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「努力不足じゃなかった」35歳で知ったASD・ADHD。精神保健福祉士として活動するまでを振り返る


「なぜ、周囲と同じようにできないんだろう」

独特な発想でクラスの人気者だった少年時代から一転、社会人になると「暗黙のルール」という見えない壁にぶつかったシンさん。どれだけ努力しても埋まらない周囲とのズレに、20代の彼は自分を極限まで追い込んでいました。

シンさんがASD(自閉症スペクトラム)・ADHD(注意欠如・多動症)の診断を受けたのは、35歳のとき。
「生きづらさの正体は、努力不足ではなかった」と知ったあの日から、どのように人生を見つめ直し始めたのか。

現在は精神保健福祉士として、同じ境遇で悩む方に向けてnoteで発信を続けるシンさんに、特性を理解し、自分を活かす道について伺いました。

シン (精神保健福祉士 / ライター)

仙台の国立大学卒業後、上京。新卒で入社した会社では、社会の「暗黙のルール」に適応できず、生きづらさを感じ始める。転職を繰り返した後、35歳でASD・ADHDの診断を受けた。自身の経験から支援の道を志し、働きながら精神保健福祉士の資格を取得。現在はnoteにて当事者かつ精神保健福祉士の視点で情報を毎日発信。継続日数は2100日を超える。フォロワーは1000人以上。



独特な発想で笑わせた小学生時代、周囲とのズレを感じ始めた思春期へ


ーまず、抱えていらっしゃるASD・ADHDについて、シンさんのご状況も含めて教えていただけますか?

シン:一般的に、ASDは「自閉症スペクトラム」と呼ばれています。昔はアスペルガー・広汎性発達障害など細かい名称に分類されていましたが、最近では重度〜軽度までをグラデーションとして捉え「自閉症スペクトラム」という総称に統一されました。
症状は人によって異なります。IQに問題はなくても対人コミュニケーションが苦手な方、特定の物事に対する強いこだわりがある方などがその一例です。

ADHDは「注意欠如・多動症」と呼ばれ、落ち着きがない・忘れ物が多い・焦りやすいなどが代表的な症状です。「授業中に教室を歩き回ってしまうような生徒」というとイメージがつきやすいでしょうか。

「大人の発達障害」という言葉が注目され始めたのは2010年頃で、私が20代頃までは性格の問題・集中力がないと片づけられがちでした。私自身も、当時は自分の欠点として受け止めていました。


ー分かりやすいご説明ありがとうございます。では、幼少期から振り返っていこうと思います。小学生の頃は、どんな少年でしたか?

シン:変わった発想をする子どもでした。とある授業で、手足が異様に長い妖怪を描いたところクラスメイトが大爆笑したことがあって、そこから「もっと面白いものを描いてみよう」という気持ちが膨らんでいきました。
四コマ漫画を描いて友達に見せると笑ってくれたこともあり、純粋に楽しかったです。
今思えば、この頃からASD・ADHDの特性が顔を出していましたが、周囲からは「おもしろい」「発想が独特」と肯定的に受け取られることが多かったです。


ー中学生に成長するにつれて、変化はありましたか?

シン:中学生になると、周りとのズレを少しずつ感じるようになりました。例えば、部活動です。「部活を頑張るのが当たり前」という空気のなか、私にはその当たり前が分からなかったんです。しぶしぶ入部はしましたが、続ける気持ちにはなれず幽霊部員でした。 



ーそのことを、誰かに相談したりしましたか?

シン:両親に「なんで部活に行くの?」と聞いたことがあります。すると「無理して行かなくてもいいよ」とあっさり言ってくれて。その一言で「行かなくていいんだ」「自分の考えはおかしくないんだ」と思いました。

両親以外にも、国語の先生に相談したこともありました。すると先生は「じゃあシンくんは何がしたい?」と聞かれ、私は「文章でも書いてみます」と答えたんです。試しに短いエッセイを書いて提出したところ、とても褒めてもらえました。感想を伝えてくださるのが嬉しくて、そこからエッセイを執筆しては先生に見せるというやり取りが続いたんです。先生は毎回快く感想を伝えてくれて、交換日記をしているような気分でしたね。当時はそれが特別な経験だとは思っていませんでしたが、いま振り返ると、初めて文章を褒めてくれた大人でした。


ー高校時代は、どんなふうに過ごしていましたか?

