ミステリー小説『誤認逮捕状』第二章 十二
十二
翌朝、出社した元哉は仕事に集中できず、上の空だった。
昨夜、藤村から聞いた話題をメッセージで伝えてみたのだが、相変わらず素っ気ない返信ばかりだった。
ただ、若い刑事の言った通り、行政関連の手続きは煩雑なようだ。
デスクに置いてあるスマホが鳴った。
群馬本社にいる、安田からだった。
「事業部長、今ちょっといいですか?」
現実に引き戻された元哉は、すぐに仕事モードに切り替える。
「どうした?」
「カナダとタイの両工場から、オペレーション改善の要望書が届いたので、和訳して資料にまとめました」
「ありがとう。翻訳、苦労したんじゃない?」
「それが、ネットですごく精度の高いAI翻訳を見つけたんです。しかも無料なので、それをフル活用しました」
先日の会食以降、元哉と話すときの安田は、すこぶる機嫌がいいように感じられた。
「和訳したものをアベニーク向けの資料に落とし込むのですが、そこでご相談があります」
要望をどうまとめるかについて、方向性だけでも聞いておきたい。ついては、今日少し時間をもらえないかとのことだ。
「ちょっと待って」
スケジューラーで、業務予定を確認する。
「午後三時からなら、最大で一時間は取れるよ」
「じゃ、ウェブ会議の案内を送ります」
通話を終えると、元哉は社食にある自販機コーナーへと向かった。食堂では数人の社員が展開図をテーブルに広げて議論している最中だった。
パソコンの画面では全体像が見づらい場合、大きな紙に設計図面を印刷し、食堂の大きなテーブルで確認するのだ。だが、緊急性はないのだろう、彼らの会話にはリラックスした雰囲気が漂っていた。
この業界では、とかく短納期のオファーが多い。
大量生産ではなく、顧客ごとにカスタマイズされたものがほとんどであるため、想定外のトラブルが多発するからだ。それでも、顧客は開発スケジュールを遅らせることはできず、従って朝比奈工業のような下請けの中小企業にしわ寄せがくる。
だが困りごとを解決することは、顧客との信頼関係を築く絶好のチャンスともいえる。
朝比奈工業の社員たちには、そうしたマインドセットが確立されていた。
自販機の前に立ち、冷たい缶コーヒーを二本買った。一本は自分用、もう一本は手土産だ。社食を出ると、元哉は石橋のデスクへと向かった。
「今、ちょっといいですか?」
すぐに顔を上げた石橋が、柔らかな笑みを浮かべた。
「どうぞ」
自分のデスク脇にある予備の椅子を引き寄せ、元哉のためにスペースを作ってくれた。たったそれだけの仕草なのに、なぜか元哉の心は安らいだ。
「特別な話があるわけではなく、雑談です」
そう前置きしながら、缶コーヒーを手渡す。石橋は謝辞とともに受け取ったが、すぐには開けずに机の上に置いた。
元哉は、自身のプロジェクトについての話題から始めた。石橋の豊富な業界経験を頼りに、意見を引き出していく。
「そういえば、昨日のことだけどさ。製造部がレーザー加工機をやらかしたんだよ」
石橋が話題を変えた。
「やらかした?」
「新人が設定をミスってさ。出力の調整をし忘れて、厚板用のパラメータを、そのまま薄板に当てちゃったんだよ」
レーザー加工機の出力ミスが、ただの失敗では済まないことくらいは、元哉でも知っている。
「そもそも、新人に設定させていたのですか?」
「そうなんだよ。もちろん、設定後は上司が確認すべきなんだけど。それが抜けていたんだって」
「加工機は?」
「切削ヘッドが焼けちゃってさ。ノズルもレンズもダメ。センサーも反応しなくなって、エラーの警告が表示されたまま」
苦笑いを浮かべた石橋の表情には、どこか疲れがにじみ出ていた。
「すぐに修理費の見積もり依頼を出して、さっき返信が来たんだ。ヘッドの交換だけで百万円超えるって。しかも納期は三週間。現場は、ちょっとした地獄だよ」
「その新人さん、立場ないですね」
「まあ、怒鳴ったところでしょうがない。俺も昔、似たような失敗をしたしね」
「上司も、責任を追及されてしかるべきです」
製造部の課長の顔が思い浮かんだ。
「その辺も含めて、工場長が仕切ってくれてるけどね。とりあえず修理を優先して、生産計画を組みなおすところからだね」
