ゴールデンカムイ実写版の舞台、網走監獄に60分間、入所した感想。
結論
最低限の生活が保障されるとはいえ、一般社会にとどまり続けた方がよい。
2026年3月13日「ゴールデンカムイ 網走監獄襲撃編」公開。
ゴールデンカムイとは、明治末期の北海道を舞台とした作品です。日露戦争の英雄「杉本佐一」がアイヌから奪われた埋蔵金を巡って、網走監獄の受刑者たちとの争奪戦を挑んでいる物語です。
2026年3月13日、山崎賢人さん主演で実写映画「ゴールデンカムイ 網走監獄襲撃編」が公開されました。網走監獄を舞台として、埋蔵金をめぐる壮絶な戦いが繰り広げられます。
ゴールデンカムイについて、10年ぶりに北海道を訪れたとき、札幌丸井今井でゴールデンカムイ展が開催されていたものの、当日券が完売しており、訪れることのできなかった思い出があります。
今回のテーマは、「網走監獄」
網走監獄は、網走で流氷を見学したときに、バスツアーで訪れました。今回、網走監獄で過ごした60分について、話します。
ちなみに、流氷について、こちらの記事に詳しく書きました。
網走監獄は思った7倍、広大だった。

網走監獄は、天都山の市街地側の麓にあります。網走監獄と言えば、脱獄できないように厳重な要塞のイメージがありました。
網走監獄で見学できる施設は、独房だけではありません。日比谷公園(東京ドーム3.5個分)ほどの広大な敷地に19の見学施設があります。網走監獄は受刑者の1年がわかる屋外型博物館でした。最低でも1時間、ゆっくり見学するためには2時間必要です。
なぜ、明治時代、北海道各地に刑務所が作られたのか?
道外の刑務所が満室状態だった。
戊辰戦争後も、1875年の佐賀の乱、1877年の西南戦争など、日本では、政府に反発する者はいました。明治政府は、反乱者を国賊として扱い、取り締まりました。武家を中心に、困窮する人も罪を犯し、裁かれていました。道外の刑務所はパンク状態に陥っていました。
防衛のため、北海道の開拓を進めたかった。
同時に、富国強兵により、経済、軍事で欧米諸国と肩を並べたかった明治政府は、北海道に眠る石炭に目をつけていました。一方、ロシアが不凍港を求めて南下しており、脅威でした。北海道を守るため、軍事力強化にも力を入れる必要がありました。まず、人、モノを運ぶための道路作りに取り組みました。元藩士を中心に北海道に派遣され、全国各地から移住希望者を募集したものの、それでも人手が足りない状態でした。
そこで、本土の受刑者を北海道へ派遣することにより、人件費を抑えつつ、改心させ、出所後も移住者として定住させることを考えました。
網走のあるオホーツク地方だけではなく、石狩地方、空知地方、十勝地方、釧路地方の5ヶ所に刑務所が作られました。それぞれの地域で、役割が変わりました。空知地方では、炭鉱採掘、十勝地方では、農産物の生産拡大に貢献しました。
道路を造るため、網走に刑務所ができた。
明治時代の網走は、極寒の漁村でした。1890年、網走刑務所が完成すると、釧路から囚人が移りました。最初に与えられた任務は、北見峠からオホーツク海へつなぐ道を開通させることでした。
網走周辺は、原生林、湿地帯が広がっており、ヒグマも出没しました。冬の朝、毎日のように−20℃を下回りました。-30℃を下回ることもありました。森で伐採し、自分たちの住む小屋を建てて暮らしていました。脱走防止のため、手足を鉄の鎖で結び付けられていました。寒さに耐えられない薄着で作業していました。山奥へ進むにつれて、食糧は滞り、栄養失調、ケガにより死者が増えました。
そんな過酷な状況で、網走〜北見峠の160kmの道路をわずか8ヶ月で開通させました。一方、重労働を課したことが問題になり、1894年、囚人労働が廃止されました。
農業、酪農にシフトした。
その後、網走周辺の農作業、酪農に従事することになりました。当初は、煉瓦つくり、瓦つくり、石炭掘削、道路開削など力仕事が中心でした。農業では、ジャガイモ、大麦、オーツ麦、ネギ、小豆、大根などを生産していました。酪農は、牛を中心に肥育していました。100年前に使用していた農具も展示されていました。稲作も行われ、寒さに強い品種を開発していました。漬物、醸造品は自給自足していました。

