荷を引く獣たち/スナウラ・テイラー
現代社会に深く根ざす「健常者中心主義」――この目に見えぬ規範が、いかに私たち自身の身体観、他者との関係性、さらには動物たちとの関わり方にまで影響を及ぼしているのか。スナウラ・テイラーの主著『荷を引く獣たち』(今津有梨訳、洛北出版、2023年)は、その深層を鋭く抉り出す一冊だ。本書は、障害学と動物学という一見異なる領域を横断し、健常者中心主義がもたらす抑圧と排除の構造を多角的に分析することで、私たちの「当たり前」を根底から問い直す。

健常者中心主義の多面性:障がい者と社会の構造
テイラーがまず明らかにするのは、健常者中心主義が、就職、教育、住宅アクセスといった具体的な制約から、身体的・精神的な「異常」としてのレッテル付け、さらには「自立」の強制といった抑圧的な固定観念まで、障がい者を取り巻く広範な問題を引き起こしている点だ。統計によれば、障がい者は世界人口の15〜20%を占める最大のマイノリティであるにもかかわらず、その存在は社会から「分散」され、見えにくくなっている。
健常者中心主義は、無数の形態の差別に通じうる障害者に対する偏見だ。差別は、就職や教育、住宅へのアクセスの制約から、障害者が周辺化されている状況を放置する抑圧的な固定観念や構造的な不平等まで、きわめて広範だ。健常者中心主義は差別と抑圧を引き起こすが、それと同時に、どんな身体をもつことが正常であり、どんなものに価値があって、どんなものが「本来的に否定的な」ものなのかをいかに決めるのかを指図する。
この見えにくさは、障がいが純粋に一個人の医療的問題として扱われ、社会・政治的問題として認識されないことに起因する。テイラー自身の経験を通して語られるように、身体的な限界を認識する瞬間の苦痛は、社会からの偏見によってさらに増幅される。なぜなら、健常者中心主義が「正しい身体」の基準を設け、そこから外れる存在を「恥ずかしい」ものと内面化させるからだ。
健常者中心主義を深く内面化しすぎて、外出するときにはいつも恥ずかしさがつきまとうかもしれない。あるいは、はなっから施設に閉じ込められてしまうかもしれない。
この自分の身体にかかわらず、自分のコントロールできない力に左右されることが「恥ずかしさ」につながるという話は、1つ前の記事で紹介した『アウシュヴィッツの残りもの』でアガンベンが指摘したことにも通じる。つまり、この障がい者の話しにもアウシュヴィッツ同様の生政治の影響が強くあるのは容易に想像ができる。
「アクセス可能性」という概念もまた、単なる物理的なバリアフリーに留まらない。それは、この社会が特定の身体を特権化し、それ以外の身体を排除するよう構築されてきた歴史的・政治的な問題に直結している。
〈障害の正義〉の活動家のミア・ミンガスが説くように、アクセスという問題は、障害に固有なものではない。「アクセス可能性という問題は、ちっとも目新しいものではない。アクセスはより幅広い仕方で、階級、言語、育児といった問題を含んで理解するよう努めることができる。ジェンダー中立のトイレがそのはじまりだ」。
障がい者が直面する暴力や市民権の侵害、貧困や教育機会の欠如は、社会の根深い抑圧構造の現れであり、その背景には、個人の能力や「正常さ」に基づいて価値を測る健常者中心主義のイデオロギーがある。
そして、同時にそれは白人至上主義の問題とも重なり、ジュディス・バトラーが指摘するような世界からの排除やそれへの抵抗手段としてのアセンブリの話にももちろんつながる。
人間と動物の境界線:搾取と商品化の連鎖
テイラーはさらに、この健常者中心主義が、人間のみならず動物の扱いにも深く関わっていることを指摘する。動物は「無能」な存在として、あるいは「非人間」として位置づけられることで、搾取や商品化が正当化されてきた。
