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アウシュヴィッツの残りもの/ジョルジョ・アガンベン

すでに3つの記事にわたり、ジョルジョ・アガンベンの著作『アウシュヴィッツの残りもの』を巡る思索を、異なる角度から試みてきました。
生とスペクタクルの狭間で――アガンベンとドゥボールが照らす「残りもの」の行方」では、現代社会における生のありようと、そこからこぼれ落ちる「残りもの」の問題を。「目的からこぼれ落ちる声──沈黙とケアのための倫理へ」では、証言不可能なものの声に耳を澄ます倫理の可能性を。「語りえぬ者としての人間──アガンベンとAI時代の証言」では、人間存在そのものが孕む語りえなさ、そしてそれがAI時代においていかなる意味を持つのかを探りました。

これらの考察を経て、いま一度『アウシュヴィッツの残りもの』というテクストそのものに立ち返り、アガンベンがそこで描き出す核心的な問いを、彼の他の著作との接続も視野に入れながら、より深く掘り下げてみたいと思います。本稿では、アウシュヴィッツという極限状況を生政治の観点からどう捉えるか、そして「証言する人間」と「むき出しの人間」という分割されつつも分離不可能な二重性、さらにはそこから見えてくる「作者」という存在の不可能性について考察します。


『アウシュヴィッツの残りもの』――沈黙の淵からの問い

ジョルジョ・アガンベンの『アウシュヴィッツの残りもの――アルシーヴと証人』(1998年、邦訳は2001年)は、20世紀最大の悲劇であるホロコーストを哲学的・倫理的に考察した著作です。本書の中心にあるのは、「証言」という行為の可能性と不可能性をめぐる問いです。アガンベンは、アウシュヴィッツの生存者たちの証言、とりわけプリモ・レーヴィの著作に深く依拠しつつ、そこで語り尽くせないもの、語り得ないものの存在を明らかにします。特に、収容所内で「回教徒(ムスリム)」と呼ばれた、人間としての尊厳を完全に剥奪され、生きながら死んでいるかのような状態に陥った人々は、真の証人でありながら、その経験を語ることができません。本書は、この「語りえぬもの」の沈黙に耳を澄まし、そこから人間とは何か、言語とは何か、倫理とは何かという根源的な問いを立ち上げる試みです。アガンベンの主著『ホモ・サケル』プロジェクトの一環としても位置づけられ、彼の思想の核心をなす重要な著作と言えるでしょう。

『アウシュヴィッツの残りもの』

本稿では、この『アウシュヴィッツの残りもの』というテクストが投げかける複数の問いを、特に以下の観点から考察します。第一に、アウシュヴィッツという極限状況を生政治の観点からどう捉えるか。第二に、「証言する人間」と「むき出しの人間」という分割されつつも分離不可能な二重性。第三に、アガンベンの別の著作『身体の使用』で展開される中動態の議論を手がかりに、証言する主体のありようを捉え直すこと。そして最後に、そこから見えてくる「作者」という存在の不可能性について論じます。

アウシュヴィッツ――生政治の究極的実験場

アガンベンが『ホモ・サケル』で展開した「剥き出しの生(nuda vita)」という概念は、『アウシュヴィッツの残りもの』を理解する上で不可欠な視座を提供します。古代ギリシアにおいて、ポリスの市民としての資格ある生「ビオス(bios)」と、単に生きているという生物学的な生「ゾーエー(zoē)」が区別され、後者は政治的領域から排除されていたとアガンベンは指摘します。

ギリシア人は、我々が生という語で了解しているものを表現するのに、単一の語をもっていたわけではない。彼らが用いていたのは2つの語で、その2つは共通の語源に帰することもできるが、意味の上からも形態の上からもはっきり区別されたものだった。ゾーエーとビオスである。ゾーエーは、生きているすべての存在(動物であれ人間であれ神であれ)に共通の、生きている、という単なる事実を表現していた。それに対してビオスは、それぞれの個体や集団に特有の生きる形式、生きかたを指していた。

『ホモ・サケル』p7

ミシェル・フーコーが近代の権力を「生権力(biopouvoir)」として捉え、それが個々の身体と人口全体の生を管理し統治する様態を明らかにしたことは周知の通りです。アガンベンはこのフーコーの議論を引き継ぎつつ、主権権力の根源には、この「剥き出しの生」を法的な保護の外に置き、殺害可能でありながら犠牲にはできない存在(ホモ・サケル)として生産するメカニズムがあると論じます。

