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ミステリー小説『誤認逮捕状』第三章 十八

十八
「配膳だ」
 この掛け声にもすっかり慣れてしまった。それがいいことなのか、悪いことなのか、元哉には判断がつかない。
 すっきりしない頭で朝食を受け取る。
 昨夜は、ほとんど寝られなかった。
 もちろん、十日間の勾留延長が原因だ。
 逮捕されたのは、木曜日の朝だった。
 昨日、勾留請求が承認されたということは、翌々週の月曜日までの勾留ということになる。
 今日は、土曜日。
 こんな場所にいなければ、今頃、ゆっくりと休日の午前を過ごしていたことだろう。
「くそっ」
 思いがけない弁護士の登場により、元哉は希望を抱いた。
 今頃は、もう釈放されて家に帰れる算段すら描いていたのだ。
 朝食の弁当は、半分以上を残した。
 食欲がない。
 布団に転がって、ぼんやりとしていた時だった。
「取り調べだ」
 警官に呼び出される。
 取調室に入ると、いつもの二人が待っていた。
 生気なく、元哉は椅子に腰かける。
「実は昨日、姫路に行ってきましたよ」
 藤村が告げる。
「え?」
「あなたが離婚された、奥様に会ってきました」
「由美(ゆみ)に?」
「はい。それに、明日菜(あすな)ちゃんにも」
 娘の名前を出されて、元哉の意識は一気に覚醒した。
「あなたの過去や人となりについて、より深い理解が必要だと思いまして」
 離婚後、引き取った娘を連れて、実家のある兵庫県姫路市に戻った元妻に、いったい何を聞いたというのか。
「由美さん、最初はすごく警戒して、話したがらなかったんです。当然ですね、いきなり埼玉から刑事がやってきたんですから」
「……」
「でも事情を説明すると、いろいろと話してくれましたよ」
 離婚以降、由美とは一度も会っていないし、近影すら見たことがない。
「明日菜ちゃん、いろいろあるそうですね」
「……」
「私は独身なので、由美さんから聞いた話を、その場ですべて理解することは難しかった。なので、埼玉に戻ってから調べました」
 手帳を開くと、藤村はNIPT、羊水(ようすい)検査、そして絨毛(じゅうもう)検査と、三つの単語を並べた。
「いずれも、妊婦が任意で受けることのできる検査だそうですね。出産前に、おなかの子に、ダウン症の可能性があるかどうかを調べるための」
 思い出したくない記憶の引き出しを、無理やり開けられたようだ。
 藤村が、由美から聞いたという回想話を始めた。
 
 
 結婚後の五年間、自然妊娠がなかった元哉と由美は不妊治療を始めた。
 タイミング法に始まり、人工授精でも妊娠せず、体外受精に踏み切った。
 やっとのことで受精卵が着床したものの、流産してしまった。
 二人して、泣いた。
 元哉は、必死で落ち込む由美を慰めた。
 無理することはない、子供のいない人生でも構わないと。
 不妊治療において、何よりも心身に負担がかかるのは女性側だからだ。
 だが、由美はあきらめなかった。
 その後も、体外受精を続けた。
 その甲斐あって、由美は再度妊娠した。
 大事な、大事なお腹の子。
 とにかく、大切にしようと話した。
 まだ、不妊治療に保険が適用される前のことだ。
 この時点ですでに、多額の治療費が発生していた。
 だが、生命はお金に換えられない。
 この子のために、やれることは全部やろう。
 そう決めて、NIPTを受けた。
 あくまで「念のため」という心持ちだったことを、由美は否定しなかったと藤村が補足した。
 結果は、まさかの陽性だった。
 落ち込む元哉と由美に、医師は羊水検査か、絨毛検査を勧めた。
 NIPTは外れることもあるからだ。
 夫婦で話し合い、羊水検査を受けた。
 次こそは陰性だ、この子に染色体異常はないのだと信じて。
 陽性だった。
 正気を失ったように、由美は絨毛検査も受けると主張した。一般的に、羊水検査の結果はほぼ百パーセントと言われる。もうひとつの検査を受ける意義はない。
 それでも、由美は絨毛検査にこだわった。
 元哉は、反対しなかった。
 いや、反対することに疲れていた。
 話し合いや議論で、お腹の子の染色体は変わらないのだ。
 もはや由美を納得させ、現実を受け入れさせるための手段として、元哉は絨毛検査に同行した。
 結果は、同じだった。
 同時期の性別診断で、女の子であることが判明した。
 娘を生むべきかどうか。
 夫婦の会話は繰り返された。
 互いが、答えを求めるのに必死だった。
 元哉は、ありとあらゆる想定をした。
 自分だけでなく、由美の身体と精神、由美の家族、そして夫婦関係。
 ネット情報だけでなく、図書館で専門書も借りた。
 体験者に話も聞いた。
 信頼する友人、先輩にも相談した。
 ある日、由美が言った。
 生みたい、と。
 嗚咽で何度も言葉を詰まらせながら、それでも生みたいと訴えた。
 だが、元哉は反対した。
 由美に、堕胎してほしいと頼んだのだった。
 結論が出ないまま、夫婦の会話も減っていった。
 元哉は、酒に溺れた。
 会社に内緒で、昼休みに近くのコンビニで酒を買い、公園の茂みでばれないように煽った日もあった。
 結局、元哉は由美の意思に従った。
 由美は喜んだ。
 だがそれは、妻を思ってのことではなかった。
 ましてや、ひとつの小さな命を、意図的に消し去ることへの罪悪感でもなかった。
 ただ単に、由美を説得し続けることに、疲れてしまっただけだった。
 もちろん、そんな本音は隠し続けた。
 そして、明日菜は生まれてきた。
 検査通りの、宿命を背負って。
 