この本は、障害と動物性(そしていかにそれらが交差しているのか)に注意を払わないことは誤りだと指摘する。なぜなら、いずれの概念も他の差異のカテゴリーに、そして貧困や監獄の問題から環境正義にかんする問題まで、抑圧された者たちが直面する社会正義の問題に、深く絡みあっているゆえに、単に周辺部へと追放して済ませることはできないからだ。
産業的畜産における動物の品種改変は、利益追求のために動物を「障害化」する行為として描かれる。彼らは効率のために過度に能力化される一方で、自らの身体に苦痛を強いられる存在となる。
これらの動物たちは、障害化されると同時に過度に能力化される (disabled and hyperabled-かれらは、産業に利益をもたらし費者を喜ばせるための、まさにその「改良」によって障害化されるからだ。
「障害化されると同時に過度に能力化される」という言葉ですぐに思い出されるのは、ラトゥールが長年指摘してきた「近代の分水嶺」が、人間社会(文明)と自然、西洋社会とそれ以外(主にグローバルサウス)を分割しつつ、決して分離することなく、前者か後者から搾取し続けるという構造だ。歴史を紐解けば、サイドショーでの人間や動物の展示、動物園の起源、そして植民地主義的実践が、人間と動物を「モノ」として扱い、搾取を正当化してきた共通の系譜にあることが示される。
人間は動物をモノのように自由に売買し、処分できる。したがって、誰かを動物と名指すことは、かれらをして人がどんな責務も感じる必要のない存在へ、どんな恥も感じることなくモノとして扱うことのできる存在へと仕立てあげる。
しかし、テイラーは単純に障がい者の問題と動物の問題を同一視するわけではない。ピーター・シンガーのような功利主義的動物解放論者が、障害を「克服すべきもの」と捉え、動物の苦痛を軽減することに焦点を当てる姿勢に対して、テイラーは批判的な視線を向ける。シンガーの議論は、結局のところ、障害を「否定的な何か」として前提にしてしまうため、障害が持つ創造性や肯定的側面を見過ごしてしまうからだ。
障害がこの世界に何か肯定的なものを与えることができるかどうか、わたしがシンガーに尋ねたとき、彼の答えは、葛酸について、克服について、そしてケアについて、人びとに教訓を与えてくれるかもしれないという、そもそも否定的な何かとして障害を想定するものだった。
障がい者の経験は、健常者中心主義の枠内で「苦痛」や「喪失」として内面化されがちだが、障害はむしろ、私たち自身の創造性や、世界を理解する新たな潜在力につながる場であるとテイラーは主張する。
わたしは、自分の障害をもった身体を、新しい仕方で世界と出会い、世界を理解する潜在力に満ちた創造的な場として考えることができるようになるのだ。
「正義の倫理」を超えて:「ケア」と「依存」の再考
障がい者の身体や生活、そして家畜の扱いに関する議論は、従来の「正義の倫理」だけでは捉えきれない問題を含んでいる。キャロル・ギリガンやネール・ノディングスらが提唱するフェミニスト的「ケアの倫理」は、この問題に新たな光を当てる。岡野八代の『ケアの倫理』が詳述するように、家父長制社会は「私的/公的」な領域を分断し、女性が担ってきたケア労働を私的な領域に閉じ込め、その価値を不可視化してきた。
家族制度こそが、私的/公的と分断されているかのように見える社会全体に、そして一人ひとりの個人へとこうした家父長制を浸透させるための、不可欠で中心的なしくみである。…家族によるこの切断が、男女領域の二分化そのものの政治性を見えなくしている。
シルヴィア・フェデリーチの『キャリバンと魔女』は、資本主義の「本源的蓄積」が、女性の再生産労働を強制し、囲い込みによって農村共同体を破壊し、女性を貧困と従属に追いやった歴史を明らかにしている。この過程で、再生産労働は市場経済から切り離され、「無価値」とみなされることで、女性は「不可視の労働者」となった。
労働者の再生産は経済的観点からは無価値なものとして考えられるようになり、労働とさえみなされなくなった。…女性は再生産労働に固定されただけでなく、国家と雇用者が女性の労働を統制するための手段として男性の賃金を左右できるようになり、女性の男性に対する依存を強めることとなった。