シン:高校2年生になると両親から「受験勉強をしなさい」と言われるようになり、生活が一変しました。私は視覚優位の記憶力があり、黒板を見るだけでその内容を写真のように脳内に残すことができるんです。そのため勉強に苦労することはさほどありませんでしたが、両親からの「もっと勉強しなさい」という圧力に焦り、自分を追い込むようになりました。
その結果、首に痙攣が起きたり、授業中も落ち着かなくなったり、その後うつ状態になってしまいました。特性の問題というより、自分で自分を追い詰めてしまったんだと思います。
どれだけ得意なことでも、頑張り方を間違えると崩れてしまう。その現実を突きつけられた時期でした。


ー大学進学後も、影を落としたままだったのでしょうか?

シン:うつ状態になりつつも仙台の国立大学に現役で合格しましたが、希望していた東京の大学には進学できませんでした。大学4年間は「東京に行けなかった」という悔しさが残り続けましたね。当時はテレビやお笑いが大好きだったので、東京の大学ならメディア系のアルバイトにも挑戦できると思っていたんです。実際に高校時代の同級生がテレビ局のアルバイトをしたり、好きな世界に飛び込む姿をみると「自分は遅れてる」と焦り、劣等感でいっぱいでした。


大学時代にアメリカ・ロサンゼルスに滞在していた頃の写真



診断がつかないまま社会人へ、限界まで追い込んだ20代



ー小学校〜大学生までは、性格の問題として捉えてきた特性。社会人になってから、生きづらさを感じ始めたきっかけを教えてください。

シン:きっかけは、社会人1年目です。大学時代に抱いていた東京への憧れもあり、就活では上京することを目標に、東京に本社がある会社を受けました。念願の東京勤務が決まりましたが、そこで「社会のルールに適応できない」という現実に直面したんです。

社会人になるまでは同世代の友人と接することが多かったので、コミュニケーションの難しさを感じてこなかったんですよね。でも社会に出ると、ひと回り以上歳の離れた上司や役員・取引先の方々と仕事をすることとなります。すると、会話の行間や曖昧な指示が理解できない自分に気づきました。同期が当たり前にこなしていることが、自分にはできなかったんです。


ー具体的に「うまくいかない」と感じたのは、どんな場面だったのでしょう?

シン:例えば「あれやっといて」の「あれ」が分からないんです。補足説明や順序、背景を説明されないと、動けない。他にも、電話対応と目の前のタスクを同時に進められなかったり、仕事の優先順位を考えるのに時間がかかったり。「なんでこんなこともできないの?」と言われる場面が多く、次第に自信がなくなっていきました。

一方で同期は上司とうまく付き合い、麻雀に行ったり寮生活になじんだりしていたので、その姿を横目でみながら「なぜ自分だけがうまくいかないのか」と焦りが膨らんでいました。
努力不足なのか、理解力が低いのか、いや性格の問題?努力してもうまくいく兆しが見えず、説明のつかない苦しさがありましたね。



ーなかでも一番ストレスになっていたのは、どんなことでしょうか?

シン:最もストレスだったのは「社会の暗黙のルールがわからないこと」でした。例えば、その会社では「寮に入る」という暗黙のルールがあったんです。しかしその寮は会社から遠く、近場かつ自分に合った環境で生活したいと思い、一人暮らしを申し出ました。しかし上司からは「寮は絶対」「決まりだから」と言われただけで、納得できる理由が分からなかったんです。私は理由のないルールを受け入れることが、どうしてもできませんでした。結局、自己判断で寮を出て一人暮らしを始めましたが「自分勝手な社員」とレッテルが貼られ、社内で浮く原因になりました。

ルールや理由が理解できなくとも「そういうもの」と受け入れられれば楽なのかもしれませんが、私にはできないんです。ASD特有の「合理性への強いこだわり」が働き、理由のないルールをどうしても呑み込めませんでした。それが社会人になってからの大きなストレスでしたね。


ー当時はまだ「大人の発達障害」という概念が今ほど知られておらず、社会のなかでも見過ごされがちでしたよね。「発達障害」という言葉に出会ったのは、いつ頃だったのでしょうか?

シン:2010年頃、私が20代後半頃です。ダイヤモンド・オンラインや東洋経済などのビジネスメディアが「大人の発達障害」を特集し始めたのがきっかけでした。それらの記事を読むうちに「発達障害かもしれない」と思うようになったんです。そこで、勇気を振り絞って病院に行きました。


ー勇気を出して、病院へ足を運ばれたんですね。そのときのことを教えていただけますか?