 
 藤村が一息ついた。
 取調室には、エアコンの音だけが、かすかに響いていた。
 元哉は、自ら口を開いた。
「最初は、喜びもありました。そりゃ、どんなものを背負っていても、かわいいですよ。あんなに小さいのに、必死で呼吸して、泣いて、手足をバタバタさせて」
 不覚にも、涙腺が緩む。
「明日菜の小さな手に、僕の指を差し出すと、弱々しく握るんですよ。僕が笑顔を向けると、笑み返してくれる。由美の決断が正しかった。僕は道を踏み外すところだったって、思いました」
 藤村が、続けた。
 
 
 娘の症状が顕在化するにつれて、夫婦の負担は大きくなっていった。
 心身ともに疲労が重なり、余裕がなくなっていった。
 すると、行き場のない怒りや苛立ちが、元哉の心に積もり出した。
 なぜだ。
 なぜうちだけ、こんなに苦労しなければならないのだ。
 溜まり続ける不満。
 しかし、口にできないもどかしさ。
 常に、この子が生まれてきて幸せだと、自分にも周囲にも言い聞かせた。
 心の底からそう思える時もあった。
 だが、次第にその感情を薄れ、恨みつらみばかりが蓄積していった。
 止めていた酒に、元哉は再び溺れた。
 由美のサポートも手を抜くようになった。
 言い訳の炎を胸に燃やしながら、子育てに孤軍奮闘する妻を見て見ぬふりをした。
 夫婦の口論が多発した。
 子供の前で、けんかはよくない。
 そう主張する由美は、娘を寝かしつけると、決まりごとのように毎晩、元哉を責め立てた。
 一方の元哉は、アルコールで脳を麻痺させて、やり過ごした。
 勝手に言わせておけばいい。
 おれの知ったことではない。
 そんな本音を妻に隠しつつ、聞き流していた。
 だが、そんな生活が長く続くはずもなかった。
 毎晩のようになじられ、愚痴を言われ、泣かれ、悲劇のヒロインを演じる妻に、元哉の我慢は限界に達した。
 もうどうにでもなれ。
 自暴自棄になって、言い放った。
「……だから、おれは反対だったんだ」
 一度、本音を口にすると、決壊したダムのように、言葉が感情に乗って流れ出した。
 そして、決定的な一言、絶対に口にすべきではない言葉を、由美に浴びせた。
「……産まなきゃよかったんだ」
 
