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ケア、権力、そして「家」の再考:テイラー、落合、スローターダイク、ラトゥール、クラストル、コッチャをめぐる考察

今回は1つ前の記事「GWの読書におすすめの6冊」で紹介した本を合わせて考えてみる試みをしてみます。


はじめに

『荷を引く獣たち』のスナウラ・テイラーと『近代家族とフェミニズム』の落合恵美子さんが提起するケアの論点は、現代社会が抱える脆弱性と相互依存性の問題を鋭く描き出しています。いずれも家父長制的かつ一元的な正義によって疎外され表舞台からは隠された者たちの不平等によって成立している現代社会の構造を描き出したものです。
これらの家父長制的かつ植民地主義的な社会とその問題が生成される過程を、ペーター・スローターダイクとブリュノ・ラトゥールの議論を対比させながら深く掘り下げてみました。
そこから、さらに『国家をもたぬよう社会は努めてきた』におけるピエール・クラストルの「国家」権力への抵抗の視点と接続し、国家権力は必然的なものでは決してないことを見つつ、最後にエマヌエーレ・コッチャの示す新しい「家」の可能性を探ることで、ケアをめぐる複合的な課題とその超克への道筋を考察しています。

1. ケアの論点:脆弱性の可視化と構造的問題

スナウラ・テイラーは、『荷を引く獣たち』で、自身の障害を持つ身体経験を基点に、健常者中心主義(エイブリズム)と種差別(スピーシズム)の根源的な繋がりを指摘しています。彼女にとってケアは、一部の「依存的」な存在にのみ必要なものではなく、あらゆる生が本質的に脆弱であり、相互依存関係の網の目の中でしか成り立たないという普遍的な事実を明らかにします。
「ケアをめぐる考察」などで展開される議論の中心は、自律性や独立性を過度に理想化する近代的な主体観が、障害者や動物といった「ケアを必要とする」存在を不可視化し、搾取する構造を生み出しているという批判です。これは後で議論される女性からの搾取、植民地からの作詞、地球からの搾取でも同様の構図が見られます。ケアを必要とする弱いものを保護する、改善するという名目でどれだけ多くの搾取が生まれ、維持されているか、その構造があらゆるところにあることがわかります。
そうしたフィルターを取り除いて見た場合、ケアは単なる労働ではなく、生そのものの根源的な関係性です。テイラーはそこにある政治性を問い直す必要性を訴えます。この問題は、特定の個人や集団の属性に還元されるのではなく、自律神話に基づいた社会システムそのものの欠陥として捉えられます。

落合恵美子さんは、主にジェンダーとグローバル化の視点からケア労働の問題を分析します。「ケアの社会学」や「21世紀家族へ」といった著作で、近代家族モデル(男性稼ぎ主・女性専業主婦)の機能不全と、それに伴うケアの担い手の変化(高齢化、女性の社会進出、ケアの外部化・商品化)を論じてきました。特に、グローバルなケアチェーン(先進国のケア労働を途上国の女性移民が担う構造)に見られるように、ケア労働が低賃金で不安定な労働として、ジェンダー、階級、人種といった複合的な権力関係の中で周縁化され、搾取されている実態を明らかにします。まさにテイラーが明らかにした構図と重なります。
ここでの問題は、生産労働(市場価値を持つ)と再生産労働(ケアなど、市場価値が見えにくい)の分離と、後者の著しい過小評価という、資本主義と家父長制が交差する地点に生み出された構造的な不正義なのです。

テイラーと落合さんは、異なる角度からではありますが、ケアが特定の人々の問題ではなく、社会全体の構造と価値観に関わる根源的な課題であること、そしてその現状が権力関係による搾取と不可視化によって成り立っていることを共通して示していると言えます。

2. 問題生成の過程:近代の構想とその破綻

テイラーや落合さんが指摘するケアの問題が、なぜ現代においてこれほど顕著になったのか。その生成過程を理解するために、スローターダイクとラトゥールの議論が有効です。両者は近代の自己理解とその実践を批判的に検討しますが、そのアプローチは対照的です。