シン:病院では「発達障害の可能性があると思うので診てほしい」と伝えたんですが「診断には両親の同席が必須です」「両親からの情報がなければ判断はできません」と言われ突っぱねられてしまいました。20代後半の大人であるにも関わらず、ひとりでは診断してもらえない現実を突きつけられたんです。そこで両親に相談をしましたが、返ってきたのは全面否定。「そんなわけない」「良い大学も出て、大企業で働いているのだから」と。「発達障害=生活に困っている人」という固定観念が強く、理解してもらうことはできませんでした。
当時は「どうしてこんなに門前払いされるんだろう」と思っていました。病院も親にも否定され、頼れる場所がない。あの時の絶望と孤独感は今でも覚えています。


ー産業医や会社に相談したこともあったそうですね。

シン:はい、産業医にも相談しました。しかし返ってきたのは「違うと思う」という一言だけだったんです。当時はまだ、発達障害に関する知識が企業のなかで浸透しておらず「メンタル不調=休めば治る」と捉えられていたからだと思います。私が感じている「社会とのズレ」は理解されず、病院を紹介されても薬物療法のみで、特性には触れてもらえませんでした。


ーそうだったのですね。診断がつかないなか、仕事に馴染めない日々。どうやって心を保っていましたか?

シン:唯一の支えが、副業のライティングでした。本業の仕事は相変わらずうまくいかず、上司にも評価されませんでしたが、ライティングの仕事は「観点が面白い」「アクセスが良い」と評価してもらえたんです。ついには、社会人2年目にして有名なメディアで自分の名前で連載まで持たせてもらえるようになりました。「本業を忘れるために副業のライティングに熱中していた」という表現が一番近いですね。本業でダメな自分を突きつけられた分、副業で「認めてもらえること」にしがみついていたのかもしれません。

当時は今のように副業が一般的ではありませんでしたが、それでも続けていました。「ここでしか生きていけない」そんな気持ちがあったんだと思います。
結局は本業の会社は辞めることになりましたが、「ライティングなら自分の能力を発揮できるかも?」と視界が一気に広まったのを覚えています。


社会人2年目、大学時代の友人と久しぶりに会ってごはんを食べた時の様子



「努力不足じゃなかった」と知った日、35歳でようやくついた診断




ーその後「発達障害」と診断を受けたのは10年後、シンさんが35歳の時だそうですね。

シン: はい。35歳の頃でした。
新卒で入社した会社を退職してからは、ライティングの仕事に携わりながら仕事を転々としていました。社会とのズレや仕事のしづらさは感じていたものの、根本的な原因に向き合うことはできませんでした。

35歳で結婚をし、そこで転機が訪れました。医師である義父が「発達障害かもしれないから、病院を紹介する」といってくださったのです。妻も受け止めてくれて、知り合いの精神科専門病院を紹介してもらいました。

ー「受診していいんだ」と思えたとき、どんなお気持ちでしたか?

シン:それまで、医者に行っても診断すらさせてもらえず、実の親には「そんなわけない」と否定されてきた私にとって、初めて「違和感を受け入れてもらえた」と思いました。
臨床心理士による検査と医師の直接診察を受け、ようやくASD・ADHDの診断がつきました。



ー診断されたとき、医師の言葉を聞いてどのように感じましたか。

シン:一番は「やっぱりそうだったんだ」と強く納得しました。医師から 「あなたが抱えてきた苦しさは、特性によるもので努力不足ではありません」 と伝えられたときは、胸の奥にずっと刺さっていた棘が抜けるような感覚でした。同時に「なんでこんなに時間がかかったんだろう」「もっと早く知りたかった」という悔しさも大きかったです。



ー早く診断されていれば、どんな可能性がありましたか?

シン:診断があれば専門機関での支援や訓練を受けられたかもしれないし、コミュニケーションや仕事の進め方の工夫に関して、これほど苦しむ必要がなかったかもしれません。「努力不足」「怠けている」と、周囲から言われた言葉を、そのまま受け取ってしまってしまうこともなかったでしょう。 仕事でつまずくたびに「自分はダメだ」と落ち込んでいましたが、実際には不得意な部分を補うための工夫や、得意を活かすことさえできたはずです。



ーその通りですね。診断がついたことで、これからの生き方や働き方について考え直す機会になりましたよね。いかがでしょうか?