 
 取調室に、再び沈黙が訪れた時、藤村が言葉を継いだ。
「その一言が決定打となり、由美さんは明日菜さんを連れて実家に帰った。別居状態が一年続き、話し合いの結果、離婚が成立した。そうですね?」
 元哉は、小さく頷いた。
「あなたが埼玉に来たのは、関西を離れたかったからですね。あなたの地元、結婚後の住まい、そして妻の実家。すべて関西圏です。そこから離れたくて、あなたは朝比奈工業に転職した」
「……そうです」
「養育費の支払いがあるため、家賃の安いワンルームのアパートに住み、車も持たず、質素な生活に徹した」
「その通りです。でも……」
 問い詰めるように、元哉は藤村を睨みつける。
「それって、今回の件と関係あります?」
「関係あるかないかは、捜査の中で我々が判断します」
「……」
「ところで美崎さんですが、夫である遠山さんの葬儀と火葬を、無事に済ませたそうです」
 突然、藤村が話題を変えた。
「……そうですか」
「ご存知なかったですか?」
「……知りません」
「骨壺は自宅で保管しているそうですが、なにせ長い間の別居状態、そして遠山さんが行ったひどい仕打ちもあります。美崎さんとしても、いつまでも置いておきたくはないそうです」
「……でしょうね」
「かといって、遠山家と縁のある人とは連絡すら取れない。そこで、死亡時に遠山さんが住民票を置いていた日高市の共同墓地に埋葬するべく、市役所に相談しているそうです」
 初耳だった。
「もっとも、市役所としても、二つ返事というわけにはいかないそうです。いくら別居していたといえ、戸籍上は夫婦だったわけですからね。完全に身寄りがないとは言えない。なので、日高市としては特殊ケースとして受け入れが可能かどうか、検討しているとのことです」
「そうですか」
「もう一度聞きますが、本当に、今の内容を知らなかったのですか?」
「……知りませんでした」
 エアコンがしっかり効いているのに、元哉は身体が熱くなるのを感じた。
「寄居さん。あなたと美崎さんは、真剣にお付き合いをしているんですよね?」
「……はい」
「いつからですか?」
「それも、事件に関係あります?」
「大いにあります」
 真剣な表情を崩さず、藤村が答えを待つ。
「一年ほど前からです」
「おかしいですね」
 背もたれに身を預けて、藤村が続ける。
「一年も真剣にお付き合いしているなら、美崎さんとあなたは普段から連絡を取り合っているはずです。ましてや、美崎さんのご主人であり、あなたの友人でもある遠山さんが亡くなったんですから。それなのに……」
 今度は机の上で両手を組み、身を乗り出す。
「押収したあなたのスマホを調べましたが、美崎さんと連絡した痕跡が見つかりませんでした。通話履歴も、ラインもです。なぜでしょう?」
「……」
「寄居さん?」
「……最近は、僕からは連絡しないようにしていました」
「なぜですか?」
「気を遣ったからです。別居中とはいえ、夫を亡くしたわけですから。それに、今おっしゃった葬儀とか火葬とかで、忙しいだろうなと思って」
「でもね、過去に遡ってもないんですよ、履歴が。最近のものだけじゃないんです。おかしいと思いません?」
「……」
 探るような目つきで、藤村が続ける。
「では、こう言ったらどうでしょう。あなたは、ラインのほかにもメッセージングアプリを使っていますね? 送受信したメッセージが、自動で消去される機能で有名です」
「……」
「奇妙なことに、そちらのアプリの中身を調べると、履歴がまったくありませんでした。ひとつも、です。インストールしておきながら、そんなことありますかね?」
 左胸の鼓動が速くなる。
「……刑事さんが言っているアプリは、シンボルのことですか?」
「そうです」
「ご指摘の通り、美崎さんとはシンボルを使ってやり取りしていました」
「では、なぜ履歴がないのですか?」
「常に消していたからです。会話ボックスごと」
「理由は?」
「念のためです。別居中とはいえ、彼女と遠山は夫婦関係にありましたので。不倫の証拠は残さないようにしようと」
「美崎さんとは、どんなやり取りをしていたのですか?」
「他愛もないことです。近況とか。最近読んだ本の話とか。それに、ここ最近は向こうの返信もすごく素っ気ないものだったんですよ」
「それは、なぜだと……」
 物音がしたかと思うと、佐岡が藤村の会話を止めた。
「どういうことだ?」
「……何がですか?」
 初めてまともに、中年刑事の声を聞いた。
 低く、くぐもっている。
「以前とは、返信の様子が異なっていたのか?」
「……そうです。最近になってですけど」
「いつからだ?」
「ですから、最近です」
「最近とは、いつだ?」
「……はっきり覚えていません」
「遠山の死の、前か後か?」
「……少し前から、かもしれません」
 次の瞬間、佐岡が突然、椅子から立ち上がった。
「あ、佐岡さん?」
 声をかけた藤村を振り返ることもなく、中年刑事の姿が部屋から消えた。

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