ミステリー小説『誤認逮捕状』第三章 十三
第三章
十三
明け方、尿意で目が覚めてから寝付けなくなった元哉は、ベッドに横になりながらスマホをいじっていた。
たまにこんな日がある。
再び眠ろうと試みるほど深みにはまり、寝付けない。
今日は木曜日。
今週も、あと二日だ。
眠気と戦う一日になりそうだが、月曜日でないことが、せめてもの救いだった。
空が白みはじめ、カーテンの脇から光が差し込んできた。
とりあえずベッドから出て、テレビで朝のニュース番組でも観ようか。
そう思った矢先。
ドアベルが鳴った。
一瞬で、眠気が吹き飛ぶ。
爽やかに感じられていた朝の陽光が、なぜか不気味に感じられた。
二回目が鳴る。
こっそりとベッドを抜け出すと、忍び足で玄関まで移動した。
耳を澄ますが、音はしない。
ドア穴を覗こうとしたとき、今度は激しくドアがノックされた。
その音に驚き、足元に立てかけてあった傘を蹴飛ばしてしまった。
「寄居さん? 開けてください」
背筋が凍る。
「何のご用ですか?」
ドアを開けずに応じる。
「ひとまず、ドアを開けてください」
ドアガードを付けたまま、玄関を開けた。
「……はい?」
「藤村です」
言われずともわかっている。
「なんですか、こんな時間に」
とっくに目は覚めていたものの、寝起きの顔を浮かべる。
「逮捕状、及び捜索差押令状(そうさくさしおさえれいじょう)が出ています」
「え?」
すぐにドアガードを外す。
「おはようございます」
いまさら朝の挨拶をした藤村の手には、二枚の紙が握られていた。
「これは?」
「窒素の窃盗容疑で、逮捕状と捜索の令状が出たんですよ」
「……」
「読み上げます」
藤村は紙を翻すと、事務的な口調で朗読しはじめた。
茫然自失の元哉には、右から左へとただ流れていく音声にしか聞こえなかった。
「署に連行しますので、準備してください」
「今ですか?」
「はい」
「そんな、急に言われても……」
「お願いします」
「ど、どうすれば?」
「外出するための、必要最低限の身支度を整えてきてください」
「弱ったな」
パニック状態のまま、部屋に戻る元哉の背中に、刑事の声が追い打ちをかける。
「スマホは、証拠品として今ここで押収します。開かずに、持ってきてください」
「スマホを、ですか?」
「そうです」
刑事の目を盗んでいじりたかったが、玄関を開けっ放しにされており、怪しい動きをしたら丸見えになってしまう。
ひとまず着替えて、外出する準備を整えた。
「スマホを出してください」
「これです」
「こちらは社用ですか?」
「そうです」
「もう一台、私用のスマホがありますね?」
「……ええ」
「そちらも」
「……はい」
元哉は、言われたとおりにした。
「今日、私は出社できますか?」
「いいえ」
「それなら、会社にメールだけでもしておかないと」
「だめです」
「でも、会社に連絡しとかないと」
「あなたはもう、外部との連絡や接触はできません」
「そんな……」
「ただし、あなたの出勤の可否に関係なく、今回は被害者が会社ですので、窃盗の容疑者としてあなたを逮捕した旨は、警察から朝比奈工業に連絡を入れます」
「会社の誰に連絡するんですか? 社長ですか?」
「それは、お答えできません」
「……」
絶望が元哉を襲う。
「スマホは生体認証ですか? 顔とか指紋とか」
「いえ。指で形を作るやつです」
「パターンですね。教えてください」
渋々、二台のパターンを告げる。
元哉は、銀行やクレジットカードなどのアプリには生体認証を使っているが、スマホの画面ロックで使うのは嫌いだった。理由は不便だからで、顔認証は暗いところでは作動しないし、指紋は指が汚れていたり、角度が異なると不一致になるからだ。
パターンを手帳に控えた藤村が続ける。
「最後に確認ですが。常備薬などありましたら忘れずにお持ちください」
「ありません」
「では、ちょっと失礼します」
玄関先で、服やズボンのポケットに至るまで入念にボディチェックされる。
「午前六時三分、執行します」
元哉の手に、手錠がかけられた。
冷たく、不快な感触だった。
「あなたには、黙秘権があります。供述は裁判で証拠として使われることがあります」
無表情、かつ事務的に藤村が告げる。
「また、あなたには弁護士を付ける権利があります」
うつむいたまま、その声を聞くしかなかった。
「では、参りましょう」
藤村が腕を組むようにして、元哉の身体を引っ張る。
気が付いていなかったが、藤村、佐岡のほかにもう一人、ワイシャツ姿の男がいた。さらに、階段を下りると、そこにも制服警官が二名いた。
逃亡対策だろうか。
同じアパートの住人である中年女性が、何事かという目で見つめていた。他の住民とはまったく交流がないが、この女性だけは、挨拶を交わす程度だが顔見知りであった。
「あ、この前はどうも」
元哉は、自分が声をかけられたと思ったが、意外にも女性は刑事に話しかけていた。
「おはようございます。その節は、どうも」
藤村が応対した。
駐車場に停めてあったのは、以前にも一度乗ったことのある黒塗りの乗用車だった。
後部座席の中央に座った元哉を挟むように、左右に佐岡と藤村が乗り込み、車が走り出す。
見慣れた自宅周辺の光景が、今までとはまったく異なるものに見えた。