全焼がきっかけとなり、2代目網走刑務所が誕生した。
1908年、山火事が発生し、強風にあおられ、網走刑務所にも燃え移り、全焼しました。1912年、網走刑務所が再建されました。施設内にボイラーが設置されると、蒸気タービンを回してに発電設備も整えられ、網走初の電燈が灯りました。生活面は改善されたものの、相変わらず冬の寒さが厳しいことには変わりありません。1984年まで使用された後、移築を経て、博物館として公開されています。
網走監獄を見学した。
独房

100年前、網走監獄と呼ばれ、日本中の凶悪犯が集められました。最も厳重な牢獄として知られていました。半円状に広がるように、5棟の独房が建設されました。円の中心で見張っていました。監視台も設けられており、上からも逃げないように見張っていました。
独房畳1部屋3畳しかなく、周囲からシャットアウトされ、孤独でした。トイレのみ置かれ、布団を敷くスペースしかありません。3~5人が一緒に暮らす雑居房は1部屋5畳程度の広さしかありません。

4回脱出に成功した「昭和の脱獄王」も網走刑務所に入所していました。網走刑務所では、壊して天井に登り、ガラスを頭突きして脱出しました。柱をつたって脱出する脱出王の様子も、蝋人形を通じて再現されていました。当時の独房が再現されています。脱獄した場合、さらに罪が重くなります。
入浴
受刑者にとって1日の中で最大の楽しみです。とは言っても、決まりが多いです。着替えるまで15分という時間制限がありました。大浴場が一つのみありました。1m近い深さがあり、たちひざで入ることが義務でした。楽な姿勢で入ることすら許されません。
当時の食事を体験できる。
網走監獄には、食堂もあります。実際の刑務所よりメニューは充実していました。刑務所の食事を体験したいなら、A,B定食です。どちらも北海道らしい焼魚定食です。Aはさんま、Bはホッケです。副菜が2種類つきます。質素の中にも、栄養バランスを考えられた食事でした。監獄ロコモコ丼には、網走刑務所で肥育された牛肉が使用されています。
本当は、監獄飯を食べたかったものの、バスツアーのため、食事がついており、今回は食べてません。
庁舎でおみやげを買った。

庁舎では、先ほど述べた北海道に刑務所を造った理由を学びました。おみやげも購入できます。公式ガイドブックなど書籍から、「網走監獄」のロゴの入ったシャツ、網走刑務所で製造された木工品など、網走監獄に行かなければ買うことのできないおみやげもそろっていました。
網走刑務所でおみやげを購入できる。
現在の網走刑務所は、1990年から使用されています。軽犯罪者向けの更生施設になっています。網走刑務所の入口までは近づけます。網走刑務所はレンガに囲まれています。網走刑務所では、木工品、製造されています。出所後も食べていけるように、技術が教え込まれています。昼食会場から刑務所が近かったため、昼食後、作業製品展示場に行きました。

作業製品展示場では、お土産として、全国の刑務所で作られている工場品も販売されていました。全国の刑務所で作られるものは、質も高いです。価格は市販で販売されているものと変わりません。横浜刑務所で話題なうどんはありませんでした。しかし、横須賀刑務所で製造されている汚れがよく落ちる洗濯用洗剤「ブルースティック」は販売されていました。
網走刑務所では、農業、林業、畜産業も行っており、網走刑務所で育った牛肉は、ロコモコ丼として提供されていました。
https://visit-abashiri.jp/culture/4bc0eea2ba8287ade8bfb3d8600b4f26954cd0af.html
現在の罪を償うまでわかる。
現代の取り調べ、裁判についても解説されています。網走市内に簡易裁判所があります。罪の重さを問わず、裁判は一部を除いて見学することができます。中の人も、1回裁判を見学したことがあります。被告人は2人の検察官に付き添われ、手錠がかけられています。犯した罪は何をしたか、詳細まで公開されます。墓場まで持っていけません。
今回は、網走刑務所を90分間見学しました。刑務所では、制限された生活を送らなければなりません。最低限の生活が保障されているとはいえ、刑務所の生活より一般社会がまだよいと思わされました。
※新生活の時期、勧誘等に気をつけてください。特に、「簡単に稼げる」系の話に乗ると、最悪、刑務所へ入所することになる可能性があります。一部の悪質なSNS、マッチングアプリ、社会サークルは警戒しないと、甘い話は思っている3倍きます。堂々と勧誘することはありません。経験上、大体2回目で勧誘してきます。特に違法薬物、強盗致傷罪は人生を棒に振ります。
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