反穀物の人類史/ジェームズ・C・スコット
ゴールデンウィークの読書は、思考の旅には最適だ。すでに1ヶ月以上が過ぎたが今年のGW、私が手に取った本の1冊は、ジェームズ・C・スコットの『反穀物の人類史』(もう1冊がすでに紹介したアガンベンの『アウシュヴィッツの残りもの』)。
この本を読むきっかけとなったのは、以前「GWの読書におすすめの6冊」で紹介したピエール・クラストルの『国家をもたぬよう社会は努めてきた』だった。クラストルの議論、すなわち未開社会は「国家なき社会」ではなく、積極的に「国家を拒絶する社会」として存在していたという衝撃的な視点は、私の国家観、ひいては人類社会の「進歩」という物語を根底から揺るがした。
クラストルは言う。
「国家なき社会」から「国家に抗する社会」へと変貌を遂げたのである。
この「不在」から「対抗」への視点こそが、現代に生きる私たち自身の社会のあり方を立ち止まって考えるべき、もう一つの可能性を示唆しているように思えたのだ。
そして、そのクラストルの著作で言及されていたのが、このスコットの『反穀物の人類史』だ。国家を持たない社会が選択肢としてありえたのなら、国家とは一体何だったのか。そして、私たちはいかにして国家の「飼い慣らし」の中に組み込まれていったのか。スコットは、私たちがあまりにも自明視してきた「文明」と「進歩」の物語に、鋭いメスを入れている。

農耕と国家、見過ごされた4000年のタイムラグ
私たちは学校で習う歴史の物語で、人類は狩猟採集生活から農耕を発見し、定住して村を作り、やがて文明が生まれ、国家が形成されたと学ぶ。農耕と定住は、まるで不可避の「進歩」のステップであるかのように語られるだろう。しかし、スコットはこの通説に真っ向から異議を唱える。
彼は、作物栽培と定住が国家形成の前提条件ではないことを、考古学的証拠を基に提示する。驚くべきことに、「作物栽培と定住が始まってから4000年以上もあとだった」とスコットは指摘し、この「大きなタイムラグ」は、国家が「自然発生的なものと考える理論家を悩ませている」と言う。古代メソポタミアでは、農耕なしに5000人規模の定住地が存在したり、逆に農耕していても移動を伴ったりと、通説とは異なる事例が数多く見られるのだ。これは、農耕が直ちに国家を生み出したわけではなく、国家形成には別の要因があったことを示唆する。
スコットはここで「ドムス」という概念を導入する。
「ドムス」とは、ラテン語で「家」を意味し、家畜化された動植物と人間が密集して形成される、きわめて人工的な生態系を指す。これは単なる居住空間ではなく、植物、動物、人間が「共進化しながら、誰にも予想しなかったような影響を生み出した」、まさに生命の「再生産と繁殖の管理」を前提とした、特異な環境なのだ。
そして、この「ドムス化」のプロセスは、人間自身にも適用されるとスコットは主張する。「わたしたちもまた〈飼い馴らされて〉きたのではないだろうか」。彼はこの「domestication」という用語を最大限に拡張し、奴隷、国家の臣民、そして家父長制的な家族における女性にも適応されると指摘する。初期国家が女性の出産を奨励し、奴隷を繁殖させてマンパワーを確保した事実は、人間がまるで家畜のように「管理」され、「繁殖」の対象となったことを如実に物語っている。
スコットの核心的な主張は、「国家という形態は、どう見ても自然ではないし、既定のものでもない」という点に集約される。私たちが当たり前と信じてきた「文明」の形態が、いかに人為的で、ある種の暴力によって維持されてきたかを示唆しているのだ。
初期国家の脆弱性と「崩壊」の多義性
私たちはしばしば、国家が成立した後はそれが唯一の、そして最も安定した社会形態であったと認識しがちだ。しかしスコットは、初期国家が実際にはきわめて脆弱であり、頻繁に「崩壊」していたことを明らかにする。この「崩壊」は、必ずしも悲劇的なものではなかったとスコットは言う。
高密度な集住を前提とする初期国家は、農耕がもたらす新たな問題に常に悩まされていた。例えば、都市化による「群集疾患」、すなわちコレラや天然痘などの伝染病の蔓延や、単一作物への依存による凶作のリスクなどだ。こうしたコストのかかるアプローチは、国家運営を不安定にさせ、国家が「脆弱ですぐに崩壊したが、それに続く「暗黒時代」には、実は人間の福祉が向上した跡が見られる」とまで指摘する。
つまり、国家の「崩壊」は、単なる破滅ではなく、「文化の再形成と分散」を意味し、人々が国家の抑圧から逃れ、より健康で自由な生活に戻る機会であったとスコットは主張する。例えば、税や賦役、徴兵からの逃亡、あるいは伝染病からの避難といった形で、人々は国家の外へと移動し、小規模で自律的な社会へと回帰していったのだ。スコットはこれを「野蛮人の黄金期」と呼ぶ。国家が支配力を強めすぎない限り、「野蛮人」でいる方が多くの面でいい生き方だったのだ。
しかし、国家は常に「マンパワー」を必要とした。その獲得のためには、戦争、捕虜、奴隷、貢納、強制移住といったあらゆる手段が用いられた。特に「戦争による捕虜の獲得と、奴隷貿易に特化した野蛮人からの大規模な買い付けで人口を補充していた」とあり、捕虜や奴隷の獲得は国家にとって最優先事項だった。国家が築いた「壁」も、単なる外敵からの防御だけでなく、臣民や捕虜といった「人口」の流出を防ぎ、内部に囲い込むための管理装置としての側面を持っていた。アダム・ホックシールドによれば、「1800年になるまで、世界人口のざっと4分の3は束縛されて暮らしていた」という事実は、この国家による「束縛」の構造が、私たちの想像以上に長く、人類の歴史の大部分を覆っていたことを痛感させる。
