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負債論/デヴィッド・グレーバー

ウェルビーイングと呼ぼうが、幸福と呼ぼうが、心の安寧や豊かさと呼ぼうが、呼び方も、それが意味する明確な範囲もなんでもいいのだけど、お金持ちになることではなく、そうしたものを追求しようという雰囲気は確かにありつつも、この物価高の世の中ではそうも言っていられず、お金も必要だというのは、昨今大方の人に共通する思いだろう。しかし、お金ばかりに囚われたままでは、前者の幸福だのウェルビーイングだのを得ることはできそうにないことにもなんとなく気づいてはいるのだけど、そのとき、何故お金に執着することが人を幸福に手が届かない状態を誘ってしまうことになるかについては、それほど明確に応えられる人はいないだろう。
そんな状況で、僕が召喚してみたくなるのが、今回の主役、デヴィッド・グレーバーである。

文化人類学者デヴィッド・グレーバー(1961-2020)は、そのラディカルな思索と実践で、現代社会の根源的な問題に光を当て続けた稀有な知性だった。
僕が読んだなかでも『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』は、現代にはびこる無意味な労働の実態を告発し、多くの人々に衝撃を与えるものだったし、『民主主義の非西洋起源について――「あいだ」の空間の民主主義』では、僕たちが自明視している西洋起源の民主主義概念を解体し、マダガスカルの農村など、非西洋社会に息づく合意形成のあり方から、より水平的で自律的な民主主義の可能性を提示していた。

これらの著作に通底するのは、既存の権力構造や社会通念に対する根源的な懐疑と、人間本来の自律性や創造性への揺るぎない信頼だろう。彼は、2011年の「ウォール街を占拠せよ」運動の中心的なオーガナイザーの一人としても知られ、そのアクティビストとしての実践と学問的探求は分かちがたく結びついていた。
僕自身、「ケア」という概念に関心を持つようになったきっかけは、グレーバーが『ブルシット・ジョブ』の中で「つまるところ、すべての労働はケア労働である」(大まかに言えば、他者の必要を満たすこと)と喝破したのを読んだからであり、民主主義の問題にしても、そしてこれから論じるお金と負い目の問題にしても、彼から学んだことは計り知れない。
というわけで、ここ最近書いてきてことの流れもあり、、いよいよグレーバーのもうひとつの主著『負債論――貨幣と人間の5000年史』を紹介してみたい。

『負債論』

我々はみな「負い目」を抱えて生きている――D・グレーバー『負債論』が暴く、貨幣と道徳の起源

そのグレーバーが、満を持して世に問うた大著が、今回取り上げる『負債論――貨幣と人間の5000年史』(酒井隆史監訳、高祖岩三郎・佐々木夏子訳、以文社)だ。僕たちは日常的に「お金を借りる」「恩義を感じる」「罪悪感を抱く」といった経験を通じて負い目を感じたりする。これらの「負い目」の感覚は、一体どこから来るのだろうか? そして、それは人間社会においてどのような役割を果たしてきたのだろうか? グレーバーは、この素朴にして根源的な問いから出発し、我々が当たり前だと思っている貨幣や経済のシステム、さらには道徳感情の根底に潜む「負債」のメカニズムを暴き出していく。

彼はまず、冒頭でこんな挑発的な問いを投げかける。

だが、ここにはより根源的な問題、熟慮に値する哲学的な問いがある。銃をちらつかせて1000ドルの「みかじめ料」を要求するギャングと、おなじく銃をちらつかせ1000ドルを「貸してくれ」と要求するギャングのあいだの違いはなにか? ほとんどの点で違いなど存在しないのはあきらかだ。だがいくつかの点でここにはひとつの差異が存在する。韓国や日本に対する合衆国の債務の場合、もしもなんらかの理由で勢力均衡が反転した場合、もしアメリカが軍事的覇権を失うなら、つまりギャングが手下を失うなら、この「貸出/融資」がまったく違ったふうな取扱いを受けはじめるかもしれない。要するに、まごうことなき債務になるかもしれない。しかし、決定的な要素はやはり銃であるようにみえる。