そして、アウシュヴィッツとは、この「剥き出しの生」が剥き出しのまま権力と対峙させられる、例外状態が恒常化した空間に他なりません。

収容所とは、例外状態が規則になりはじめるときに開かれる空間のことである。

同p230

住人があらゆる政治的立場を奪われて完全に剥き出しの生へと還元されたということからして、収容所は、かつて実現されたことのない最も絶対的な生政治的空間でもある。そこで権力が向き合っているのは、まさに何の媒介もない純粋な生なのである。したがって、政治が生政治になり、ホモ・サケルが市民と潜在的には混同されてしまうという点で、収容所は政治空間の範例そのものなのだ。

同p233

アウシュヴィッツは、単なる歴史上の悲劇ではなく、近代国家の権力がその最も純粋な(そして最も残虐な)形で「剥き出しの生」を生産し、管理し、そして抹消する実験場であったとアガンベンは喝破します。それは、生きることと死ぬことの境界が曖昧になり、人間がたんなる「生きているもの」へと還元される場所です。この視点から見るとき、アウシュヴィッツは過去の出来事ではなく、現代の生政治的状況を理解するための、そしてそれに対抗するための思考の原点として立ち現れてくるのです。

分割されつつ分離不能な人間――証言の不可能性

『アウシュヴィッツの残りもの』の中心的なテーマは、「証言」の不可能性です。生き残った者たちは証言しますが、本当に「底に触れた」者、アガンベンが「回教徒(ムスリム)」と呼ぶ存在、すなわち「剥き出しの生」の極限を生き、もはや人間としての主体性を失った者たちは、証言することができません。

「本当」の証人、「完全な証人」は、証言したことがなく、証言しようにも証言することができなかった者である。「底に触れた」者、回教徒、沈んでしまった者である。生き残って証言する者たちは、さも証人であるかのような顔をして、かれらの代わりに代理として語る。生き残りたちの供述する証言は欠落した証言なのだ。

『アウシュヴィッツの残りもの』p42

ここに、証言をめぐる根本的なアポリアがあります。証言は、証言しえないものを中心に据えざるを得ない。この構造は、アガンベンがフルビネクという収容所の子供の例で示すように、言語そのものが孕む不可能性とも響き合います。フルビネクは、もはや意味のある言葉を発することができず、ただ「mass-kio」や「matisklo」といった音を発するのみです。

非-言語を言語が引き受け、非-言語のうちで言語が生まれるのだ。この証言されないものの本性について、証言されないものの非-言語についてこそ、問わなければならない。

同p49

言語は、それ自身が非言語的なもの、語りえぬものとの関係においてしか成立しえない。そして、証言とは、この二重の不可能性――証言者の不可能性と言語の不可能性――が出会う場なのです。

この「証言する人間」と「証言しえない人間(剥き出しの生)」の分裂は、しかし、決して完全に分離できるものではありません。アガンベンは、プリモ・レーヴィの「人間は人間のあとも生き残ることのできる者である」という言葉を敷衍し、この二重性が人間存在の本質的なありようであることを示唆します。

人間が生起するのは、生物学的な生を生きている存在と言葉を話す存在、非-人間と人間のあいだの断絶においてであるからである。すなわち、人間は人間の非-場所において、生物学的な生を生きている存在と言葉のおいたの不在の結合において生起するのである。人間とは自己自身に居合わせない存在のことであって、この自己喪失と、それが端緒を開くさまよいのうちに存在している。

同p183

人間は、常にこの分裂を生きる存在であり、その裂け目においてこそ、証言という行為が可能になると同時に不可能になるのです。

中動態的な主体――「使用」の痕跡をたどる

この証言する主体のありよう、すなわち能動的に語る主体と、語りえぬものの沈黙を内に抱える存在との間の緊張関係は、アガンベンが『身体の使用――脱構成的可能態の理論のために』で展開する「中動態(mesotes, middle voice)」の議論と響き合います。中動態とは、ギリシャ語の動詞の態の一つで、能動態(主語が行為を行う)でも受動態(主語が行為を受ける)でもなく、行為が主体自身に還帰する、あるいは主体が過程そのものに深く関与し、巻き込まれるような様態を指します。

アガンベンは、この中動態に、所有や支配に基づかない、より根源的な存在のあり方、生の形式を見出そうとします。彼は「使用(uso)」という概念を中核に据え、主体は対象を客体として「所有」するのではなく、それと関わり合う「使用」という経験のなかで、自己と世界を形成していくと考えます(このあたり私的所有とか、シェアリングエコノミーなどとの観点も交えて考えると有効)。

あらゆる使用はなによりもまずもってみずからの使用である。なにものかとの使用関係をに入るためには、わたしはそれ〔使用するという動作〕の影響を受けなければならず、わたし自身をそれを使用する者として構成しなければならないのだ。人間と世界とは、使用においては、絶対的かつ相互的な内在の関係にある。なにものかを使用するさいには、使用する者自身の存在がまずもっては使用されなければならないのである。

