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22/7『叫ぶしかない青春』―レヴィナス哲学で解読する:全体性に抗う「顔」たちの痕跡

22/7(ナナニジ)。その3期生たちが歌う『叫ぶしかない青春』は、一見すると瑞々しくも痛々しい、王道の「青春ソング」に聞こえるかもしれない。 しかし、この曲の底にはもっとヒリヒリとした哲学が眠っている。

フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスは、自分の都合よく支配できない「他者の存在」や、それを理不尽に枠にはめようとする社会のルール(全体性)との対峙を語った。 本作で描かれる「僕と君」のささやかな世界と、それを容赦なく引き裂く「大人」という理不尽な存在。この構図は、まさにレヴィナスが迫った「他者との出会いと、そこに生じる葛藤」そのものなのだ。

今回はこのレヴィナス哲学を補助線に、彼らがなぜ言葉を失い、「叫ぶ」しかなかったのか、その歌詞のドラマを優しく解き明かしていこう。


レヴィナスの哲学からみる「叫ぶしかない青春」とは

秋元康プロデュースの次元を超えたアイドルグループ・22/7(ナナニジ)。その3期生(後輩メンバー)たちが歌う『叫ぶしかない青春』は、一見すると瑞々しくも痛々しい、思春期の葛藤や衝動を描いた王道の「青春ソング」にと言えるかもしれない。

前回は、サルトルが説いた「実存は本質に先立つ」という概念を注目し解釈した。人間はあらかじめ「何者か」として生まれるのではなく、世界に投げ出され(被投性)、自ら意味を追求した記事を表した。

しかし、「自己と他者(君)」のミニマムな関係性が、外部の「強大な他者(大人)」という理不尽かつ圧倒的な暴力によって破砕され、無力な抵抗を強いられるという構図は、レヴィナス哲学における「自己と他者」、そして「第三者(Le Tiers)」の介入による倫理の政治化・社会化というダイナミクスと完璧に響き合う。

この新たな視座に基づき、歌詞の構造をレヴィナス思想を用いて再評価・再編集(再解釈)する。

独我論的な「僕と君」:非対称な愛の領土

物語の初期段階において、主人公(僕)が抱く君(他者)への想いは、きわめて純粋で、かつレヴィナス的な「愛の現象学」に彩られている。

求めてる何かが見つからない
その何かが何かもわからない
そんなこと 夜(よ)が明けるまで語り合い
僕たちは黙った

隣にずっといて欲しい
もしかしたら愛なのか?
誰も知らないどこかへ逃げ出したかった

22/7「叫ぶしかない青春」

ここで描かれるのは、どれほど求めても融合することのできない「僕」と「君」の絶対的な隔たり(他者性)である。しかし、この時点での二人の関係は、世俗から隔絶されたクローズドな二者関係——レヴィナスが言うところの「愛撫(caresse)」の領域に留まっている。

追いつけないからこそ愛おしく、横顔を見つめるだけで涙が溢れる。そこには、他者の存在にただ圧倒され、応えようとする無防備な自己の歓びと、他者を渇望する倫理的な欲望が満ちている。

桧山依子と南雲遥加

「第三者(大人)」の襲来:全体性による世界の画一化

22/7(ナナニジ)が表す、この不器用で壊れやすい「僕と君」の親密なコスモスは、外部からの暴力的な侵入者によって無残に引き裂かれる。それが「大人」という名の「第三者(Le Tiers)」である。

レヴィナスにおいて、一対一の倫理的関係に「第三者」が介入するとき、そこには「正義」や「制度(社会)」の問題が生じる。大人は、個々の尊厳や固有の痛みを無視し、すべてを同一のルールで管理・測定しようとする「全体性(Totalité)」の体現者である。

ごめんね 君を守れなかった
腕を掴めなかった
大人たちが未来 連れて帰った
ごめんね 僕は羽交い締めされ動けなかったんだ
だから大声で叫ぶしかない青春

22/7「叫ぶしかない青春」

22/7(ナナニジ)が語る大人の言葉とは、僕と君の固有の葛藤を「よくある若気の至り」「誰もが通る通過儀礼」として一般化し、客体化する。これはレヴィナスのいう「全体性による他者性の抹殺」そのものである。