小さなため息をついて、石橋が続ける。
「機械って正直だよね。ちょっとした油断で、あっという間に壊れる」
ちょっとした油断という言葉が、妙に重く胸に響く。
「逆に人間ってさ、慣れてくると確認を飛ばすんだよ。大丈夫だろうっていう慢心が、事故を起こす。機械は入力されたプログラム通り、正確に作業するだけ。考えようによっては冷酷だよね」
話題を変えるべく、元哉はデスク上の古びたミニチュアを指差した。
「それ、まだ置いているんですね」
若いころに、石橋が現場で使っていた工具を模したものであることは、以前に聞かされていた。金属の質感がリアルで、使い込まれたような傷跡まであった。
「原点みたいなものだからね。現場で汗をかいていた頃の気持ちを、常に忘れないようにと思って」
「さすがです。石橋さんは、私がこの会社で一番尊敬する人です」
「やめてよ、照れくさいから」
嬉しそうに缶コーヒーを開けてから、石橋がつぶやいた。
「警察が捜査に来たり、レーザーが壊れたり。なんだか災難ばかりだね、最近は」
「そういえば窒素の件ですが、何か続報はあったんですかね?」
「いや。社長からは何も聞いていないよ」
「そうですか」
「警察は、もう何かしらの報告を入れているかもね。でも、あの社長のことだから、穏便に済ませたくて、誰にも告げずに一人で対応してたりして」
石橋が、苦笑いを浮かべて続ける。
「社内で公にしちゃうと、どれだけかん口令を敷いても、取引先や仕入れ先に伝わっちゃうものだし。それも、誇張されてね」
「噂が噂を呼ぶってやつですね」
「まさに。まして、SNSなんかで社員がぽろっとつぶやいた日には、会社の悪評が一気に広がりかねない時代だからね。まあ、うちに本当に犯人がいれば、の話だけど」
適当に相槌を打ち、元哉は立ち上がった。
「お邪魔しました。いろいろ、参考になりました」
「こちらこそ。またいつでも来てよ」
石橋の笑顔は、変わらず穏やかだった。
昼食を挟み、午後三時前になった。
ノートパソコンを手に会議室のドアを押し開けると、冷気が一気に身体を包んだ。前の会議からつけていたのだろう。室内はひんやりとしていて、肌寒さすら感じるほどだった。
無意識に腕をさすりながら、元哉は奥の席へと歩みを進めた。
モニターとパソコンをシールドでつなぎ、ウェブ会議室に入室する。
エアコンの音が静寂の中に微かに響いていた。
安田が事前に送ってくれた資料に再度、目を落とす。
とても完成度の高いものだ。
すぐに、安田もウェブ会議室に入ってきた。
「すいません、お待たせしました」
「いや、まだ三時前だよ」
どのように会議を進めたらいいかと、安田が尋ねる。
「資料には目を通したけど、改めて説明してもらえる?」
「わかりました。では、こちらの画面をシェアします」
資料が画面に映し出され、説明が始まった。
第一章は「現状分析」。カナダとタイのそれぞれの業務プロセスが、使用しているソフトウェアの内容とともに、図解で丁寧に説明されている。
第二章は「課題抽出」として、現地スタッフの業務理解度、言語の壁、報告系統の曖昧さなどが列挙されていた。
第三章の「改善提案」では、プロセスの再編成プラン、研修プログラムの導入、翻訳支援ツールの活用など、具体的な施策が並ぶ。
画面を見つめながら、元哉は改めて感心していた。
翻訳された文章は、原文のニュアンスを損なうことなく、簡潔かつ的確にまとめられている。特に、技術的な用語や業界特有の表現に対する理解が深く、単なる直訳ではなく、文脈に応じた意訳が施されている点が印象的だった。
安田はいいAI翻訳を見つけたからだと言っていたが、しっかりと人間の手によって補正された痕跡があり、丁寧に作業していることがうかがえた。
「すごいね。特にこの部分」
元哉は、第三章の中ほどにある、研修プログラム案に言及した。
現地スタッフのスキルレベルに応じた段階的な研修内容が、表形式で整理されている。初級者向けには基本的な業務理解、中級者には報告書の作成とリスクアセスメント、高度なスタッフにはそれらに加えて現地リーダーの育成まで含まれていた。