しばらく走ると、隣接する飯能市(はんのうし)に入った。
「どこに向かっているんですか?」
乾いた声で、元哉が質問を投げかける。
「飯能署です」
前を向いたまま、藤村が答えた。
音楽やラジオなどは流れておらず、誰も口を開かないため、車内には重苦しい雰囲気しかなかった。
飯能警察署入口と書かれた交差点を左折すると、古びた白い建物が見えた。
敷地内へ滑り込んだ車両は、正面玄関ではなく、裏手の関係者用ゲートの前で止まった。
「降りてください」
促され降車すると、すぐに佐岡と藤村に両脇を固められた。
一般の来庁者が立ち入ることのない扉から、署内に入る。廊下は静かで、白色の光が床に反射していた。
取調室と書かれた部屋に入ると、二人の男性警官が中で待っていた。
一人は白髪交じり、もう一人は黒髪で眼鏡をかけている。
「お願いします」
藤村の声にうなずくと、眼鏡の男が無表情のまま椅子に座るよう手で示した。
藤村と佐岡が退室する。
「寄居元哉さんですね?」
「はい」
「あなたに対して発付された、逮捕状の記載内容について説明します。容疑は、刑法第二三五条に定める窃盗罪です」
眼鏡の警官が話す内容は、逮捕時に藤村が読み上げたものをさらに細かく、具体的にしたもののように感じられた。
「以上が、逮捕容疑です」
「私は無関係だと、刑事さんに言いました」
「それは、今後の取り調べの際に伝えてください」
無碍もなく言い返される。
「では、身元確認を行います。氏名、生年月日、現住所、職業を順に言っていってください」
「寄居元哉。一九八〇年七月九日生まれ。埼玉県日高市……」
元哉の声に沿って、白髪の警官は手元の用紙に何か書き込んでいる。
「次に、個人識別のための写真撮影を行います。立ってください」
元哉は、壁際の白いスクリーンの前に立たされた。
正面、横向きなど指示され、体勢を変えるたびに無機質なシャッター音が部屋に響く。
「次は、指紋です」
黒色のインクパッドに指を押し付けられ、紙に順番に転写されていく。親指から小指まで、両手分のすべての指紋が取られた。
「以上です」
眼鏡の警官が、書類をまとめながら告げる。
「本事案は、今後検察に送致されます。勾留が決まるまでは、署内の留置場で待機してもらいます」
「しばらく、この飯能署の中で過ごすということですか?」
「そうです」
「いつ、ここを出られるんですか?」
「それは、私が答えることではありません」
再び、無碍もなく言い返される。
――四十八時間。
脳内のわずかな記憶から、警察が身柄を検察に送致するまでの制限時間を呼び起こす。
今日は木曜日だ。
丸二日ということは、最悪、土曜日の朝までこの冷たい檻に閉じ込められることになる。
「それでは、こちらに着替えてください。所持品は、こちらで保管します」
渡されたのは、洗い古されたスウェットだった。
健康ランドや温泉旅館でも、元哉は備え付けの衣類をまとうのが苦手だった。きれいに洗濯されていることは百も承知だが、不特定多数の人間が着てきた服をまとうことに、どうしても拒否反応が起きてしまう。
幸い、下着はそのままでいいという。
着替えを済ませた元哉は、白い壁に囲まれた狭い部屋に通された。窓やベッドはなく、ビニール製の畳敷きの床に布団が一枚置かれていた。
簡単な注意事項を告げられ、扉が絞められた。
ため息をついて、部屋を見回す。
時計がなく、時間がわからない。
物音もしなければ、人の気配もない。
所持品は取り上げられ、真に身一つの状態となったことを痛感させられた。
何かを調べようと思い立つたびに、手元にスマホがないことに気が付く。
いかに日常生活でスマホに頼っていたかを実感した。
想定外なのは、こんな場所で思い知らされたことだ。
逮捕時、あの若い刑事は六時三分と告げていた。
飯能署までの移動は、恐らく十五分から二十分だろう。
先ほどの取調室は、それなりに時間を要した。
三十分はかかっただろうか。
だとすると、今は朝の八時前後、出社時刻だ。
元哉が出社しないことに気づき、そのうち社内が騒ぎ立つのだろうか。
藤村は、会社の誰に連絡するかは明言しなかった。
ただ、会社の代表番号にかけることは考えにくい。
となると、やはり社長だろう。
朝比奈は、すでに刑事との面識もあるからだ。
そういえば、オワダはどうなっているのだろうか。
ふいに部屋の外で物音がして、制服姿の警察官がワゴンを押して現れた。
「配膳だ」
ドア越しに手渡されたのは、プラスチック製の弁当箱だった。
食欲は微塵も沸かなかった。
普段から朝食を食べないのに、今はこの環境である。
だが、そのまま放置しておく気にもなれなかった。
今まさに、非常事態なのだ。
平時と同じ行動ではだめだ。
気力と体力を保っておかねば、乗り越えていけない。
「腹が減っては戦はできぬ」という言葉が脳裏に浮かんだ。
弁当のふたを開ける。
白米、厚焼き玉子、がんもどき、漬物が並んでいた。味噌汁もついている。
なんとも地味な見た目だが、構わず口に放り込んでいくと、あっという間に平らげてしまった。
味は、悪くない。
元哉は布団に横になったり、起き上がったりを繰り返した。
やることがなく、考えることしかできない。
これから、どうなるのだろうか。
不安と焦燥が、静寂の中で膨らんでいった。