大人のシステム(社会)にとって、僕と君の特別な関係は、単なる「統計データの一部」にすぎない。 この冷酷な一般化の前に、僕と君は徹底的に「無力」であり、いかなる対等な議論(論理的抵抗)も許されない。

大人の構築する秩序(ロゴス)の前で、未熟な自己と他者は完全に武装解除させられる。

22/7 3期生

「理不尽な無力さ」における連帯:傷つきやすさ(脆弱性)の共有

22/7(ナナニジ)が語るように、自己が理不尽な力によって沈黙を強いられたとき、僕と君の関係は「愛する主体と客体」から、「共に傷つき、共に無力であること(Vulnerability:脆弱性)」を共有する関係へと移行する。

サヨナラ 僕は殴られたって
最後まで闘った
世の中って理不尽なものなんだ
サヨナラ 君は誰も責めずに
ただ微笑みながら
しょうがないねって涙こぼした青春

僕は壁に凭(もた)れ 拳(こぶし)握りしめたよ
いつの日にかわかるのかな 若さはいつも無力なもの

22/77「叫ぶしかない青春」

大人の暴力に晒された極限状態において交わされるこの眼差しは、もはや甘美な恋の確認ではない。

サヨナラ 君は誰も責めずに
ただ微笑みながら
しょうがないねって涙こぼした青春

22/7「叫ぶしかない青春」

この歌詞に留意し、聴きこんでいる人には、甘美な青春ストーリーに聞こえるかもしれない。

しかし、曲に一貫してみられる意図には、「この理不尽な世界の中で、お前も私と同じように傷ついているか」という、剥き出しの生存確認である。

レヴィナスにおける「顔」の本質は、「私を殺すな(Ne me tue pas)」という無力な懇願である。大人の暴力という「死」に直面した二人は、互いの顔に潜む「圧倒的な弱さ・無力さ」を認め合う。

この「無力であることの共有」こそが、大人のシステムに対する唯一の、そして最も強固な抵抗の足場となる。

黒崎ありす

〈叫び〉という非暴力の抵抗:無力なる者の倫理的告発

大人の支配する論理(言葉)の土俵で戦おうとすれば、無力な僕たちは必ず敗北する。だからこそ、彼らは大人の言葉(Dit)で反論することを放棄し、ただ「叫ぶ」という非言語的な身体表現(Dire)を選択する。

だから大声で(悔しくて)叫ぶしかない青春

22/7「叫ぶしかない青春」

「叫び」とは、大人の構築した合理的な文脈(ロゴス)に対する、根源的なノイズ(異物)の注入である。それは論理的な抵抗ではない。むしろ「抵抗すらできないほどに無力である」という事実そのものを、世界に向けて暴露し、告発する行為である。

レヴィナス哲学において、最も無力な者(寡婦や孤児、見知らぬ人)の「顔」こそが、最も強い倫理的権能を持って自己を揺さぶる。同様に、僕たちの「無力な叫び」は、大人の「全体性」に亀裂を入れる唯一の非暴力的な武器となるのだ。

南伊織

まとめ

22/7(ナナニジ)「叫ぶしかない青春」は、単なる青春の葛藤劇ではない。それは、「大人が支配する理不尽な全体性の世界において、無力な自己と他者が、互いの傷つきやすさを抱え合わせながら、〈叫び〉という非言語的な抵抗によって自らの実存と倫理を死守しようとする、哀しくも気高き闘争の詩」なのである。


追記

22/7「叫ぶしかない青春」の記事はこちらにまとめています。


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Ringo / 越川欣和|22/7の音楽哲学と世界観の言語化 記事をお読み下り有り難うございました。いただいたサポートは、クリエイターとしての活動費や勉学費用に使わせていただきます。(書籍、文具代など)どうぞ応援のほど、何卒よろしくお願いいたします。