シン: それまでは「できないなら頑張るしかない」という見えない努力の一本道でしたが、「努力では埋まらないこともある」 という事実を知ったことで、生き方を見つめ直しました。 働き方や環境など、自分の特性に合うかどうかを基準に考えようと思えたんです。 そう思えるようになったのは、とても大きな変化でした。



伝えるべきか。発達障害をカミングアウトして働く難しさ




ーご両親には、お伝えしましたか?

シン:はい。診断を受けて、しばらくしてから両親に伝えました。これまで何年も生きづらさを抱えてきたこと、その原因がやっと分かったことを伝えたいと思ったからです。
しかし、返ってきた反応は想像以上に複雑でした。「難しい話でよく分からない」と受け流すような言葉をかけられ「わが子が障害であるはずがない」という強い否定が見え隠れしているのを感じました。「障害」という言葉を受け入れられないんだと思います。今でも完全には認めておらず、この話題をだすとどこか耳を塞ぐような、聞きたくないという空気になります。勇気を振り絞って話しても、受け止めてもらえないと辛いので、当たり障りのない会話しかできないですね。今は必要以上に踏み込まない関係性を選んでいます。 


ー職場では一部の方にカミングアウトしたとのこと。どのようにお伝えしましたか?

シン:診断結果を伝えるかどうかは、正直とても悩みました。私は一般雇用として働いていたので、カミングアウトすることで障害者雇用に切り替わる可能性がありましたし、偏見をもたれる不安もあったからです。そのため「苦手な仕事(電話対応など)だけ配慮していただければ」と最小限にとどめ、会社に伝えました。
しかし職場の状況は変わりませんでした。一部の社員は理解してくれてたとしても、現場や日常的に関わる同僚が知り得ない限り、日常の空気感は何も変わらないんですね。
さらには、誤解すら生まれてしまいました。例えば、苦手な朝礼の司会を私だけ免除してもらうと、周囲からは「なんであいつだけやらないんだ」と不満が生まれたんです。事情を知らない社員からすると、当然の反応ですよね。結果的に、職場に居づらくなり退職しました。



ー難しいご状況でしたね。そのご経験から、今カミングアウトするかどうか悩んでいる方がいたら、どうアドバイスしますか?

シン:難しいですね。私の経験上ですが 、伝えたからといって職場が変わるとは限りません。業務量は変わらず、忙しい職場なら特性への理解を待つ余裕がないケースもあるでしょう。逆に「今まで黙っていたのか」と責められるリスクさえあります。一方、落ち着いた職場や理解のある環境なら、伝えることで配慮が得られる可能性があります。そのため「職場とご本人による」というのが正直な答えです。

私は比較的“軽度”と言われるほうで、頑張ればある程度はカバーできてしまったんです。だから「カミングアウトせずに努力でなんとかする」という選択肢もあっただろうと思います。もちろん、その分ストレスはかかりますが、職場で生き残ることはできたかもしれません。
ただ、当時の私はその判断をする余裕がありませんでした。「言えば周囲にどう思われるか」「仕事を続けられるのか」綱渡りのような状態で、その結果としてカミングアウトせざるを得なくなった、というのが正直なところです。

以上を踏まえてアドバイスするなら、 どちらが正解ではなく「どんな環境で働きたいか」を基準に選ぶことをおすすめします。例えば、クローズ就労(=職場に発達障害であることを伝えずに働く)道を選ぶなら、外部の支援機関や病院でトレーニングを受けながら、苦手な部分を少しずつ補っていくこともできます。無理をして心身を壊す前に、一緒に対策を考えられる相手や環境をつくることが大事です。


経験した会社数が多い分、送別会も多かったとのこと。この写真は送別会でタンブラーなどいろいろなグッズをもらったときの様子

「同じ境遇の方の支えになりたい」精神保健福祉士に


ー現在は精神保健福祉士の資格を取得して、同じ境遇の方々のサポートをされているとのこと。資格を取得しようと思ったきっかけを教えてください。

シン:数年前、就労移行支援事業所で職業指導員として働き始めたことがきっかけでした。 通所者さんと向き合うなかで、自分の経験だけでは届かないことがあると痛感し、体系的な知識を身につけようと思ったんです。そこで大学の通信課程で学びながら、精神保健福祉士の資格を取得しました。仕事と学業を両立する日々は大変で、睡眠時間が2時間しか取れない時期もありましたが、同じ境遇の利用者さんに寄り添えるようになりました。さらに、自分への理解も深まりましたね。



ー現在は、精神保健福祉士として、どのような活動をされているのでしょうか?

