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『五葉松の枝』


talesで先行公開していた掌編『五葉松の枝』をnoteでも公開します。

義父が残した一本の松と、それを守り続けてきた歳月の話です。

今年は、どの枝も折れていない。それが、なぜか落ち着かなかった。男は五葉松の枝先を見つめたまま、冬囲いを外す手を止めた。胸の奥には、冬のあいだ抱えてきた後ろめたさが、澱のように残っていた。 去年の秋、持病の腰痛が悪化し、思うように体が動かなかった。竹を立てる角度も縄の張りも、例年より粗くなった。「無理しないで」という妻の言葉を、男はどこか申し訳ない気持ちで聞いていた。
 遠くでヒバリが鳴いた。その声に誘われるように、冬の記憶が静かに蘇った。

 雪が多かった数年前の冬のことだ。十二月の初めから重たい雪が続き、庭の石灯籠も物置の屋根も深く沈んだ。春になって雪が解けたとき、一本の太い枝が幹と平行に垂れ下がっていた。雪の重みで折れたのだろう。だが完全には千切れず、皮一枚でつながっていた。枝先の葉は、わずかに緑を残していた。 五葉松は、家を建てたとき、妻の父が祝いに持ってきたものだった。背丈三十センチほどの盆栽で、長く育ててきたものだと後で妻から聞いた。義父は家の物置の棚を自分で作るような人だった。青函トンネルの工事に関わる会社へ、工具や部品を納めながら長い年月を働き続けた人でもあった。ある冬の日、丸ノコで左の手のひらを深く切り、十針も縫う大けがをした。それ以来、左手の動きはわずかに鈍くなったが、弱音を吐かず道具を握り続けた。

男は盆栽に詳しくなかったが、水をやり、雪を払う程度の世話を続けた。鉢が狭くなった。庭の隅に植え替えると、義父は、「ここの土が合ったんだな」と、目元がふっとやわらいだ。

五葉松が庭に根を下ろして十年ほど経った頃、義父は病に倒れた。
「……あの松は、元気か」と尋ねる義父に、「もう二メートルを超えています」と答えた。
 義父は目を細め、ゆっくり息を吐いた。

数年前、雪の重みで折れかけた枝を前にしたとき、その表情が胸をよぎった。庭木の本には「折れた枝は早めに切る」とある。だが、皮一枚でつながり、かろうじて緑を保っているその姿から、どうしても目を離せずにいた。
 男は物置から細い竹を取り出し、折れた箇所を添え木のように支えて縄を巻いた。数年かけて、枝は見事に回復した。それ以来、冬が来るたびに竹を立て、縄を張ることが、義父との無言の約束のようになった。

だが今年の冬は違った。雪は降るたびに重く、一気に積もる日が何度もあった。街が止まるほどの冬になるとは、思ってもいなかった。風が家の壁を押すように吹き、雪が窓に細かな氷の粒となって叩きつけられていた。風向きが変わるたび、窓の外の白さが揺れ、視界が一瞬、途切れた。松の一番下の枝には雪が重く積もり、雪つりの縄が限界まで張りつめていた。風が吹くたび枝はゆっくり沈み、縄がわずかに震えていた。男は息をのんだ。あの日、かろうじて幹に留まっていた枝の姿が脳裏に蘇る。
 義父の左手が胸に浮かんだ。十針を縫ったあの手。痛みを抱えながらも棚を作り続けた手。
「……行かなきゃ」とつぶやいた。
 外に出た瞬間、吹きつける雪が顔を打った。松の枝は、重みに耐えるようにしなっていた。痛む腰を押さえながら、物置から細い垂木を抱えてきた。地面は凍りつき、竹を立てることなどできない。深い雪に垂木を突き刺し、枝の下に支えとなる角度で並べていった。雪が舞い上がり、容赦なく顔を叩く。指先はかじかみ、腰は悲鳴を上げていたが、手は止まらなかった。
 やがて風が弱まり、雪が静かに降り始めた。松の枝は、かろうじて持ちこたえていた。

遠くで再びヒバリの声がした。空には薄い雲が流れ、日の光がこぼれていた。ヒバリの声は澄んで響き、空気を明るく塗り替えていた。 今年の冬も雪は降るだろう。だがもう迷わない。あの夜の痛みも、義父の手の重さも、胸の奥で静かに形を変えていた。来年も、自分の手で支えよう。義父が育てた松を、今度は自分が守る番だ。
 五葉松の葉が、春の風にさらりと揺れた。枝先の鮮やかな緑に目を細める。
 妻が隣に立ち、同じ方向を見ていた。何も言わずに。

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