ドイツの哲学者、ペーター・スローターダイクは、『水晶宮としての世界』や『球体(スフェーレン)』三部作などで、人間存在を「空間形成的な存在」として捉え、親密圏(ミクロスフェール)から共同体、国家、グローバルな空間(マクロスフェール)へと至る「球体」の生成と変容の歴史を描いてきました。彼によれば、人間は常に自らを取り囲む「免疫的」な空間、つまり安心や所属感を提供する「内側」を作り出すことで生きてきました。家族や地域共同体といった伝統的な「球体」は、ケアや相互扶助の場として機能していましたが、近代化(特にグローバリゼーション)は、これらの親密な球体を解体・希薄化させ、個人を剥き出しの競争空間へと放り出したといいます。
スローターダイクの観点から見れば、ケアの問題は、近代が生み出した巨大で抽象的なシステム(国家、市場)が、かつて親密圏が担っていたケアや免疫の機能を十分に代替できていない、あるいは新たな排除や脆弱性を生み出していることの現れです。「人間主義」的な普遍性を謳いながらも、実際には「内側」と「外側」を峻別し、特定の存在(彼が言うところの「人間飼育」の対象)を管理・操作する「人間技術(Anthropotechnik)」が近代を特徴づけており、これがテイラーの言うエイブリズムや、落合さんの指摘するケア労働の周縁化の背景にあると考えられます。近代は、より大きく、より包括的な「球体」を作ろうとした結果、その内部のケアや相互扶助の絆を脆弱化させてしまったのです。

ブリュノ・ラトゥールは、近代の根本的な誤謬を「浄化(purification)」と「翻訳(translation)/ハイブリッド化(hybridization)」の二重運動に見出します。近代は、自然と文化、人間と非人間(モノ、技術、動物、微生物など)、主体と客体を明確に分離、「浄化」しようと努めてきました。しかし、現実には常に両者は複雑に絡み合い、「翻訳」され、ハイブリッドなネットワーク(=アクタ−ネットワーク)を形成しています。近代はこの現実のハイブリッド化を否認・隠蔽してきた、というのがラトゥールの一貫した主張です。

このラトゥールの視点からケアの問題を見ると、それは近代が「人間」という領域を過度に純化し、その生存を支える非人間(技術、環境、動物、身体の物質性など)や、人間間の複雑な依存関係(ネットワーク)を無視・不可視化してきたことの帰結ということになるでしょう。『ガイアに向き合う』で展開された「地球の反撃」という政治的な側面は、まさにテイラーや落合さんがケアを個々人や家族といった私的領域の問題ではなく、公的かつ政治的な問題であると主張することとも符合します。
テイラーが強調する人間と動物、身体と環境の連続性や、落合さんが分析するケア労働を支えるグローバルな人・モノ・情報の流れは、まさにラトゥール的な「ネットワーク」の現実を示しています。ケアの危機は、この現実のネットワークに対する配慮(care)の欠如、つまり、人間中心主義的な「浄化」思考によって、相互依存の網の目を適切に「構成(compose)」できなかったことの現れと言えます。テイラーのエイブリズム批判は、まさに人間/非人間(障害のある身体)の境界を固定化する「浄化」への異議申し立てであり、落合さんのケアチェーン分析は、隠蔽されたグローバルな「翻訳/ハイブリッド化」の現実を暴くものです。

対比と接続:

スローターダイクは空間的・免疫学的メタファーを用いて近代による親密圏の解体と抽象化を問題にし、ケアの場の喪失を指摘します。一方、ラトゥールは存在論的・ネットワーク論的観点から、近代の二元論的思考(浄化)が現実の複雑な相互依存関係(ハイブリッド)を捉え損ね、管理不能な問題(ケアの危機、環境問題など)を生み出したと論じます。両者ともに、自律した個人の神話や人間中心主義といった近代の自己理解が、現実の生が依存する関係性や環境を損なってきたことを示唆しており、テイラーや落合さんが描写するケアの問題の根源を説明する枠組みを提供します。

3. 権力への抵抗:国家なき社会の知恵

ここでピエール・クラストルの議論を接続することは、ケアの問題を権力構造との関係で捉え直す上で示唆に富みます。『国家に抗する社会』でクラストルが描いた南米の「原始社会」は、首長のような権威者は存在しても、権力が個人の上に固定化・強制力を持つことを積極的に拒む(抗する)メカニズムを備えていました。戦争でさえ、権力集中を防ぐ遠心力として機能していたとされます。
クラストルの視点は、テイラーや落合さんが批判するケアの周縁化や搾取が、単なる近代システムの機能不全ではなく、権力の集中と固定化を本質とする「国家」的な論理(市場原理も含む)そのものに根差している可能性を示唆します(クラストル自身、国家を持たない社会においても、性差的な搾取の論理が働いていたことを否定はしてはいませんが)。ケア労働の低評価や、障害者・動物の権利軽視は、効率性、生産性、自律性といった「国家」的/市場的な価値観が、相互依存や脆弱性といったケアの価値を組織的に排除・抑圧するプロセスと見ることができます。スローターダイクの言う「球体」の巨大化や、ラトゥールの言う「浄化」によるネットワークの否認も、ある種の権力の一元化・集中化の現れと解釈だったのと同様に。
クラストルの社会が実践した「国家に抗する」姿勢は、権力集中が生み出すであろう排除や搾取(ケアの担い手やケアを必要とする存在への)を未然に防ぐ知恵として読み解くことができるかもしれません。それは、ケアが本来持つべき関係性の平等性や相互性を、権力の非対称性に回収させないための社会的な工夫と言えるのではないでしょうか。

