『たとえば「自由」はリバティか』 西洋の基礎概念とその翻訳語をめぐる6つの講義 渡辺浩
ひとり遅れの読書みち 第119号
「文明開化」期の日本に、西洋文明を形づくる基礎的な概念が入ってきた。さまざまな試みの末に、たとえば「自由」「権利」「法」「自然」「公/私」「社会」などという翻訳語が普及した。英語で言えば、「freedom、liberty」「right」「law」「nature」「public/private」「society」だが、これらは果たして原語と同じ意味だろうか。日本政治史の専門家で、特に徳川期から明治時代までを中心に研究している渡辺浩・東京大学名誉教授が、西欧における原義を探り、翻訳語の意味との相違を明らかにする。
渡辺は専門の研究を続ける中で、「西洋由来の概念」を示す日本語を器用に駆使した日本人の学術書や思想書などに「早くから漠然とした違和感」を感じてきたと述べ、翻訳語を通じて、「西洋の基礎概念の再吟味」をしなければならなかった、と本書執筆の意図を明らかにしている。
6つの翻訳語について、英独仏を中心にして、ときには中国語を示し、数多くの書籍や辞典をとりあげて論じていく。本書350ページ余りの中で、巻末の注が60ページ以上と詳しい。解説はていねいだ。
これまでわかっていたと思う言葉の意味が全くの誤解だったり、見当違いだったと教えられる場面に数多く出会う。改めて西洋社会と日本との歴史や習慣、思考や発想の仕方が異なっていることを知らされる。蒙を啓かせる書だ。
著者はまず「自由」についてとりあげる。明治以前からよく使われた言葉で、freedom、libertyの翻訳語に宛てられた。だが、著者によると、これらの語は従来の日本語の「自由」との間に「大きな意味のズレ」があり、その「ズレが現在でも持続している」という。
たとえば、「私は足が不自由です」は自然な日本語だが、これをfreedomやlibertyを用いて英語で表現することはできない。
日本語の「自由」とは元来「自由(みずから由る)」で「思いのままにする」こと。仏教(特に禅宗)でも「自由」は愛用され、「解脱して何ものにもとらわれない境地」を意味する。「自由自在」とも表現されるという。
不便で安楽でない境地が「不自由」だ。「お金に不自由する」という表現もある。「幼い時から何不自由なく育った」とは、家が裕福で欲しい物は何でも与えられ、子供ながら何の不足もなく育ったという意味であり、「不当な束縛」をされずに育ったという意味ではない。
つまり「自由」とは、「物事が自分の思い通りになる」「心のままになる」という意味だ。
一方、freedom、libertyはどういう意味か。「思い通りになる」ことではない。英語を母国語とする人にとって、病気やケガで思うように手足が動かなくなっても、それはfreedom、libertyの問題ではない。
著者によると、これは「奴隷でないこと、奴隷のような状態にいないこと」(現実的にも比喩的にも)だと結論づける。だからこそ、「libertyか、それとも死か」という訴えが生まれる。
「自由」という日本語には元来の意味が今なお生きていて、freedom、libertyと意味の重なりはあるものの、「根本的な発想を異にする」語だ。その自覚が必要と指摘する。
「nature」については、「自然」と翻訳される。しかし、また「性質」「本性」というようにも翻訳される。human natureは普通「人間性」とか「人の本性」と訳される。
「村は自然がいっぱい」とは言うが、「村は本性がいっぱい」とは言わない。「性質災害」「本性環境の保全」と言っても意味がわからない。逆に「彼の自然は優しい」とも言わない。
西洋の人がnatureと言う時と、日本人が「自然」と言う時とは「何か違うものを思い浮かべている」ようなのだ。
著者によると、西洋でキリスト教の信仰が広まり、創造主以外の一切が創造(create)された被造物(creature)とされた。日本にはそもそもcreateという発想がないので、それに当たる日本語は元来ない。
createとは「全く無から何かを出現させ、それぞれに性質を与え、その物たらしめた」ということ。あるものを無から生ぜしめ、それに水の性質を与えた。だから今ここに水としてある。月には月の、動植物にはそれぞれの動植物としての性質を与え、現にあるものとして生かしめている。人には人としての一般的な性質、人間性を与えたと考えるようになったという。
「性質を賦与するということと、それぞれの物を出現せしめる」ということは、結局同じことであり、その意味で「本性」と「被造物」とが同じ単語で表現されるというのだ。
本書は、その他の翻訳語についても、詳しく解説している。日本語の翻訳語としてそれぞれの語句が定着するまで、多くの言葉が考案され、用いられたことがわかる。先人たちの苦労の跡がうかがえる。
なお、著者は本文の中ではないが、巻末の注の中で、「自由主義」liberalismは何かについて注目するべき見解を示している。
自由主義が「個々人のlibertyやfreedomの確保と実現を目指す立場」と指摘しながら、その主張の内容は「対決する相手」で決まると論じる。
「不寛容な宗教と政治とが結合した体制」に対してであれば、「信仰の自由を要求する政教分離主義者」になる。「専制的な政治」に対しては「民主化」を要求する。
貧困が多くの個人の自己実現を妨げていると考えれば、「経済へのある程度の政治介入と所得の再分配」を要求する。「政府が経済活動に介入しすぎている」と考えれば、「小さな政府」を要求する「新自由主義」になる。
リベラリズムは「特定の内容」を持たない。「自由主義」というひとつの「主義」があるのではないと論じている。注意深く吟味する見解だろう。
(メモ)
たとえば「自由」はリバティか
西洋の基礎概念とその翻訳語をめぐる6つの講義
著者 渡辺浩
2025年10月29日第1刷発行
発行 岩波書店