「日本と違って、従業員の流動が激しいカナダとタイでは、社員が新しいオペレーションを覚えても、すぐに辞めてしまうことが多い。だから、ベースとなる研修プログラムがあることで、人が変わっても業務に滞りを作らない体制を作り出せる」
元哉の言葉に嬉しそうに笑った安田が、軽く頭を下げた。その表情には、誇らしさすら見て取れた。
「それから、これはアベニーク対策だけど、KPIの設定は現地の実情とマッチしている? コンサルはそういうところ、いちいち突いてくるから」
笑いながら、安田に話しかける。
「はい。現地の月次報告書と照らし合わせて、達成可能な範囲で設定しています。特に、初期段階では達成率よりも報告の正確性を重視するようにしています」
「そこまでちゃんと設計されているなら、問題ないね」
その他にもいくつか質問したが、安田はしっかりとロジカルに回答できていた。
元哉は改めてモニターに映る安田に向き直った。
「よし、これでいこう。アベニークにも、もう投げておいて。私の確認済みということで」
「わかりました」
「他に何かある?」
会議を終える決め台詞を問いかけると、安田が遠慮がちにコメントした。
「自分で作った資料をこんなに褒めていただいたの、この会社に来て初めてです」
「そうなの?」
「はい。普段は美崎さんにチェックしてもらうんですが、なんていうか、どれだけがんばっても、やって当然みたいな顔しかされませんから」
なんとも言えず、黙っておく。
「わかってるんです。美崎さん自身がすごく仕事ができる人だから。でも、それだと下の者のモチベーションは上がりません」
「そうかな。そう見えるだけで、本心は違うかもしれない」
「でも、少なくとも事業部長みたいに、口に出して褒めたりはしませんよ」
「かといって『それくらいやって当然』とも言っていないんだろう?」
「それはそうですけど……」
不満そうな表情で、安田がつぶやく。
「きっと、君の頑張りもわかってくれているよ」
「ただ、そういうのって、いわゆるハラスメントと同じで、相手にどう伝わっているかが大事ですよね。内心でどれだけ評価していても、伝わってなければ意味がないです。まして、態度からは褒めたり、高評価を与えるような雰囲気はゼロですし」
確かにそうかもしれないと、元哉も思った。
「じゃ、君から聞いたということは伏せて、それとなく美崎さんに言っておくよ」
慌てた様子で、安田が否定する。
「それはしなくていいです。そういうつもりで言っていません」
どっちなんだ、と内心で苦笑しながら元哉も応じる。
「君がそうするなというなら、しないよ。大丈夫」
「ありがとうございます」
ウェブ会議システムを閉じようとすると、再び安田が口を開いた。
「そろそろ復帰ですね、美崎さん」
「どうだろうね。まだ明確にいつ、とは聞いていないけど」
「このまま、ずっと事業部長の近くで仕事できればいいのに」
いつの間にか、窓から差し込む午後の日差しが会議テーブルを照らしていた。
「美崎さんが戻ってきたら、今みたいに事業部長と直に仕事できる機会がなくなっちゃいます」
「そうだね。でも、僕に質問があるときは、遠慮なく聞いてくれればいいよ」
「そういう問題じゃないんです」
「うん?」
「私が直接、事業部長に質問することを、美崎さんは嫌がるんです」
「それはつまり、命令系統を遵守することへの配慮じゃないのかな?」
「表立ってはそう見せていますけど、実際は違うと思います」
「……そうなの?」
「はい。もっと個人的というか、感情的な理由です」
話がややこしくなってきたなと思った元哉は、次の打ち合わせがあるからと嘘を付いた。
「寄居さん」
役職ではなく名前を呼ばれ、元哉は驚いて画面をみつめた。
「急に会社を辞めたりしないでくださいね」
「……どういうこと?」
「いえ、別に。なんか、そんな気がしただけです」
「大丈夫、辞める気はないよ。でも……」
「でも、なんですか?」
伏し目がちだった安田の目が、まっすぐにこちらを向いている。
「僕になにか困難があったら、ぜひ助けてほしいんだ。駐在の希望を叶えるためにもね。そして、もし君の駐在が実現したら、その時は……」
安田のどこか陶酔したような返事を聞き届けて、元哉はウェブ会議を閉じた。