穀物と文字:管理のテクノロジーとしての役割
国家がマンパワーを管理し、徴税システムを構築する上で、穀物がなぜこれほどまでに重要だったのか。スコットはその理由を明快に説明する。穀物は「視認、分割、査定、貯蔵、運搬、そして分配ができる」、つまり「収奪の容易さと効率」に優れた作物だったのだ。
畑で一斉に成熟し、簡単に計量・貯蔵でき、運搬にも適している。徴税官の視点から見れば、イモ類のように一つずつ掘り出す必要がなく、収穫量も予測しやすいため、課税対象として理想的だったのだ。これに対し、イモ類や豆類など、他の栄養価の高い作物では、こうした管理の容易さが欠けていたという。スコットは、「穀物と国家がつながる鍵は、穀物だけが課税の基礎となりうることにある」と断言する。
さらに、初期の「文字」の誕生と役割も、この管理システムの文脈で読み解かれる。文字は当初、文学や神話のためではなく、穀物の生産量や貢納、奴隷の数などを記録する「簿記」のために生まれたというのだ。「とにかく数値的な記録管理に関する体系的な技術がなければ、最初期の国家ですらほとんど想像できないといっても言いすぎではないだろう」。文字は「距離を破壊するテクノロジー」として、中央集権的な国家が広大な領域を支配し、統一された基準で規範を強制する手段となった。秦王朝の均田制に代表されるように、人口登録、徴兵、課税といった国家の管理体制と文字は密接に結びついていた。初期国家は、穀物と文字という二つの「モジュール」を巧みに組み合わせることで、支配と搾取のシステムを構築していったのである。
「生政治」の系譜と現代社会への問いかけ
スコットの議論は、ジョルジョ・アガンベンの『ホモ・サケル』や『アウシュヴィッツの残りもの』で展開される「生政治」の議論とも深く共鳴する。国家が人々の生命そのものを管理・統治の対象とする、という生政治の概念は、スコットが描く初期国家の姿に重なる。女性の出産、奴隷の繁殖管理といった生命そのものへの介入は、まさに生命を国家の「資源」として捉える視点そのものだ。
これは、シルヴィア・フェデリーチが『キャリバンと魔女』で論じた「女性の身体の資本化」(奴隷化、魔女狩り、賃金労働への強制)や、スナウラ・テイラーが『荷を引く獣たち』で描いた人間(特に労働者)の「家畜化」という概念とも接続する。スコットの言う「ドムス化」「飼い慣らし」は、人間が単なる生産力として、あるいは繁殖のための存在として扱われるという、深く根源的な身体への暴力性をはらんでいるのだ。
特に示唆に富むのは、スコットが奴隷や捕虜の「管理しやすさ」を、彼らの「社会的つながりのなさ」に見出した点である。「捕虜は分散した場所や背景から獲得してきて、ふつうは家族から切り離されるので、社会的に解体ないし微粒子化されており、したがって管理も吸収も容易だった」。これは、現代社会の私たち自身の状況にも、痛烈な問いを投げかける。
人的つながりのなさゆえの奴隷としての管理しやすさ、つまり他者に頼れなくすることで逃げられなくする方法は、私的所有や核家族化、孤立を推し進めてきたいまの社会における、個々人の政治への参加できなさに通じてはいないか。現代のSNS疲れ、リアルなコミュニティの希薄化、自己責任論の蔓延などが、私たちを「微粒子化」し、国家や市場の管理下におきやすくしている可能性はないだろうか。
クラストルは、権力者が「空疎な語りとしての教訓的語り(discours edifan)」(『国家をもたぬよう社会は努めてきた』)によって自らの権力を「証立てる」と論じた。
これは、現代社会において、支配する側が「空気」を読ませ、被支配側が「忖度」するという「解釈労働」の不均等配分とも重なる。この構造は、個人の「自律性」を奪い、政治への「不参加」を促すメカニズムとして機能しているのではないか。私たちは、知らず知らずのうちに、国家やグローバル市場の都合の良い「飼い慣らし」の対象となっていないか。
「非-飼い慣らし」の自由を求めて
ジェームズ・C・スコットとピエール・クラストルの著作は、私たちが自明視する「進歩」や「文明」の物語がいかに恣意的で、支配的な視点から構築されてきたかを明らかにする。国家が必ずしも人類にとって最良の選択肢ではなかったこと、そして人々が常に国家からの離脱や、非国家的な生き方を探求してきた歴史があることを示してくれる。
現代社会では、AIやビッグデータによる「管理」の可能性が日々高まっている。しかも、それを管理するのはもはやスコットらの議論にあるような国民国家ですらなく、つかみどころのないグローバル資本市場であることはさらに問題視だろう。いずれにせよ、私たちの生活は、効率性や利便性の名のもとに、私たちの生活はますますデータ化され、監視され、最適化されようとしている。このような時代において、スコットやクラストルの問いかけは、私たち自身の「自律性」と「連帯」のあり方を根底から見直すことを促す。
私たちの「社会的幸福」とは、単なる経済的豊かさや物質的な充足だけではないはずだ。それは、他者との豊かな関係性の中に見出される「協働」や「共助」の精神であり、生命の多様性を尊重し、自然と共生する「非-飼い慣らし」の自由な生き方ではないだろうか。国家や市場の論理とは異なる、もう一つの可能性を追求すること。それこそが、私たちがこの複雑な時代を生き抜くための、新たな「道標」となるのかもしれない。
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