『負債論』

この一節は、本書の核心を突いている。すなわち、一見すると中立的に見える「貸し借り」の関係も、その背後には暴力や権力関係が潜在しており、それが剥き出しになる瞬間に「負債」の本質が現れるというのだ。そして、この「負債」の概念こそが、貨幣の起源であり、人間社会における道徳や宗教の根幹をなしてきたというのが、グレーバーの基本的な主張なのである。

貨幣の本質は「負債」である――国家・暴力・そして「信用」の逆説

経済学の教科書では、貨幣は物々交換の不便さを解消するために生まれた便利な道具として説明されることが多い。しかし、グレーバーはこの通説を真っ向から否定する。

貨幣が尺度にすぎないなら、それはなにを測定するのか? 負債である。一枚の硬貨とは実質的に借用証書(IOU)なのである。世間一般の通念では、銀行券とは一定の金額の、(金であれ銀であれ、なんであれ)「実質貨幣」による支払いの約束であり、約束であるべきである。それに対して、信用論者にとっては、銀行券とは金ーオンスと等価値であるなにものかを支払う約束にすぎない。貨幣とは常にそれだけのものなのだ、と主張する。

『負債論』

つまり、貨幣とは本質的に「借用証書(IOU: I Owe You)」であり、誰かが誰かに対して負っている「負債」の記録なのである。そして、この負債の記録が社会的に流通するためには、それを保証する権力、すなわち国家の存在が不可欠となる。

グレーバーは、歴史を遡り、国家が税を徴収し、軍隊を維持するために貨幣を発行してきた事実を明らかにする。兵士に給料を支払うために鋳造された硬貨は、やがて市場で流通し、人々はそれを使って納税する。この循環の中で、国家が発行した「借用証書」としての貨幣は、強制力を伴って社会に浸透していく。

その最初期の起源がなんだったにしても、過去4000年のあいだ、貨幣は実質的に国家の創造物だった。ケインズの観察するところでは諸個人はたがいに契約を交わすものである。諸個人は、借りをつくり、支払いを約束する。(中略)それゆえ国家は、契約に含まれている名称もしくは記述に照応する物の支払いを強制する法の権威としてなによりもまずあらわれる。しかし国家が、これに加えていかなる物がその名称に照応するかを定め布告し、そしてその布告をときに変更する権利を要求するときーーすなわち辞典を再編集する権利を要求するときーー国家は二役を演ずることになる。この権利はすべての近代国家によって要求されているが、少なくとも約4000年のあいだそのように要求されつづけてきたのである。クナップの表券主義ーー貨幣とは国家に特有の創造物であるという学説ーーが完全に実現されるのは、貨幣の発展がこの段階に達成したときである。(...)今日ではすべての文明社会の貨幣が表券主義的であることは議論の余地がない。

『負債論』

ここは2つ前で紹介した『反穀物の人類史』で元気やされる初期国家における「穀物」の役割が見事にこの貨幣の話にリンクしていることがわかるはずだ。

そして、さらに衝撃的なのは、物々交換から貨幣へ、そして信用システムへという一般的な理解とは逆に、歴史的には「信用」こそが先に存在したという指摘だ。『反穀物の人類史』で最初期に「文字」が果たした役割が収穫量や租税の管理であったこととこの話は連関している。文字がなければ信用証書はない
古代メソポタミアなどでは、神殿や共同体内部での貸し借りの記録、つまり「信用」に基づく取引がまず行われ、硬貨のような「実物貨幣」は、むしろ国家による徴税や軍事活動といった特殊な文脈で登場したという。ようはこの頃の取引は、純粋な価値交換というより、信用が成り立つような間柄における贈与の要素も残した交換だったのだろう。そこでは縁は切れない。