『身体の使用』p61

この「使用」の観点から見れば、証言する行為もまた、単なる能動的な「語り」としてではなく、より複雑な中動態的なプロセスとして捉え直すことができます。生き残った証言者は、客観的な真実を一方的に「語る」というよりも、むしろ語りえぬものの沈黙、経験の過酷さ、そして証言という行為そのものの不可能性に「巻き込まれ」「引き受けさせられ」ながら、かろうじて言葉を紡ぎ出す存在と言えるでしょう。彼/彼女は、完全に自律した能動的な語り手でも、単に体験を記録する受動的な媒体でもありません。むしろ、証言という出来事が生起する「場所」、その過程そのものになるのです。

アガンベンが『アウシュヴィッツの残りもの』で、「したがって、「わたしは話す」は、キーツにとっての「わたしは詩人である」と同じくらいに矛盾した陳述である」(p158)と述べる時、それはまさにこの中動態的な主体のあり方を示唆しています。「わたし」は言語を完全に所有し、それを道具として能動的に操るのではなく、むしろ言語の「非-場所」、言語の外部と内部が交錯する境界において、言語に「使用」されつつ、かろうじて「話す」という行為を成就するのです。この意味で、証言する主体は、常に自己の外部(語りえぬもの、他者、言語そのもの)との関係において、自己を形成し続ける存在なのです。

作者という不可能性――アルシーヴの裂け目から

この「証言する人間」と「むき出しの人間」の分割、そして中動態的な主体のありようというテーマは、さらに「作者(auteur)」という存在のあり方にも深く関わってきます。アガンベンは『アウシュヴィッツの残りもの』の終盤で、フーコーの「アルシーヴ」の概念を援用しながら、この問題を考察します。

アルシーヴとは意味をそなえたあらゆる言説のうちにそれの言表の機能として刻みこまれる非-意味論的なもののかたまりであり、あらゆる具体的な発話を取り巻いてそれを限界づける暗い余白である。

『アウシュヴィッツの残りもの』p194

アルシーヴとは、単に過去の記録の集積ではなく、「語られていないものと語られたもののあいだの諸関係のシステム」です。そして、主体(作者)とは、このアルシーヴの裂け目、語ることの可能性と不可能性が交錯する場所にしか存在しえません。

主体とは、言語が存在しない可能性をとおしてのみ、言語の周然性をとおしてのみ、言語が生起する可能性である。人間が言葉を話す存在であり、言話活動を有する生物であるのは、言語をもたないことができるがゆえのことなのであり自分の幼児期(in-fanzia, in-fans〔言葉を発することのできない状態〕)であることができるがゆえのことなのである。

同p196-197

作者とは、言語を完全に所有し、意味を自由に産出する超越的な存在ではなく、むしろ言語の限界において、語りえぬものとの緊張関係のなかで、かろうじて言葉を発する存在です。それは、まさに中動態的な主体が、自己と世界の「使用」のなかでかろうじて存在を刻印するように、アルシーヴの裂け目において、言語の「使用」を通して、何かを語りうる(あるいは語りえないことを示す)存在なのです。この視点から見れば、能動的で明確な、創造の起源としての「作者」という観念は解体され、むしろ作者は、テクストが生起し、意味が(あるいは意味の不在が)生成される「場所」や「過程」そのものへと組み込まれていくのです。

『アウシュヴィッツの残りもの』というキーストーン

アガンベンの『アウシュヴィッツの残りもの』は、アウシュヴィッツという歴史的悲劇を告発する書であると同時に、それ以上に、現代における「生」「言葉」「人間」「権力」といった根源的な問いを私たちに突きつける著作です。

生政治の実験場としてのアウシュヴィッツの分析は、現代の管理社会やテクノロジーによる生の変容を批判的に考察するための鋭い視座を提供します。「証言する人間」と「むき出しの人間」という分割、そして中動態的な主体のありようは、人間とは何か、言葉とは何かという問いを深め、安易なヒューマニズムや言語中心主義、そして単純な主体論に警鐘を鳴らします。そして、そこから導かれる「作者」の不可能性は、創造とは何か、表現とは何かという問いを、より根源的なレベルで捉え直すことを促します。

これらの問いは、AIが人間知を超える可能性が語られ、生命倫理が日々新たな課題に直面し、そして監視資本主義が私たちの生を覆い尽くそうとしている現代において、ますますその重要性を増しています。『アウシュヴィッツの残りもの』は、これらの複雑な課題群を貫く、まさに「キーストーン」のような役割を果たす著作と言えるでしょう。私たちは、この書物が投げかける問いを受け止め、そこからこぼれ落ちる「残りもの」の声に耳を澄まし続けることでしか、未来への道筋を照らし出すことはできないのかもしれません。

以上。57回目の誕生日に記す。


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棚橋弘季 Hiroki Tanahashi 基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。