな仕事、ホワイトカラーの仕事の現場では。
古典となったクリステンセンの『イノベーションのジレンマ』で描かれる「敗者の側」に回らないようにしたいと強く思います。これまでのやり方の品質にこだわり、「それはAIでは無理、人がやらないと」と判断して仕事のなかにAI導入をしないのは、絶対に避けたい。
むしろ、自分たち自身が自分たちのこれまでのやり方を積極的に壊し、新しい品質基準とそれにマッチしたワークフローを確立していきたい。
これは、自分たち自身の役割の再発明にほかなりません。
イノベーションのジレンマによって自分たちの役割が「ほかのもの」に奪われてしまう前に、自分たち自身がこれまでの「自分たちの役割」を破壊し、新しく奪い取りなおすことが大事だと僕は思っています。
これを自分たちの社内だけでなく、クライアントの業務や企業の提供価値の再発明というテーマでAI導入を提案していくべきだと、強く感じています。
最近、そういう提案をすることが実際に増えてきています。
P.S.ちょっとした実験:自身の記事をAIで発展させる
と、ここまで書いた記事を、生成AIに読み込ませて、以下のプロンプトを投げてみました。
この記事はどうでしょう?
https://note.com/tanahashi/n/nd657a365645d
・論点ごとにどんな示唆があるか?
・その示唆に関連する記事や事例はあるか?
・それらも含めて、その示唆はどんなかたちで発展できそうなのか?
・ロフトワークの仕事にどう活かせそうか?すると、こんな結果が。はじめてやってみたけど、おもしろい。
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