実のところ、貨幣史についての標準的見解はここからまったく後退している。物々交換からはじまって、貨幣が発見され、そのあとで次第に信用システムが発展したわけではない。事態の進行はまったく逆方向だったのである。わたしたちがいま仮想貨幣と呼んでいるものこそ、最初にあらわれたのだ。硬貨の出現はそれよりはるかにあとであって、その使用は不均等にしか拡大せず、信用システムに完全にとってかわるにはいたらなかった物々交換は、硬貨あるいは紙幣の使用にともなら偶然の派生物としてあらわれたようにみえる。歴史的にみれば、物々交換は、現金取引に慣れた人びとがなんらかの理由で通貨不足に直面したときに実践したものだ。

『負債論』

国家の負債が貨幣となる――イングランド銀行の誕生

イングランド銀行の設立が、この関係を逆転させる決定的な出来事であったとグレーバーは言う。国王が戦争資金を調達するために銀行家たちから借金をし、その借金(国債)そのものが銀行券として流通する。つまり、国家の「負債」が「貨幣」として機能するシステムが確立されたのだ。

読者はヘンリーの方程式にひそむ奇妙な点に気づいたかもしれない。借用証書が貨幣としての役割をはたすのはあくまでヘンリーがみずからの負債を返済しないかぎりにおいてである。実にこれこそが、最初に成功した近代的中央銀行であるイングランド銀行設立当初の論理だったのだ。(中略)つまり、新たに生まれた国王の負債を流通させる、ないし「貨幣化する」権利である。

『負債論』

このように、貨幣の本質は「負債」であり、それは国家権力と暴力、そして複雑な「信用」のシステムと不可分に結びついている。この視点は、我々が日常的に何気なく使っているお金に対する見方を根底から揺るがす力を持っている。

「経済」が人間を疎末にする――奴隷制、貴族の矜持、そしてアガンベンとの共鳴

グレーバーは、近代経済学が「経済」という領域を社会の他の領域から切り離し、あたかも客観的で非人格的な法則が存在するかのように扱ってきたことを批判する。アダム・スミスに始まるこの「経済学」の分離は、人間の営みを数量化可能な交換の対象へと変えてしまう危険性を孕んでいる。
話が逸れるが、実は、社会のほかの関係性から切り離すことで交換対象となるのは人間だけではない。あらゆる物が社会的な縁から切り離されて交換して可能な商品となるのは以下の記事で書いた通り。

そもそも「経済学」と呼ばれる学問領域は、靴と芋とか布と槍などを交換するにあたって、諸個人に最も有利な条件を探るやり方をなによりもまず主題にするものである。このような学問領域は、こうした財の交換が、戦争や情熱や冒険や神秘、あるいは死とは切れたところにあるということを想定しなければ、そもそも存立すらありえない。だから経済学は人間のさまざまな行動領域のあいだの分離を想定しているわけである。

『負債論』

この非人格化の極致として、グレーバーは「奴隷制」を挙げる。奴隷とは、その人物が本来所属していた共同体や人間関係の網の目から「剥奪」され、純粋な交換可能な「モノ」として扱われる存在である。

ここには、おそらく一般的原理がある。人間経済において、なにかを売ることができるようにするには、まずそれを文脈から切り離す必要があるのだ。奴隷とはまさしくこれである。すなわち、奴隷とはじぶんたちを育てあげた共同体から剥奪された人びとのことである。新しい共同体にとってはよそ者であるから、奴隷には父母もどのような親族もいない。だからこそ彼女たちは売り買いもできたし、殺害することさえできた。なぜなら、彼女たちの保持していた唯一の関係は、みずからの所有者たちとの関係だったからである。

『負債論』

この奴隷制における「剥奪」と「モノ化」の論理は、現代社会においても、形を変えて様々な場面で見られるのではないだろうか。

市場を拒む「名誉」――貴族の価値観と非数量性

一方で、歴史的には、このような市場における商業的交換を軽蔑し、贈与や気前のよさ、名誉といった数量化不可能な価値を重んじる文化も存在した。古代ギリシャの貴族などがその典型であり、彼らは市場でのあからさまな取引を避け、互酬的な贈与交換を通じて社会的な威信を競い合った。