4. 新しい「家」の可能性:混合と変容の哲学

これらの議論を踏まえて、『家の哲学』を中心としたエマヌエーレ・コッチャの示す新しい「家」の可能性を読み解くと、ケアと権力の問題を根底から捉え直すラディカルな視座が得られるように思います。『メタモルフォーシス』や『植物の生の哲学』などで展開されるコッチャの思想は、生とは本質的に「混合(mixture)」であり、「変容(metamorphosis)」であるという洞察に基づいているからです。

コッチャにとって、「家(home)」とは、特定の境界線で囲まれた閉鎖的な空間(スローターダイク的な初期の球体)ではありません。むしろ、地球そのものが、あらゆる生物種、物質、情報が絶えず浸透し合い、相互に影響を与えながら変容していく、巨大で流動的な「家」であると捉えることができることも示唆されます。それはラトゥールの「ガイア」にも通じます。個体や種といった境界は相対的なものであり、生は常に他者との接触、呼吸、食事、交配などを通じた「混合」によって成り立っています。この視点も踏まえると、ラトゥールのネットワーク論をさらに推し進め、存在そのものが関係性であり、流動的なプロセスであることを強調していると言えます。

このコッチャ的な「家」の概念は、ケアの議論に以下のような新たな光を当てます。

  1. 脱-人間中心主義と包括性: コッチャの「家」は、人間だけでなく、動物、植物、微生物、さらには大気や水といった非生物的な環境要素までをも等しく構成員として含みます。これは、テイラーが訴える種差別の超克や、ラトゥールが強調する非人間のアクタンシー(行為能力)を、より根源的な生の次元で肯定するものです。ケアの対象は人間社会内部に限定されず、惑星的なスケールでの生の相互依存へと拡張されます。

  2. 境界の流動性と相互浸透: 固定的な自律性や独立性という近代的な理想は、コッチャの哲学では成り立ちません。生は本質的に他者に依存し、他者と混合することでしか存続できないからです。これは、テイラーが強調する普遍的な脆弱性と相互依存を存在論的に裏付けるものです。ケアは、弱者への一方的な施しではなく、あらゆる存在が関与する、生命維持のための根源的な相互作用・混合プロセスとして理解されます。

  3. 権力構造の相対化: コッチャの流動的で混合的な「家」のイメージは、クラストルが抵抗したような固定化された権力構造や、スローターダイクが問題視した巨大なシステムの排他性を相対化します。中心/周縁、支配/被支配といった二元論的な権力関係は、絶えざる変容と混合という生の現実の前では絶対的なものではなくなります。ケアの価値を低く見るような権力的な価値体系そのものが、生の現実から乖離したものとして問い直されます。

  4. 新しい共同性の基盤: 落合さんが指摘する近代家族モデルの限界やグローバルなケアの不均衡に対して、コッチャの「家」は、血縁や国民国家といった従来の共同性の枠組みを超えた、惑星的なスケールでの「共生の感覚」の基盤を提供する可能性があります。それは、私たちが呼吸する空気、飲む水、食べる食物を通じて、文字通り他者や環境と「混合」しているという事実に根ざした共同性です。

結論

テイラーと落合さんは、現代社会におけるケアの危機が、単なる個別問題ではなく、自律神話、人間中心主義、資本主義、家父長制といった近代が生み出した構造的な権力関係と価値観に深く根差していることを示しました。スローターダイクとラトゥールは、それぞれ空間論的、存在論的アプローチから、近代の構想自体がどのようにしてこの危機を生み出すに至ったのかを解明しました。スローターダイクは親密圏の解体と免疫システムの変容を、ラトゥールは人間/非人間の分離という近代の根本的な誤謬を指摘しました。クラストルの視点は、これらの問題の根底にある権力集中への抵抗という視角を与えてくれます。

そして、コッチャの示す新しい「家」の概念は、これらの問題を乗り越えるための哲学的基盤を提供する可能性を秘めています。それは、人間中心主義を超え、あらゆる存在の相互浸透と変容(メタモルフォーシス)を肯定する、惑星的なスケールの「混合の家」です。この家では、ケアは特定の存在に付随する負担ではなく、生そのものを成り立たせる根源的な相互作用であり、脆弱性と相互依存は普遍的な生の条件として肯定されます。このような「家」の感覚を共有することは、既存の権力構造や価値観を問い直し、より公正で持続可能なケアのあり方、ひいては新しい共生の様式を構想するための重要な一歩となるでしょう。それは、閉鎖的な「球体」でも、断絶された「ネットワーク」でもなく、流動し、浸透し合う、惑星的な「生の住処」としての「家」を再発見する試みと言えるのでしょう。


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棚橋弘季 Hiroki Tanahashi 基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。