シン:主にはnoteでの情報発信です。
職業指導員を続ける道もありましたが、やはりITやメディア、ひいては文章を書くのが好きなんです。本業ではIT業界で働きながら、再びライティングの世界に戻ってきました。現在は精神保健福祉士としての知識を活かして、発達障害の方に向けてnoteで情報を発信をしています。発達障害の当事者、精神保険福祉士という両面から発信できるのが強みで、ありがたいことにフォロワーは1000名弱、毎日投稿し続けて2100日以上になりました。



ーシンさんがnoteを毎日書き続ける理由を教えてください。

シン:根底には「同じように生きづらさを抱えている誰か一人に届いてほしい」という願いがあります。発達障害でも、メンタル不調でも、周りに理解されにくい苦しさを抱えたとき、人は簡単に孤立してしまいます。私自身もそうでした。だから「私の文章が誰か一人の心に届くなら」と思いながら毎日書いています。

同時に、noteは「自分を整理する場所」でもあります。頭の中で散らかっている感情や出来事を書き出すことで本音に気づけることもありますし、時間が経って読み返すと「当時はこんなふうに考えていたのか」と、感情や環境の変化を振り返ることができます。気づけば5〜6年分の記録がnoteには記されていますが、私の日記でもあるんです。


日本精神保健福祉士協会のバッジ



特性を活かし生かしていくために、今できることと頼っていい場所


ーここまで半生をじっくりと振り返ってきました。今、発達障害で生きづらさを感じている方にアドバイスできることはありますか?

シン:まずは「苦にならないこと」を知ることが大切だと思います。人と比較して、なぜかスムーズにできてしまうことや、続けても苦痛を感じないこと、「楽しい」と思えること。それらをリストアップしてみてはいかがでしょうか。すると、自分の特性や向いている領域が見えてくるはずです。
例えば私の場合、noteを2100日以上続けていますが、一度も「しんどい」と思ったことがありません。スキの数やフォロワーの増減で気分が浮き沈みすることもありません。途中で辞めたいとは思わないんです。一般的な「努力」とは違って、私にとっては食事するのと同じくらい自然なルーティンなんです。


そして、もうひとつ大切なのは「できない自分」を責めないことです。周囲との違いに目を向けてしまい「なぜ自分だけできないんだ」と追い込みがちですよね。しかし多くの場合、それは努力不足ではなく「脳の特性」です。責めることにエネルギーを使うより「自分はどういう環境なら力を発揮できるのか」を探すほうがずっと建設的ではないでしょうか。
小さな違和感やしんどさに目をつむらず「これはしんどい」「これは大丈夫」と仕分けしていく。その積み重ねが、自分らしい生き方につながっていく気がします。



ー最後に、努力し続けて苦しんでいた20代のシンさんに今会えるとしたら、どんな言葉をかけたいですか?

シン:絶対にひとりで抱え込まないでほしいと、伝えたいです。ひとりで悩むと、どうしてもネガティブな方に気持ちが流れてしまいます。とはいえ友達に相談すると「そんなことないよ」「考えすぎだよ」と軽く扱われてしまうことも、なきにしもあらずです。
そのため、カウンセラーや精神科医、臨床心理士・公認心理師など専門家に相談してはいかがでしょうか?「どこに相談すればいいか分からない」という方は、まず精神科病院に行きましょう。臨床心理士につないでもらえることがあります。
ほかにも市区町村の役所の福祉窓口でも、専門機関の紹介をしてくれます。診断がつかない“グレーゾーン”だったとしても、生きづらさを感じていることに変わりはありません。

決してひとりで抱え込まず、安心できる場所を見つけてほしいです。



編集後記


「なぜ、みんなと同じようにできないんだろう」

この問いは、シンさんだけのものではありません。

努力していないわけじゃない。むしろ、人一倍考え、耐え、踏ん張っているのに、うまくいかない。その理由が長いあいだ分からなかったことが、どれほど孤独だっただろうかと思います。

そして印象的だったのは、診断がゴールではなく「自分を理解するためのスタート」だということです。特性を知ったからこそ、無理を重ねる生き方を改めて、自分が過ごしやすい生き方を考えられるのだと思いました。

この記事を読んだ読者の方にとって
「自分だけがおかしいのではないか」
「もう少し頼ってもいいのかもしれない」

そんなふうに、誰かを頼るきっかけになれば嬉しく思います。


取材・構成・執筆/木全彩花 (「たしかなこと」ひとり編集部)

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