貴族たちは市場を軽蔑していた。名誉ある男たちの理想は、必要なものすべてをじぶん自身の地所で調達し、現金をいっさい手にしないことだったのだ。(中略)いずれの場合も貴族たちは、贈与と気前のよさと名誉の世界をあさましい商業的交換の上位に位置づけたのである。

『負債論』

興味深いのは、この貴族たちの「名誉」でさえも、「名誉代価(honorprice)」として数量化され得たという点だ。それは、彼らの社会的地位や不可侵性を保証するためのものであり、彼らの優越性を示す象徴でもあった。

この体系の鍵は名誉についての観念である。それは文字通り「面目(face)」である。ある人物の名誉とは他者の目に映った尊敬のしるしであり、誠実さと高潔さと品位、かつあらゆる種類の不名誉や侮辱から自己と家族と従者を守る能力という意味の「力」でもあった。最高次の名誉を有する人びとは文字通り聖なる存在であった。すなわち、その人格と所有物は不可侵の聖域だった。ケルト人――なかでもアイルランド人――の制度において非常に異例であるのは、名誉が正確に数量化可能だったことである。

『負債論』

アリストテレスの奴隷論――身体を他者に使用される存在

ここで想起されるのが、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンの議論である。アガンベンは、その主著『ホモ・サケル』や『身体の使用』において、古代ローマ法における「ホモ・サケル(聖なる人間/呪われた人間)」という特異な存在に着目し、剥き出しの生(ゾーエー)が政治的生(ビオス)からいかに排除され、また包含されてきたのかを論じた。

アガンベンは、アリストテレスの奴隷論を参照しつつ、奴隷が「生命ある道具」として、その身体を他者に「使用される」存在であることを指摘する。

《身体の使用》という表現は、アリストテレスの『政治学』の最初で、奴隷の本性についての定義がなされている箇所に出てくる。(中略)アリストテレスは奴隷を《人間でありながら、その自然によって、自分自身に属するのではなく、他人に属する者》と定義することでもって始め、そのすぐあとで《だれか自然によってこのようなものである人間がいるだろうか、それとも、隷属はいつの場合にも自然に反するものなのだろうか》と自問している。

ジョルジョ・アガンベン『身体の使用』

わたしたちは使用および道具性ということを外的な目的との関連で考えることに慣れてきたため、アリストテレスが示唆しているような、ある目的からまったく独立した使用の次元を理解することは、わたしたちには容易ではない。(中略)わたしたちは奴隷たちの労働を、近代の労働者の、あくまでも生産本位の労働を基準にして考察することに慣らされてきた。それゆえ、最初にあらかじめどうしてもやっておかなければならないのは、奴隷の「身体の使用」を製作と生産の領域から脱却させて、それを実践と生き方の――アリストテレスによると、定義からして非生産的な――領域に置き戻してやることである。

ジョルジョ・アガンベン『身体の使用』

グレーバーが描く、共同体から「剥奪」され、交換の対象となる奴隷の姿は、アガンベンが論じる、その身体を「使用」される存在としての奴隷の姿と深く共鳴する。どちらの議論も、人間がモノとして扱われ、その主体性が奪われるプロセスを、異なる角度から照らし出していると言えるだろう。

さらにアガンベンは、あるものが「~しないことができる」という「無為」の可能性や、既存の秩序を解体する「脱構成的可能態」に注目し、権力や「負い目」の構造から脱却する可能性を探る。

もし基本的な存在論 проблемが今日では働きではなくて働かないことであるとするなら、しかしまた働かないでいることが立証されるのは働きにたいしてのみであるとするなら、そのときには、従来とは異なった政治像へのアクセスは「構成的権力」という形態ではなく、なにかわたしたちが暫定的に「脱構成的可能態」と呼ぶことができるものの形態をとることになるだろう。