ようするに同じ排除と搾取の構造がある。しかし、実際は自立する者としていない(できない)者という単純な構造なのではなく、誰もが互いに依存しあい、影響を受けあっている。
テイラーは、身体的な介助を必要とすることすら「おぞましい」と見なす健常者中心主義の偏見に対し、障がい者自身の経験に基づき反論する。障がい者が自立できない存在であるという烙印は、他者が彼らを「重荷」と感じることから生まれるのだ。しかし、私たちはみな、多かれ少なかれ互いに「依存」しあう存在であり、「自立」の概念そのものが幻想であるという認識は、健常者中心主義が問い直すべき核心である。
依存してるのは家畜や障害者だけではない。誰もが何かに依存しなくては生きてはいけないのだから。そのことを忘れてしまっていることに大きな問題があるし、依存に気づかないくらい動物や排除した人から搾取しているのだから。
境界を越える視点:移民と障害、多元的世界への扉
トリン・T・ミンハの『ここのなかの何処かへ』は、人が世界を認識する際の「壁」の存在を指摘する。この壁は、特定の視点や価値観を優先し、それ以外の多元的な世界を沈黙させる。ミンハは、移民やディアスポラが直面する「家」や「言語」の固定化への問いを通して、境界線を越えた「移動」と「異種交配」によって新しい生き方が生まれる可能性を示す。
人が世界として認知するものは、ただその人のすぐ周りの世界にすぎない世界へのそのように制限され、序列化された接近法は、さらに高くて強力な壁に守られているので、彼方にあるものはしばしば寓話にすぎないとみなされる。
ミンハが言う「壁」は、物質的であると同時に象徴的な存在であり、排除と同時に「招き入れる」という両義性を持つ。それは、障がい者と健常者の間に引かれる境界線、あるいは人間と動物の間に引かれる境界線にも通じる。これらの境界線は、特定のアイデンティティや「正常さ」を確立するための政治的な操作によって築かれてきた。
人を排除するための高い壁は同時に人を招き入れるものともなる。外側と内側――これはまたしても殆ど二項対立としての用をなさな。検閲・分離のため、当局がどれほど飽くなき努力を重ねようと、このことは変えようがないのだ。
私たちは、いかにして多元的な見方を手に入れるのか?
スナウラ・テイラーの『荷を引く獣たち』は、健常者中心主義という見えない規範が、障がい者、動物、そして社会全体に及ぼす影響を包括的に分析する。そして、この健常者中心主義は、岡野八代が示す家父長制的な「正義の倫理」や、フェデリーチが明らかにする資本主義的搾取の歴史、そしてミンハが問いかける世界の認識の「壁」と、深く絡み合っていることが示される。
私のこれまでの読書記録でも、テイラーの議論は、落合陽一やスローターダイク、ラトゥール、クラストル、コッチャといった多様な思想家の視点と交差しながら、「ケア、権力、そして「家」の再考」というテーマでも取り上げてきた。
テイラーは、障がい者の身体性や動物性を含む私たちの多様な存在様式を、単なる欠陥や苦痛としてではなく、創造性や新たな関係性を生み出す源として捉え直すことを促す。そして、私たちは、固定観念や偏見を打ち破り、多様な存在が互いに依存し、支え合う世界をいかに構築できるのか、という根源的な問いを投げかける。
私たちが「自然」だと信じて疑わない身体や能力、そして社会の規範は、実は歴史的、政治的、文化的に構築されたものにすぎない。このことを認識し、一元的な「正常」の基準から解放されたとき、私たちは、異なる者たちとの親密性や交流、そして互いの脆弱性を受け入れ、共に新しい意味を創造する多元的な見方をいかにして手に入れることができるのだろうか。これが、テイラーが私たちに突きつける、最も重要な問いかけなのである。
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