耽美派の歌【カフェ浪漫主義37】
我が谷戸の楽園に百花の咲き競う闌春の頃に、春陽の差す窓辺の席でぼんやりと耽美派の古書でも眺めるのは至福の時だろう。私のお気に入りは谷崎潤一郎の和歌の家集だ。
谷崎潤一郎の歌は当時の大衆化、前衛化しつつあった歌壇と全く関係なく、和歌千年の本道を守り孤絶の高みに達していたと思う。

文台 明治大正頃
『谷崎潤一郎家集』は戦後にまとめられた彼の生涯ただ一冊の歌集で、どの短歌結社にも属さず世間に発表もせず、古典だけを指針に詠み続けて来た中の主要作を選び抜いている。
彼は戦前芥川龍之介が己の文芸の芸術性に悩んでいた時に「詩的精神を発揮したいなら和歌や詩でやれば良い」と語っているように、自分自身は売文業の小説と好きに詠める詩歌を割り切って考えていた。
和歌だけが己の芸術性を存分に発揮できる文芸だったのだろう。
よき人のよき衣付けて寄つどふ
都の嵯峨の花さかりかな
やま里は桜吹雪に明暮れて
花なき庭も花ぞ散り敷く
写真の短冊では一部が違うが、家集に載っている形を紹介しておく。いずれも戦後の歌壇全体が前衛に走り捨ててしまった典雅な伝統美を、彼一人で受け継いだような和歌本道の名唱だと思う。
耽美派の一方の雄、川端康成の『千羽鶴』では志野の水指や茶碗が女性美の象徴として物語の重要なモチーフとなっている。

志野湯呑 加藤健 菓子皿 清水六兵衛
黄瀬戸水差残欠 桃山〜江戸初期
鎌倉の茶道師範の母娘を主人公にした物語で、やはり日本の伝統美の世界を描いている。
ただ、川端自身が志野を深く愛でていたとは思えない少々俗な描写もあり、三島由紀夫が後の書評でその辺を語っている。
ただ上品なだけだった物事が俗な情欲との格闘の末に、その先にある壮絶な美にまで昇華し得たと言う訳だ。
川端は三島にとっての大恩人だから、必死に庇った評なのかもしれない。まあ、プロの小説家は売れなければ話にならず、大衆受けする俗な場面も必要だから敢えて恥じる事でも無いだろう。
川端は当時の作家の中では一級の審美眼を備えていた人だが、戦争を挟んだために本格的な伝統美に触れる機会はそう多くはなかったのが惜しまれる。
後に書いた『古都』の執筆時には京都に家を借りて住み、その伝統美意識への理解もじっくりと深めたようだ。
また、晩年から始めた書の手習いも影響し、日本美への愛惜の情は年々強まったのだろう。
彼の机辺には常欠かさず貰い物の高級クッキー缶が置いてあったとどこかで読んだが、今のコンビニのクッキーの味は当時の高級輸入菓子より遥かに上だ。
私も地元の大作家への御供物にと古い清水六兵衛の菓子皿にそのコンビニクッキーを乗せ、火色の出ている上作の志野の湯呑に添えた。
志野の肌に火色を出す技術は戦後間も無い時期には偶然の窯変以外には困難で、昭和も終わる頃からようやく開発された物だ。
花入は菜の花の色にも合う桃山黄瀬戸の水差の残欠を使えば、失われゆく日本の伝統美の残滓として想いをひときわ深めてくれる。
モリコーネが音楽で表現したのも耽美でノスタルジックな世界だった。セルジオ・レオーネが監督した『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』の「デボラのテーマ」は特に美しい。
この曲はヴォカリーズが入るオリジナル版とヨーヨー・マのチェロ版が有名だが、原曲メロディーの美しさを最大限に引き出しているのはこのヴァイオリン版だと思う。名手マルコ・セリーノが演奏するヴァイオリンが高音部に瑞々しい弾力を生み出し、古き良き時代を鮮烈に喚起させる。
この曲を聴いて、ジェニファー・コネリーが少女時代を演じた「デボラ」のバレエのシーンや哀愁漂うニューヨークの街を思い出す人も多いだろう。
川端の『古都』も山口百恵を主演に市川崑が映画化していて、物語はともかく、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』と比べても遜色のない映像美だった。
いきなり和歌や陶芸の深遠な美しさに到達することは難しくても、映像や音楽を手掛かりにその痕跡を辿ることはできるだろう。