ジョルジョ・アガンベン『身体の使用』

このアガンベンの「脱構成的可能態」は、グレーバーが本書の終盤で示唆する、「負債」の論理から自由な人間関係のあり方、すなわち「基盤的コミュニズム」の可能性と響き合うように思われる。

モラル、宗教、そして市場――「負い目」の普遍性と歴史性

グレーバーは、「負債」の概念が、貨幣や経済だけでなく、人間の道徳や宗教観にも深く根ざしていることを明らかにする。

おなじく、モラル哲学の最初期の文書のいくつかは、モラルを負債として想像すること、つまりそれを貨幣という観点から想像することがなにを意味するのか、についての考察である。

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例えば、キリスト教における「救済(redeem)」という言葉は、元来「買い戻す」「借金のかたにとられたものを取り戻す」といった金融取引の用語であったという。

キリストはなぜ「救世主(redeemer)」とみなされるのか?「救う(redeem)」のそもそもの意味は、なにかを買い戻すこと、あるいは借金のかたにとられたものを取り戻すこと、つまり負債を完済することでなにかを獲得することである。キリスト教の教えの神髄である救済、人間を劫罰から救うための神自身の子の生け贄、こういったことが金融取引の言語で形成されねばならなかったということは考えてみれば印象的である。

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また、古代における「供犠(sacrifice)」も、神々や死者に対する「負債」の支払い、あるいは「生」という借り物の利子払いといった観念と結びついていた。

供犠(sacrifice)(そしてこれら初期の注釈者たち自身が「自己犠牲的聖職者(sacrifical priests)」だったが)は、かくして「〈死〉に支払われる貢物(tribute)」と呼ばれている。(中略)かくして供儀の「貢物」をいわば利子の支払いとみなすことが可能になった。一時的に動物の命を本当に負って[借りて]いるもの、すなわち、わたしたち自身の代理物にするわけであるーー要するに、不可避的事態[死]のたんなる延期なのだ。

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このように、「負債」の観念は、人間の根源的な不安や希求と結びつき、道徳や宗教の骨格を形成してきた。

そして、いわゆる「枢軸時代」(紀元前800年頃~紀元後600年頃)と呼ばれる時代に、人間の動機が「利益(profit)」や「優位性(advantage)」といった概念に単純化され、非人格的な「市場」が出現したとグレーバーは指摘する。この「市場」は、「隣人さえも赤の他人のごとく扱うこと」を可能にし、人間関係をドライな計算の対象へと変えていった。

なにが変化したのか理解するには、枢軸時代のはじまりに出現したある特殊な種類の市場にふたたび目をむける必要がある。すなわち、隣人さえも赤の他人のごとく扱うことを可能にした、戦争から生まれた非人格的な市場である。

『負債論』

ここから枢軸時代には人間の動機についての新しい思考法が生まれる。すなわち動機の根本的な単純化であって、それかわ「利益(profit)」や「優位性(advantage)」のような概念について語りはじめることを可能にするのである。

『負債論』

興味深いのは、この市場交換の論理を突き詰めていくと、意外な結論が導かれるという点だ。グレーバーは、古代中国の思想家・墨子が唱えた「兼愛(無差別の愛)」の思想を取り上げ、それが市場交換の原理を徹底した結果としての、ある種の「コミュニズム」に行き着くものだと論じる。

墨子の結論は、人間や動物の殺戮と物質的損害を合計するなら、勝者にとってさえそれが利益を上回ることは決してない、ということであった。それどころか、墨子はこの論理をつきつめて、人間全体にとっての利益を最適化するただひとつの方法は、私的利益の追求を完全に放棄し、彼が「兼愛「universal love」」と呼ぶ原理を採用することであると主張した。要するに、市場交換の原理をその論理的帰結にまでつきつめれば、ある種のコミュニズムに行き着くほかにないと論じているのである。

