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【短編】元暗殺犬の私が、オモシロ中年から「温もり」を学んだ件

凍てつく街の暗殺犬と、招かれざる客

札幌の三月。それは、生と死が、泥濘(でいねい)の中で最も醜く、そして最も鮮烈に入れ替わる季節だ。

私は、黒ずんだ雪の塊が立ち並ぶ大通公園の隅で、冷えたコンクリートに腹をつけていた。かつて私は、東欧の暗殺組織『NOTE』に牙を研がれた暗殺犬だった。音もなく標的の頸動脈を切り裂き、熱い血を雪にぶちまけることだけが存在理由だった。今は違う。私はこの札幌の、ゴミ溜めと排気ガスにまみれた街路を根城とする野良犬たちの「ボス」だ。

耳に届くのは、どこかの店先で氷を砕くスコップの音。「ざくっ、ざくっ」というその乾いた響きは、かつて私が人間の骨を砕いた時の感触に似ていて、少しだけ昔の傷が疼いた。

その時だ。私の鋭敏な嗅覚が、奇妙な「匂い」を捉えた。 公園のベンチに、一人の「オヤジ」が座っていた。著作権的に問題のありそうな上着に、ミントグリーンのハワイアン柄のステテコ。牙を抜かれた群れの構成員のような風体だ。

書き換えられる世界――絶望の極寒と、歓喜の灼熱

だが、ヤツを取り巻く「気」が、狂っていた。 私は木立の影に身を潜め、金色の瞳でヤツを凝視した。ヤツは深く、重いため息を吐き出した。 その瞬間、私の全身の毛が逆立った。

ふぁっ、と吐き出されたヤツの息が、マイナス20度の極寒の朝のように、濃く、白く濁った。それだけではない。ヤツの足元の雪解け水が、「ピキピキッ」と異音を立て、瞬時にガラスのような氷へと変貌したのだ。 三月の柔らかな陽光が降り注いでいるというのに、ヤツから半径数メートルほどの空間だけが、まるで死体安置所のように冷え切っている。

(なんだ、あいつは……?)

殺気ではない。それは、魂が凍りついた時に放たれる、純粋な「絶望」の温度だった。暗殺犬として多くの死を見てきた私ですら、これほどまでに純度の高い「冷気」は知らなかった。

だが、異変はそれで終わらなかった。ヤツのポケットでスマートフォンが震えた。画面を覗き込んだ顔が、まるで雷に打たれたように跳ね上がった。 次の瞬間、私の鼻を突いたのは、焦げ付くような「熱」の匂いだった。

凍てつく空気は一瞬で爆散し、今度はヤツの身体から、真夏の舗装道路で見かけるような強烈な陽炎が立ち上った。ベンチを包んでいた氷が、悲鳴を上げるような速度で溶け、滴となって地面に吸い込まれていく。 ヤツから放たれる圧倒的な「歓喜」の熱気が、周囲の冬を暴力的に終わらせていた。私の分厚い毛皮を通り越し、肌にまでその熱が突き刺さる。

(心の動きが、そのまま世界の温度を書き換えている……)

悲しめば周囲を氷河期に変え、喜べば灼熱を呼び込む。ヤツは歩く「気象兵器」か、あるいは神の悪戯か。そんな存在が、くたびれた中年男の皮を被って、私のテリトリーに座っている。

三度目の変化、そして「春」を求めた越境

ヤツは、まるで足取りに羽が生えたかのように立ち上がると、近くのコンビニへ向かった。数分後、ヤツが戻ってきたとき、その大きな手には一本の「アイスバー」が握られていた。

(この気温の乱高下の中で、さらに冷たいものを食うのか)

サクッ、という軽快な音が、春の重たい空気に響く。 アイスを頬張るヤツの顔からは、劇的な熱気も、凍てつく冷気も消えていた。そこにあるのは、ただ「うまいなあ」と独り言を漏らす、無防備で穏やかな、一匹の生き物としての顔だった。

すると、ヤツの身体から放たれる空気が、三度目の変化を見せた。 それは灼熱でも酷寒でもない。淹れたてのミルクティーから立ち上る湯気のような、あるいは日だまりでまどろむ子犬の腹のような、ぽかぽかとした「春の温度」だった。

その優しくて柔らかな熱が、風に乗って、私の傷だらけの鼻先を掠めた。かつて「組織」で氷のように冷やし、野良として生きる中で凍りつかせてきた私の心臓が、内側からじんわりと温まっていくのを感じた。

冷たいアイスを食いながら、街で一番温かい空気を生み出している男。その矛盾が、暗殺犬として生きてきた私には、どうしようもなく眩しかった。 ヤツの横を、小さな人間の子供が走り抜けていった。子供はパッと顔を輝かせ、「あったかーい!」と笑った。ヤツが放つ「温かい空気のカーテン」が、一瞬だけ、その子の未来を温めたのだ。

言葉も、噛み跡も必要ない。ただ、そこにいるだけで他者を温めることができる。そんな「力」があることを、私は初めて知った。 やがてヤツは、満足げな溜息を吐き出すと、地下鉄の駅へと消えていった。

(……試してみる価値はあるな)

私は身を起こした。暗殺犬として磨き上げた隠密スキルは、この平和な街のコンビニエンスストアに侵入するには過剰すぎるほどだ。自動ドアが開く一瞬の隙を突き、私は店内の冷凍ケースへと滑り込んだ。狙うは、あの男が食べていたような、この季節の「祝祭」だ。

私は陳列されたアイスの中から、一本のアイスバーを素早く咥え取った。店員の「あ、コラ!」という声を背中に聞きながら、私は脱兎のごとく表へ飛び出した。

噛み砕いた氷の先に、見つけた温もり

向かったのは、ヤツが去った後の、まだ微かな温もりが残るあのベンチだ。

周囲の空気は、依然として三月の刺すような冷たさを孕んでいる。だが、私はあえてその寒空の下、盗み出したアイスバーの包みを器用に引き裂いた。そして、冷え切った一本の塊を、ガリリと力強く噛み砕いた。

「――っ」

脳を突き抜けるような冷たさが口内に広がる。だが、不思議なことが起きた。 冷たいアイスを胃に流し込んでいるはずなのに、私の胸の奥から、経験したことのない熱がじわじわと溢れ出してきたのだ。それは、かつて「組織」で凍りつかされた私の心臓を、内側から溶かしていくような感覚だった。

ただ「おいしい」と感じ、この静かな時間を享受する。そんな当たり前のことが、これほどまでに心を温めるとは知らなかった。アイスを食べているはずの私の身体から、今、ヤツと同じような、柔らかな「春の温度」が放たれているのを自覚した。

冷たいアイスを、冷たい空の下で食べる。その矛盾こそが、札幌の長い冬を生き抜いた者たちに許された最高の贅沢なのだ。

私は満足げに最後の一口を飲み込み、空を見上げた。西の空が薄紅に染まり、ビルの影が長く伸びていく。 私の前足は、もう以前のように冷たくはなかった。氷が溶けて水になり、川となって流れ出すように、私の中の「野良犬としての誇り」と「生への渇望」が、静かに、けれど熱く脈打ち始めている。

明日からの世界は、きっと少しだけ、「春」の色に変わるだろう。私は立ち上がり、雪解け水のように軽快な足取りで、自分の縄張りへと帰っていった。


あとがき
本作は以下のNote投稿を元に執筆しました。合わせてお読み頂くと、より本作が楽しめ(るかもしれません)ます。


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