『負債論』

この指摘は、市場原理と共同性の関係を考える上で、非常に示唆に富んでいる。

負債の彼方へ――「基盤的コミュニズム」と共有の可能性

ここまで見てきたように、グレーバーは「負債」の概念を軸に、貨幣、国家、暴力、道徳、宗教、市場といった人間社会の根幹をなす要素を鮮やかに解き明かしてきた。しかし、彼は単に「負い目」の構造を告発するだけで終わるわけではない。
本書の終盤で、彼は、すべての人間関係が「交換の諸形式」に還元されるものではないと主張し、人間社会の基盤には、貨幣や交換とは異なる「基盤的コミュニズム」が存在すると指摘する。

つまるところ、わたしたちは自己存在すべてを他者に負っている。これはいわずもがなの真実である。わたしたちが話し、そのなかで思考する言語、習慣と意見、好きな食物、灯りを点けなたりトイレを流したりする知識、さらに社会的因習に立ちむから抵抗の身ぶりや反乱の流儀にいたるまで、わたしたちはすべてを他者から学んだのであり、それらの人びとのほとんどははるか昔に死んでいる。そうした人びとに対して負っている負債を想像するならば、ただただ無限というしかない。

『負債論』

この「基盤的コミュニズム」とは、見返りを期待しない助け合いや、喜びや悲しみの共有といった、日常的な人間関係の中に息づくものである。それは、家族や友人との間だけでなく、見知らぬ人との間にも、ふとした瞬間に現れる

しばしばこのような取り決めがカーストの論理へと転化することがある。(中略)饗宴がより手の込んだものになればなるだけ、ある物品は借しみなく分かち合い(たとえば食物や飲み物)、ある物品は注意ぶかく配分する(distribution)いう、二つのやり方の結合がさかんに目にされるようになる。(中略)わたしたちが楽しいとおもうほとんどのものごとの根には、ある種のコミュニズム的感覚が存在している。

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潜在的に敵対者である見知らぬ者とのやりとりが「すべてか無か」の論理を促進するであろうことは、理解にかたくない。その緊張は英語のうちにすら保持されている。たとえば、"host"(接待する)、"hostile"(敵対的)、"hostage"(人質)そしてもちろん"hospitality"(歓待)といった言葉は、すべておなじラテン語の語源を共有している。ここで強調したいのは、こういった身ぶりはすべて、あらゆる人間の社会生活の土台としてすでに論じてきた「基盤的コミュニズム」の極端な表出にすぎないということである。

『負債論』

グレーバーは、この「基盤的コミュニズム」にこそ、現代社会が抱える様々な問題を解決し、より公正で人間的な社会を構想するための鍵があると示唆する。すべての人間関係を「貸し借り」の論理で捉えるのではなく、互酬性や共有の可能性を探ること。そこに、我々が「負債」の呪縛から解き放たれる道があるのかもしれない。

おわりに:グレーバーから受け取ったバトン

デヴィッド・グレーバーは、2020年、あまりにも早くこの世を去った。しかし、彼が遺した『負債論』をはじめとする著作群は、現代社会の矛盾を鋭くえぐり出し、我々に根源的な問いを投げかけ続ける。

「負い目」の感覚は、人間である限り誰もが抱える普遍的なものかもしれない。しかし、その「負い目」がどのように構築され、利用され、そして我々を縛り付けているのか。グレーバーの透徹した分析は、その構造を白日の下に晒し、我々が自明視してきた価値観やシステムを相対化する視座を与えてくれる。

そして、その先に彼が見据えていたのは、おそらくアガンベンが言うところの「脱構成的可能態」が花開くような、既存の権力や支配の論理から自由な、自律的で創造的な人間の生のあり方だったのではないだろうか。

『負債論』は、決して読みやすい本ではない。しかし、その重厚な記述の中に身を委ね、グレーバーの思考の軌跡を辿ることは、我々自身の生き方や社会との関わり方を見つめ直すための知的冒険となるだろう。彼が遺した問いを、僕たちは今、それぞれの場所で受け止め、考え続けなければならない。

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棚橋弘季 Hiroki Tanahashi 基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。